序章 黒鴉の爪痕 その4 不満分子
孔明が驚いた顔を見せたので、趙雲が困ったような顔をしている。
「おどろいたか?」
「おどろきました。気配がなかったものだから……で、孫乾どののとなりにいるのが、弟? 孫直というひとは、弟というわりには、年が離れすぎているようですが」
「孫乾が四十近くで、孫直が二十の半ばかな。親子ほど離れているが、母親がちがうそうだ。孫乾がこの新野に落ち着いたのを知って、六年ほどまえに北海郡から新野にやってきた」
「ああ、それで。なるほど」
孔明が納得していると、孫兄弟のあいだに割って入った、赤ら顔の団子鼻の男が、銅鑼のような声で言った。
「まあまあ。公祐(孫乾)の働きについては、わが君も、城の者もみな認めておる。そう僻むでない。あの臥龍先生とやらがどこまで戦力になるかはわからぬが、戦力になったところで、大先輩の公祐に敵うはずもなし。どうせわからぬことがあれば泣きついてくるようになるだろうから、貴殿はどんと構えて俺ばよいのだ」
がらがら声のその男は、言いつつ、酒瓶にじかに口を付けて酒を飲んでいる。
その様子を見て、麋竺が、
「行儀がわるいぞ、簡雍」
と叱る。
すると、麋竺のそばにいた頑固そうな面構えの三白眼の男が、吐き捨てるように言った。
「兄者、飲ませてやれ。飲まずにいられるかというのだ。わが君は、次から次へと田舎から『人材』とやらを引っ張ってきては、やつらの好きなようにさせるのだ。だいたい、そいつらときたら、親が人質に取られたとかいってさっさといなくなったり、三度もわが君が自分の庵に来なけりゃ腰もあげなかったり、わがまま放題だ。やつらのわがままは、ぜんぶわれらに返ってくるのだぞ。迷惑なことだ」
麋竺は、そんなことはあるものか、と三白眼の男を叱るが、男は知らぬ顔である。
孔明は、自分が腐されるのはともかく、徐庶をばかにされるのは我慢がならなかった。
よほど立ち上がって、そいつに喧嘩を売ってやろうかと思ったほどだったが、趙雲が、
「あいつは子仲(麋竺)どのの弟の麋芳だ。兄の子仲どのとはまるでちがって、妹がわが君の奥方であることをいいことに、やりたい放題をしている。徐軍師も、だいぶ苦労なさっていたようだぞ。だが、基本的には下らぬ奴だから、真正面から相手にする必要はない」
と説明をしてきたので、孔明も怒りがほどけてしまった。
「あなたもあの御仁には苦労していそうだな」
趙雲は、まあな、と短く答える。
がらがら声の簡雍と、刺すような嫌味ばかり言う麋芳に、紅顔の美青年が加わった。
「公祐どのが不貞腐れるのも、麋芳どのがお怒りになるのも、どちらも無理もない。今宵は飲みましょう、御一同。そうでなければ、やっておられぬ」
紅顔……いや、厚顔だな、と孔明はむっとして思った。
新参者が場を乱すことを控えているのに付け込んで、かれらは言いたい放題。
とくに、あらたに加わった美青年は、顔立ちがいいだけに、悪意のある表情を浮かべると凄みがあった。
「あれが劉封。劉州牧(劉表)との縁と、勇猛であることをわが君が気に入って、養子にした方だ」
「ふむ」
「酒が回ると毒を吐きがちでな」
「そういうのを、世間では酒乱と言うのでは」
「酒乱というほどではないさ。酒乱とは、益徳(張飛)みたいなやつを言う。ともかく、あれもたしかに有能ではあるが、妬み深くていかん」
そうか、わたしは妬まれているのか、と思いつつ、ちらっと趙雲を見る。
趙雲はあいかわらず表情の乏しい顔で、初対面の孔明の悪口という、困った話題で盛り上がっている一同をじっと見つめていた。
孔明の視線に気づいたか、趙雲がぼそっと言う。
「明日から苦労するかもしれぬな」
「覚悟の上ではあるけれど」
思った以上に、新野城でやっていくのは大変そうだなと、孔明はちいさくため息をついた。
つづく




