結城家にて
馴染みのある、百合の上品な香りが鼻をくすぐる。
白百合は薄っすらと目を開けた。
すると、真っ白で汚れの少ない天井と、煌びやかなシャンデリアが見えた。
どうやらベッドの上にいるらしい。
柔らかな、ベビーピンクの生地でできたネグリジェを着せられていた。
なぜこうなっているのか思い出そうとすると、ベッドの脇から聞き慣れた声がした。
「お嬢様! 大丈夫ですか!?」
声のした方に目をやると、彼女の乳母で保護役の寺島 実言が、心配と安堵の混じった表情で、顔を覗き込んできた。
この頃は、特にやつれているように見える。
「ばあや……。私なら大丈夫。痛いところなんてひとつもないし。」
そう言って彼女はベッドから上半身を起こす。
柔らかなマットレスに、腰が沈んだ。
そんな彼女を見て少しは安心したのか、実言は口を開いた。
「昨夜は本当に申し訳ありません。私がお側を離れなければ、あんなことにはなっていなかったはずです……。なんとお詫びしたらよいか……。」
そう言って、ほとんど白色に近い頭を下げる。
実言は、後悔を滲ませ、唇を固く結ぶ。
いつもは活気に満ち溢れ、覇気のある彼女のこんな姿を見たのは、一体いつぶりだろうか。
そして、昨日の出来事を思い出す。
白百合は途端に申し訳なくなってしまった。
彼女は悪くない。まだ雇われてから日の浅かった彼を、信用しきってしまった自分の責任でもある。
「そんなに謝らないで。ばあやたちは悪くないから。それより……。」
白百合は、ゴクンと唾を呑み込むと言葉を続けた。
「昨夜、私を助けてくれた男を知らない?」
おそらく、意識を失った彼女を抱き留めてくれたのも彼だろう。
しかし…
その発言を聞くと、実言は苦々しい表情になった。
「あの九曜とかいう男のことですか?」
毒気を含んだ言い方だった。
彼のことを警戒しているのだろう。
当たり前だ。
白百合を救出しに行ったら、血だらけの謎の男が彼女を抱き抱えていたのだから。
「そうよ。彼は今どこに?」
実言は深いため息を吐くと、険しい表情で告げた。
「一応、今は屋敷の離れに置いています。プライベートポリスたちを固めて。」
それを聞き、白百合は肩の力を抜いた。
良かった。
もし、今彼がこの屋敷にいたら、考え事が山々になっていただろう。
昨夜助けてもらったことに関しては、とても感謝しているがまだ信用などしていない。
むしろ恐怖の方が強い。
離れとは言っても安心はできないが、少なくともここに居座られるよりはマシだ。
白百合は、足をベッドから下ろして、床に爪先をつけた。
まだ、布団の温もりが残っていた。
「それで、彼の話によるとお嬢様を殺し屋たちから守った、ということだったんですが。それは本当なんです?」
実言が何か言いたげな顔で問う。
「本当よ。それは。」
そこで一旦言葉を区切ると、彼女は深呼吸をする。
実言に嘘はつけない。
彼がプロポーズしてきたことも、正直に話さねばならないだろう。
白百合は実言の目をまっすぐに見つめると、覚悟を決め、言った。
「彼にプロポーズをされたの。だから私のボディガードになってもらった。そうしなければ、きっと私まで殺されていたから。」
緊張で、喉が渇くのを感じた。
彼女はどんな反応をするのだろう。
すると案の定、実言は面食らっていた。
あまりに驚きすぎて、言葉が発せなかったようだ。
だがそれも一瞬で、すぐに険しい顔へと戻った。
「どういうことです? 彼のプロポーズに応え、ボディガードになってもらったと?」
「そうよ。でもプロポーズに応えたわけじゃない。あくまで、ボディガードになることに対して返事をしただけだから。」
その言葉を聞いても、実言は納得していないようだった。
そりゃあそうだろう。
いくら殺されるかもしれないからと言っても、普通はそこでOKを出したりもしない。
だが、それはまだ彼の殺し屋としての一面を見たことがない人間にしかできない。
実言には、もうひとつ言っておかねばならないことがあった。
「彼について、もうひとつ話しておかなきゃいけないことがあるの。落ち着いて聞いてくれる?」
実言は顔を歪ませながらも、しっかりと頷く。
白百合は息を吸う。百合の甘い匂いがする。
そして言葉を放った。
「彼は、元・Lynxの殺し屋よ。そしてあの『prime』にいたとも言ってた。」
それを聞くと、とうとう実言は額に手を当て、宙を仰いだ。
無理もない。
なぜなら彼女も、元・国家機密機関の戦闘員だからだ。
Lynxのことならよく知っているだろう。
それにprimeのことも。
彼女は彼を屋敷から追い出すのだろうか。
そう思いながらじっとその様子を見つめた。
彼女は未だ、現実感が湧いていないようだった。
しかし、なんとか表情を元に戻すと、白百合へ問うた。
「彼は、どうだったんですか?」
「……あれが元・primeの力なのかと思った。」
正直に応えた。
そして、真剣な表情で実言を見据えた。
「ばあや。お願いです。彼をボディガードとして私の側においてください。」
そう頼み、彼女に深々と頭を下げた。
こんなに真剣に何かをお願いしたのは、本当に久しぶりだった。
だが、彼をボディガードとして手元に置いておきたかったのは、ただ命を守ってもらうためではない。
Lynx。prime。彼女が長い間、探し求めていたもの。
そして、その情報を誰よりも知っている男。
それを利用しないという選択肢など、どこにもなかった。
彼女の意図を汲んだのだろうか。
実言は苦渋の決断の末、
「分かりました。お嬢様がそこまで言うのなら。」
と言った。
その声と表情は固かった。
だがしかし、実言は何かを決意したようにも見えた。
そして白百合もまた、彼女なりに覚悟を決めたのだった。




