第八話【 正義感の強い、まっすぐな光 】
上場記念式典で玖芳子を落とすその日、
俺は
ただの「元腹心」で終わるつもりはない。
膿を出し切った後の、
新しい海星堂の実権を、静かに、
しかし確実に手にする。
その第一歩を、俺は今、踏み出していた。
1985年、俺は玖芳子の推薦という体裁で、
海星堂メンテナンスへの出向を命じられた。
表向きは
「不正の疑いを内部監査する要員」
としての出向だったが、
実際には、俺自身が仕組んだ人事だった。
玖芳子には、
「修理費の伸び率、やはり少し不透明です。
信頼できる人間を、
内部に置いておくべきです」
とだけ耳打ちしておいた。
彼女は、深く考えもせずに頷いた。
メンテナンス部門の現場に足を踏み入れて、
俺はすぐに、ある人物の存在に気づいた。
若手整備士の一人、
氷室という男だ。
彼は、部品の水増し請求に、
独自に気づいていた。
しかも、俺よりも先に、
伝票の控えを密かに集め始めていた。
「あんたも、あの数字、
おかしいと思ってたのか」
ある晩、俺は氷室を居酒屋に呼び出した。
「ああ。……このままだと、
いつか大きな問題になる。
上に報告しようと思ってる」
氷室の目には、
正義感の強い、まっすぐな光があった。
前世で、俺自身もこういう若手を、
何人も見てきた。
真面目な人間ほど、
正しいやり方だけを信じて、
組織の力学を甘く見る。
そして大抵、握り潰されて終わる。
その真っ直ぐさが、今の俺にとっては、
最大の障害だった。
今、正規のルートで報告されれば、
この不正は、俺の描いた筋書きより、
何年も早く、しかも
俺の与り知らぬところで発覚してしまう。
せっかく積み上げてきた布石が、
一人の青年の正義感一つで、
台無しになりかねなかった。
「上に報告して、どうなると思う?」
「不正が明るみに出て、正されるはずだ」
「甘いな。今上に報告したら、
揉み消されて終わりだ。
お前一人が、
営業所の隅にでも飛ばされて終わりだ。
証拠不十分、担当者の思い違い――
そういう扱いで片付けられる」
氷室の顔が、悔しさに歪んだ。
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「今は、大人しく証拠を溜め込め。
ただし、一人で溜め込むな。
俺と一緒にやれ。俺は本社の人間だ。
お前一人が握っている情報より、
俺と組んだ情報の方が、何倍も重みを持つ。
しかるべき時が来たら、必ず、
正しい形で、この不正にケリをつける」
「しかるべき時って、いつだ」
「会社が、
後戻りできないほど大きくなった時だ。
今潰しても、また同じことが起きる。
根本から作り直せる規模になるまで、
待つ必要がある」
半分は本音で、半分は方便だった。
氷室は、しばらく黙り込んでいたが、
やがて小さく頷いた。
「……分かった。あんたを信じる」
桧山、窪田、宇佐見に続いて、氷室という、
この計画にとって最も重要な駒が、
俺の手の内に加わった瞬間だった。
氷室を仲間に引き入れたことで、
俺はメンテナンス部門の不正の全貌に、
より深くアクセスできるようになった。
修理費の水増しだけでなく、
廃棄部品の横流し、
下請け業者への不当な圧力――
膿は、俺が思っていたより、
ずっと深くまで及んでいた。
一方、本社では、玖芳子の立場が、
さらに強固になりつつあった。
会長は、孫娘の「実績」を高く評価し、
翌年の人事で、玖芳子を
営業企画部の課長に昇格させる意向を
固めたという噂が流れてきた。
彼女の足元を支えているのが誰なのか、
玖芳子自身は、
いまだに正しく理解していない。
「詞荷科。あなたのおかげで、
私、また一つ上に行けそうよ」
「副所長――課長代理のお力です」
「相変わらず、口の減らない部下ね」
玖芳子は、機嫌よく笑った。
俺は、それに合わせて微笑みながら、
心の中では、
まったく別の計算をしていた。
玖芳子が積み上げる社内の地位、
氷室たちが握る
メンテナンス部門の不正の証拠、
桧山たちが築く現場の人脈――
そのすべてが、
いずれ一本の糸に収斂する。
糸の先を握るのは、玖芳子ではない。
俺だ。
ふと、氷室から聞いた言葉を思い出す。
「あんたを信じる」――
あの真っ直ぐな目が、
いつか裏切られたと知った時、
どんな顔をするだろうか。
それでも構わない、と俺は思う。
彼が今日握った証拠は、
いずれこの会社を生まれ変わらせる、
確かな一手になる。
彼自身がどう思おうと、その結果までは、
俺の知ったことではなかった。
上場記念式典まで、まだ長い道のりがある。
だが、駒は着実に、
俺の望む場所へと、集まりつつあった。
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氷室が集めた伝票と写真は、
日を追うごとに厚みを増していった。
俺は、その原本を氷室自身には持たせず、
桧山を経由して、
本社の資料庫とは別の場所……
9/16 18:20に、第9話を投稿します。




