序章 黒鴉の爪痕 その2 趙雲の提案
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「軍師の部屋は、わが君の部屋のそばに用意してある。付いてくるといい」
城に入るなり、趙雲はそう言って、無表情のまま、ずんずん廊下を進み始める。
歩幅が広い。
孔明はすこしばかり早足になってそのあとに続きつつ、広い背中を観察した。
『徐兄と同じ年頃だろうか。徐兄も愛想とは縁の遠いひとだったが、このひとも同類だな』
頭頂で結った、くせのない黒髪が、馬の尾のようにゆっくり揺れている。
いっぽうで、徐兄こと、徐庶、字を元直は、くせのひどい髪をうまくまとめて、隠者が愛用している頭巾をいつもかぶっていた。
背格好は似ていない。
徐庶はもう少し背が低かったし、何かから咎められているかのように、いつも俯き加減で、しかも猫背の傾向があった。
趙雲は胸を張って、堂々と歩いている。
勝手知ったる自分たちの城のなかだから、というのもあろうが、境遇の差というのもあろう。
徐庶は若い頃に任侠の道へ進んだことがあり、若気の至りで、戦場ではないところで、人をあやめたことがあった。
捕えられたものの、かれに好意を寄せていた人々によって助け出され、おたずねものになった。
しかしめげずに、流浪の末に学問をおさめ、劉備の軍師になるまでになっていた。
だが、その才覚に目をつけた曹操によって母を人質にとられてしまい、やむなく劉備の元を去っていたのだ。
孔明と徐庶は水鏡先生こと司馬徽の門下生で、兄弟のように仲良く、ときに手ごわい好敵手として切磋琢磨していた。
孔明は徐庶を本当の兄ように慕い、そのあとを追って、かれに追いつけ追い越せと、ひたすら努力する日々を送っていたほどだ。
一方の趙雲の、劉備から聞いた経歴はというと。
冀州の常山真定の出身で、もとは公孫瓚に仕えていた。
若くして、かの白馬義従につらなり、実績をあげていたさなかに、劉備が公孫瓚のもとに転がり込み、世話になっていた。
そのさいに、公孫瓚の命令で劉備の主騎となったという。
その後、いったんは劉備と別れるも、長兄の訃報をきっかけに公孫瓚のもとも辞し、天下を放浪したのちにふたたび劉備のもとへ馳せ参じる。
以後、劉備が袁紹軍から抜けて曹操を避け、荊州に身を寄せる過程においても同道し、いまも劉備の主騎をつとめている……
もっと聞いた話では、少々変わり者で、槍の名手で風貌もよく、性格もぶっきらぼうだが誠実で、悪い点が見当たらない状態でありながら、浮いた噂ひとつなく、劉備たちがいくらすすめても所帯を持とうとしないという。
「わしが天下を取ったあかつきに、妻を娶るというのだがなあ」
劉備はそういって、それでも嬉しそうに笑っていた。
それほど、趙雲から忠誠を誓われていることが、誇らしいのだろう。
『一途なたちのひとなのだな。真面目で、内気で、とくにいまのところ不親切ということもない。悪いひとではなさそうだ。仲良くできるといいのだが』
孔明がそんなことを考えているうち、あたらしい部屋に到着した。
中庭に扉が面した日当たりの良い部屋で、中の調度品も真新しいが派手ではなく、落ち着いて過ごせそうな空間となっていた。
必要なものはすべてそろっており、不足はなさそうである。
「これはありがたい、いい部屋ですな」
「わが君が、貴殿を二度目に訪れるさいに、みずから家具を選んだものだ」
淡々と趙雲が説明する。
「二度目は大雪の中でも貴殿に会えず、ざんねんがっておられた。三度目になって、ようやく貴殿を城に迎えられることになったのは、よかった」
劉備の、なにがなんでも孔明を城に迎えたいという決意のあらわれを知って、孔明はあらためて感激した。
「わたしのようなつまらぬ者に、ありがたいことです」
趙雲は、おや、というふうに、すこしだけ眉をあげた。
「無理やり連れてこられたので不満がある、というわけではなさそうだな」
意外に率直な男らしい。
「そんなことはありませぬ。わが君の訪問については、わたしが迷っていたのがいけないのです。天下をともに取ろうという誘いに、わたしが踏ん切りがつかなかった」
言いつつ、孔明は部屋から庭をのぞみ、その春霞の空の下で生き生きと芽吹いている若葉に目を細めた。
「今度こそは決意を固めました。わたしは、きっとわが君のお役に立って見せましょう」
「そうしてくれると、俺としてもありがたいが、しかし、注文がひとつある」
「なんでしょうか」
趙雲はすこし姿勢を正してから、まっすぐに孔明を見た。
「俺は今日から貴殿の部下になるわけだ。だから、その敬語はやめるべきだ。ほかの者に示しがつかぬ。俺のことは字で呼んでよい」
「年長者に対し、そういうわけにはいきませぬ」
「ではこうしよう。俺も貴殿をおまえと呼ぶ。そうすれば、いくらか『おまえ』も話しやすかろう」
「提案はうれしいのですが、逆効果では? 新参者があなたを顎で使っているように見える気がしますが」
「徐軍師は俺に遠慮はしなかったぞ」
「それはあなたと徐兄の年が近かったからでしょう」
「たしかにそれもあったが、徐軍師は、自分がわが君につづく立場になったという自覚を持っておられた。おまえもそれ相応の態度で俺たちに対応したほうがよい。あとでわかると思うが、この城の者はどいつもこいつも海千山千。一筋縄ではいかぬ者ばかりだ。遜りすぎていると、舐められるばかりだぞ」
旧来の家臣たちからの、ある程度の抵抗は、孔明も予想している。
その点については、劉備も包み隠さず、
「癖のある者が多いから、最初は苦労するかもしれない。だが、わしが潤滑油となって、軍師の働きやすいようにする」
と言っていた。
「心配してくださってありがとうございます、いや、ありがとう? ともかく、言葉遣いにしては善処しましょう」
孔明が答えると、趙雲はどうだか、というふうに、すこし冷めた目を向けてきた。
「なかなか度胸がありそうだから、この城の者たちとすぐに馴染むとは思うが……いや、どうかな。ともかく、わが君が俺をおまえの主騎に選んだということは、曹操の引き抜きに警戒しているだけではなく、この城の者たちの反発からおまえを守れということでもある。俺も最善を尽くす。おまえもその心づもりでいてくれ」
「そうします、いや、『そうする』? すみませぬ、初対面の年長の方にくだけた話し方をすることに慣れておりませぬので」
「そっちはすぐに慣れるだろうさ」
言いつつ、趙雲は、口を閉ざした。
そして、なぜだか孔明をあらためてじっと観察してくる。
なにか言いたいことがありそうだなと孔明が待っていると、趙雲はことばを呑み込んだようで、肩の力をスッと抜き、言った。
「今宵は歓迎の宴がある。そこでみなにおまえを紹介するそうだ。それまでここで休むといい。風呂も支度してある」
「なにからなにまで、気遣いをありがとう」
「仕事だからな。俺はわが君に報告があるゆえ、何か用事があったら、そこいらにいる仕女に言付けするがいい。みなおまえに興味津々だから、よろこんで用事を聞いてくれるだろう」
「歓迎されているという意味でしょうか」
孔明のことばに、趙雲は、「どう取るかは自由だ」と言って、部屋を出て行った。
あとに残された孔明は、なんとも奇妙なものに出会ったような、キツネにつままれたような気分を味わった。
『わたしの心配をしてくれているのだろう、たぶん。悪い人でもない、おそらく。だが、なんとも心が読めないひとだ。あの人の提案に乗って良いものだろうか』
言葉遣いひとつだが、そのひとつが、いらざる反発を生むかもしれない。
かといって、親身(?)になってくれている趙雲の提案を無碍にするのも心がとがめる。
「困った」
思わずつぶやいてから、孔明はふうっと大きく息を吐いた。
そこではじめて、自分がこの城に入ってから、かなり緊張していて、呼吸が浅くなっていたことに気がついた。
つづく




