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涙の章 その7 煙に巻く女たち

唖然としていると、藍玉(らんぎょく)がとりなすように言った。

夏侯蘭(かこうらん)どの、嫦娥(じょうが)先生は、わたしたちの面倒を見てくださっている医者なのよ」

「医者とな。女の身でか」

そのことばに、嫦娥は、悪いかとでも言わんばかりの挑戦的な目を向けてきた。

それがあまりに遠慮のない強い目だったので、かえって夏侯蘭はあきれてしまった。

世の中は広いと分かっていたはずだが、まだまだ知らないことがあるらしい。

喧嘩にもつよい、恐ろしい女の医者が存在するとは。


「嫦娥先生、夏侯蘭どのは、狗屠(くと)を倒すため許都(きょと)から来たひとです」

「信頼できるのか」

「悪いひとではありませんわ。奥さまが狗屠の犠牲になったそうです」

と、後ろのほうの言葉を言う時には、藍玉は声を(ひそ)めた。

さらに、藍玉は言う。

「こういう夜もあろうかと、(かくま)っておりましたが、ずいぶん早くに役に立ってもらえそうですわ」


「待て、壺中(こちゅう)とはなんなのだ。狗屠と関係あるのか」

「狗屠は襄陽(じょうよう)にいた」

「襄陽だと」

驚く夏侯蘭をしり目に、冷静な藍玉がたずねる。

「どちらですの」

「わたしには本物のほうか、偽物のほうかわからなかった。遠すぎたのでな」

「待て、本物だの、偽物だの、どういうことだ」

「今は貴殿の知るところではない。

今夜、連中とともにあらわれるかもしれぬし、あらわれないかもしれない」


夏侯蘭は、目の前の、謎めいた女たちをあらためて観察しなおした。

謎かけをして、ふざけている様子でもない。

深刻そうな顔をして、態度も落ち着かず、そわそわしている。

子供が攫われるとか言っていたが、それと狗屠に関係が?

そして、この女たちとも、なんのかかわりがあるのだろう?

気味が悪い、と思った。

おれはこの時のために匿われているらしいが、たんに死んだ娼妓(しょうぎ)を手厚く葬った礼に助けられたわけではないのか。

藍玉の思惑はどこにあるのか、そして、嫦娥は何者なのか。

壺中とはなんなのか、狗屠が本物か、偽物か、ということはどういうことなのか……


「夏侯蘭どの、いきなりで申し訳ないけれど、わたしについてきてくれるかしら。

ひとりでもなんとかなるだろうけれど、万が一ということもあるから」

「どこに行くのだ」

「街へ」

「各門はすでに閉ざされてしまっているだろう」

「抜け道はどこにでもあるわ。それとも、今夜は留守番をする? 

狗屠があらわれるかもしれないのに?」

いささか挑戦的な藍玉の口調につられるように、夏侯蘭は答えた。

「いや、同道しよう」

「助かるわ」


藍玉は短く言うと、支度をしてくるから店の前で待っていてほしいと言って奥へ行ってしまった。

嫦娥のほうはというと、さきほどの妓女の面倒をみるためだろうか、夏侯蘭にはほとんど注意をはらわず、さっさと立ち去っていこうとする。


あわてて、夏侯蘭はその背中に問うた。

「嫦娥どの、あんたは狗屠が何者か、知っているのか? 

だったら、いったいだれなのか教えてくれ」

嫦娥は振り向くことすらせず、夏侯蘭に言う。

「答えたら、おまえは狗屠をどうする」

「斬る」

「明快だな。今夜、あらわれるかもしれないのだから、わたしが答えるまでもないだろう。

それともおまえは、正体のわからない敵は怖いのか」

「そういうわけではない」

「だったら、今夜仕留めたあと、じっくりその顔を見ればいいではないか。

わたしが答えるまでもない」

嫦娥はそう冷たく突き放すと、二度と振り返ることなく、夏侯蘭の前から姿を消した。


あれは何か知っている。

だが、なぜ答えをためらう?


妓楼の外に出ると、夏のぬるい夜気が身を包んだ。

蚊がぷうん、と鳴きながら頬を狙ってきたので、すかさず潰す。

ふと空を見上げると天狼星が見えた。

わがままな美女のように輝く天狼星が。

なにもかも謎めいた夜には、似つかわしい輝きであった。


つづく

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