涙の章 その6 大立ち回り
しかし酔客のほうは、べろんべろんに酔っているらしく、相手が男か女かも、わからないらしい。
まなじりを上げて、嫦娥に言う。
「黙っていろ、この女は、生意気に、俺の言うことを聞かないんだ」
「あんたの下劣な頼みは聞けないよっ、人のことをバカにしやがって!」
涙声のまま、追われていた妓女が怒鳴り返した。
それを聞くと、さすがに見物していた男たちも決まりが悪そうな顔をし、妓女たちはそれぞれ嫌悪感で、きれいな顔をゆがませた。
「重ねて言う。そのひとを離せ」
怒りを含む、低い声だった。
しかし酔客は、警告を受けても、それを鼻で笑って受け流す。
それどころか、ふところから短刀を取り出して、さらに威嚇をはじめた。
「俺に手を出そうっていうのか、面白え、やれるものならやってみなっ」
嫦娥は眉間の皺を、さらに深くした。
さすがにこれはまずかろうと、夏侯蘭が前に出ようとすると、またもや藍玉が肩を強くつかんでくる。
「黙ってみていなさいな」
「しかし」
酔客は喧嘩慣れしているらしく、にやりといやらしく笑って、短刀をひらひらと見せつける。
しかし嫦娥はまったく動じない。
どころか、その手にいつの間に持っていたのか、中に灰がたっぷりつまった香炉持っている。
そして、その中身をためらいもなく、ばっと酔客に浴びせかけた。
「てめぇっ、このっ」
目に香炉の灰が入ったらしく、酔客は、短刀を持っていないほうの手で、目をあわててこすり、視界を取り戻そうとしている。
しかし、頑固に、短刀を手放そうとはしない。
とはいえ、視界も定まらない状態では、刃の切っ先も惑っている。
嫦娥は機を逃さなかった。
はおどろいたことに、素早い動きで、もがき、威嚇する酔客の短刀をかわした。
そして、するりと身をすべらせるようにして酔客のふところに飛び込むと、その首筋に、どん、と手刀を打った。
いや、単に手刀を打ったのではなった。
その指と指の間に、なにかが仕込んであったのだ。
それに夏侯蘭が気づいたのは、酔客が空気が抜けたかのように白目をむいて、足元から崩れ落ちたからであった。
「こんどこのひとに乱暴をはたらいたら、この針をおまえの心の臓に突き刺してくれる」
嫦娥は言うと、指と指のあいだに仕込んでいた長い針を男の首から引き抜いた。
針に薬でも塗ってあったのだろう。
あざやかな手並みであった。
喧嘩をなかば面白い見世物のようにして見ていた男たちは、ぞっとしたように青くなり、一方で妓女たちは、胸がスッとしたのだろう、わあっと楽し気に歓声をあげた。
嫦娥はというと、一瞬、得意そうに笑ったが、すぐに平淡な表情になる。
そして伸びている酔客を軽く蹴飛ばすと、成り行きをみていた藍玉のほうに顔を向けた。
「藍玉、こいつをいまのうちにつまみ出したほうがいい。
それと、このあたりの妓楼で二度と迷惑をかけることができないよう、人相書きも手配してしまえ」
「よい考えですわ」
藍玉は言って、店の下働きの男たちに、てきぱきと指示をはじめた。
ひとりがさっそく人相書きをつくりはじめ、ほかの男たちが酔客を戸板に乗せて外に運び出そうとしている。
殴られそうになっていた妓女は、何度も嫦娥に礼を言っていた。
「ひどい目に遭ったね、怪我はないか。
あとで看てあげるから、部屋に戻っておいで」
酔客に対する敵意のこもった声とは打って変わって、妓女には優し気に話しかける。
その声を聴いて、ああ、ほんとうにこれは女だな、と夏侯蘭は納得した。
見物していた男たちは、やれやれというふうに息をついて、それぞれの相手とともに個室に戻っていき、あるいは自分の家に帰っていった。
妓女たちは、酔客が荒らした大広間の片づけに忙しい。
「心配しておりましたのよ、旅はいかがでした」
藍玉がいうと、嫦娥はちらりと夏侯蘭のほうを気にしつつ、答えた。
「残念だが、失敗だ」
「まあ」
「しかし、まだ希望はついえていない。あの方がここを発ったそうだな」
「ええ、入れ違いに」
「それでよい。わたしのできることは少ない。あの方の知らせを待つだけだ」
「例の方はいずこに」
「あの家にいる。ところで藍玉、よくない知らせだ。
ここに戻る途上で、壺中の連中を見かけた。また子供を攫うつもりらしい」
藍玉は答えず、目を見開いた。
「止めねばならぬ。だが、わたしは今の子を診なければならない。代わりに行ってくれるか」
「わかりました。では、ここにいる夏侯蘭どのと一緒に」
いきなり名を呼ばれた夏侯蘭だが、まったく会話についていけない。
この女たちは、いったい何の話をしているのだと戸惑うばかりである。
そもそも、嫦娥なる女が何者かすらわからない。
つづく




