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涙の章 その5 嫦娥

妻のことを思いだすと、辛くて、いまも胸が張り裂けそうになる。

旅の途中で置いてきたはずの感傷に溺れそうになり、夏侯蘭(かこうらん)は頭を強く振った。

こんな弱気でどうする。

追う相手は、女を切り裂いて遊んでいる狂気の殺人鬼。

いまから悲しみに溺れていては、いざというときに冷静に敵を仕留められない。


夏侯蘭が、感傷を振り払おうとしていた、そのときである。

妓楼(ぎろう)のおもてのほうから、女のつんざくような悲鳴が聞こえてきた。

はっと思うより先に、体がうごいていた。

狗屠(くと)が出たのではと思ったのである。


腹の底から湧き上がってくるようなどす黒い殺意を抑えつつ、妓楼のおもてに飛び出そうとする。

しかし、それより先に、妓楼の大広間に集まっている男たちの山に、はばまれてしまった。

男たちはみな、だらしのない格好をしており、帯さえまともにつけていない者すらいる。

見るからに、それぞれの部屋から飛び出してきた、妓楼の客であった。


女の悲鳴が男たちの山の向こうからまた聞こえて、夏侯蘭はかれらの肩越しに声の主を探した。

するとおどろいたことに、大広間の真ん中で、ひとりの妓女がひどく酔っぱらっている男に腕をつかまれて、悲鳴をあげているのだった。

男たちのほか、妓楼中から。おしろいの良い香りをさせた女たちがあつまっている。


男たちが物見高くしているのと対照的に、女たちは仲間の妓女を救おうと、男をなだめようとしたり、あるいは罵声を浴びせたり、なかなかににぎやかである。

どうやら、客と妓女がもめているようであった。

あたりには、倒れたうえに壊れていしまった衝立(ついたて)、割れた瓶子や盃、乱雑に転がる卓や椅子、無残に中身を散らしてしまっている香炉などが散乱している。

女はそのなかを悲鳴を上げながら必死に逃げ惑うが、男のほうが執拗に追いかけている。


「なにがおこったんだい」

夏侯蘭の目の前の男が、となりの男に呑気にたずねている。

「さて、よくわからんが、どうやらあの酔っ払い、女に無体な真似をしようとして、断られたらしいな」


狗屠が出たわけではなかったか、と落胆した夏侯蘭であったが、酔客がいやがる妓女に手を上げようとしているのが目に入ると、心を決めた。

男たちの山をかきわけて前へ出る。

女を助けてやろうと思ったのである。

一方の酔客は、泣きわめく若い妓女の腕を無理にひっぱり、自分のほうへ引き寄せ、空いたほうの拳をその頭にめがけ、振り下ろそうとしていた。

それを仲間の妓女がいさめようと、あえて笑顔を浮かべて優しく近づくのであるが、酔客はよほど頭に血が上っているのか、それを乱暴に振り払い、

「近づくなっ、おれはこいつを()らしめねばならん」

と威嚇までする始末。


どういう事情があれ、か弱い女に暴力をふるう男は許せない。

さきほどまで抱えていた殺意の行き場を失くしていた夏侯蘭は、酔客を黙らせるべく前へ出ようとした。

しかし。

そのまえに肩を強く、ぐっと掴まれてしまった。


「だめよ」

見れば、藍玉(らんぎょく)である。

「なにがだめなのだ」

いらだちより驚きが先に立って、つい尋ねると、藍玉はそれには答えず、目で酔客のほうを見るよう促してきた。

「大丈夫だから」

どういう意味だろうとうろたえていると、さきほどの酔客のほうが、女に殴りかかるより先に、

「ぎゃっ」

と情けない声をあげた。


見れば、男の後頭部に、倒れていた香炉の蓋が、思い切り当たったのであった。

だれが投げたのだろうと見れば、そこにすらりと背の高い青年が紅い頬をして立っていた。

吊り上がり気味のすずやかな目元は怒りに満ちて、ザクロのように赤いくちびるは、いまは不機嫌そうに曲がっている。

旅装で、すこしばかり旅のほこりがついてはいたが、それがその青年の凛とした美しさを損ねてはいなかった。


「なにをしやがる、この青書生めっ」

みるからに屈強そうな酔客が怒りで火球のように赤くなっても、青年は全くひるまない。

かなり場数を踏んでいるなと感じさせる落ち着きであった。

「そのひとを離せ」

青年が声に怒りを込めて言う。

酔客に殴られそうになっていた妓女が、涙声で青年に呼びかけた。

嫦娥(じょうが)さまっ」


おや、と夏侯蘭は違和感をおぼえた。

嫦娥といえば月の女神の名前である。

男に対してつける名前としては、似つかわしくない。

その違和感のまま、よくよく青年を見て、夏侯蘭は気づいた。

青年……男ではない。

女だった。

男装した背の高い女。


つづく

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