序章 黒鴉の爪痕 その3 新野城の青年たち、そして趙子龍
「劉封のとなりにいるのが、孫直。孫乾の弟だ。
お調子者だが、悪いやつじゃない。見ての通り、たいした美男子だろう?
女たちはこいつを追いかけまわして、毎日大騒ぎだ」
と、劉備は紹介しつつ、カラカラと笑う。
それにつられて、本人もへらへら笑いながら、礼を取ってきた。
たしかに、絵に描いたような優男で、女たちが喜びそうな柔らかな雰囲気をまとっている。
しかし、だらしなさそうな印象も受ける。
衣裳の着こなしが悪いとか、髪型が崩れているとかではなく、顔の筋肉の動かし方に締まりがない。
孔明と目が合うと、上目遣いに様子を探ってくる。
堅物そうな兄の孫乾とは、だいぶ様子が違って、軟派な人物のようだ。
「こいつは、五年前に我らの陣営に加わった。
それまで田舎に引っ込んでいたのだが、年の離れた兄貴の公祐(孫乾)をたよって、荊州にやって来たというわけさ」
「それは感心ですね」
孔明が言うと、またへらりと孫直は笑って見せた。
「その隣が、簡雍の弟の簡啓。
兄貴とちがって、こちらは真面目なやつだ。
正直者なので顔にすぐに出るのも兄貴とちがうところだな」
その簡啓は、どうやら言葉の通りの人物らしく、劉備の紹介に顔を赤くしている。
小顔で、兄の簡雍とは対照的に内気そうで、つぶらな目の青年である。
目が合ったので、微笑んで見せると、簡啓もまた、ぎこちなくだが微笑み返してくれた。
周りの目があるため、まだオドオドしているようだが、慣れればすぐに打ち解けてくれそうだなと、孔明は判断した。
「それと、おまえはどうしてそんな後ろに引っ込んでいるのだよ? こっちにこい、そうそう。
ただでさえ、おまえは目立たぬのだから」
といって、劉備が奥から引っ張り出すように連れてきたのが、これといって大きな特徴のない、中肉中背の、表情も冴えない武将だった。
「陳到、あざなを叔至と申します」
劉備の紹介を待たずに、本人が名乗る。
孔明はつづきがあるかな、としばらく待ったが、それ以上でもそれ以下でもなく、陳到は礼を取ると、またさっと奥のほうに戻ってしまった。
それを見て、劉備が呆れている。
「おまえは本当に目立つのが嫌いだなあ。
孔明、これでもこいつは、新野でも一、二を争う武芸の持ち主なのだよ。
でも、控えめすぎるくらい控えめなので、名前がちっとも広まらない。
しかも、趙雲の影に隠れてばかりいる。もったいないやつだよ、ほんとうに」
劉備にそこまで言われても、当の本人たる陳到は知らん顔。
たしかに平凡な容姿の、次に会っても思い出せるかどうか、といったくらいの人物だが、この態度を見るに、肝は据わっているようだなと、孔明は思った。
「その陳到の上役なのが、趙雲、字を子龍だ。
子龍、おまえもまた、ずいぶん後ろに引っ込んでいるな。こっちに来て、挨拶をしてくれ」
ほぼ最後にあらわれたのが、趙雲であった。
目が合うと、趙雲は、わずかに微笑んで見せた。
あまり感情を表に出さない男なのか、笑い慣れていない、というふうである。
麋竺らわずかな家臣をのぞき、愛想のない家臣たちに引き合わされ続けていた孔明からすれば、あらわれた趙雲の、わざとらしさのない好意的な反応は、ホッとするものがあった。
話をしやすそうなひとだ、というのが第一印象である。
「子龍はわしの主騎(ボディーガード)をつとめてくれている。
孔明、しばらくおまえの主騎も兼任してくれるそうだ。
年が近いし、おまえも子龍も真面目な質だし、仲良くなれるのではないかな」
孔明は劉備から、城に入るまえに、万が一にそなえて主騎を付ける、と言われていた。そうか、このひとが、とあらためて趙雲を見る。
背丈は孔明と同じくらいで、しかし体形は武将らしく、しなやかなうえにも頑丈そうだ。
漢らしい凛々しい美貌に恵まれていて、表情こそ乏しそうだったが、その分、誠実そうに見えた。
すくなくとも、かれから敵意は感じられない。
劉備が、趙雲を孔明の主騎に、というと、家臣たちから、
「兼任か。ちと過保護ではないか」
という声が聞こえてきた。
それがしっかり耳に入ったらしく、劉備は胸を張り、皆によく聞こえるように声を張り上げて、言う。
「前任の軍師であった徐元直(徐庶)どのが曹操に引き抜かれたことは、みなも知っての通りだ。
あのときは、わしも身を裂かれる思いであった。
わしは、この孔明のことも大事に思っておる。
また同じように身を裂かれるような思いをするのはこりごりなのだ。
だから、子龍を孔明の主騎につけて、守ってもらおうと思うておる。
けして、過保護だからではないぞ」
劉備が真面目な顔で宣言したので、みなもしゅんとして亀のように首を縮こまらせた。
なかには、孔明のせいで叱られた、と言う目を向けてくる者もいる。
やれやれ、前途多難だな、と孔明はこころの中で、そっとため息をついた。
つづく