第九話【 信じることと、備えることは別 】
氷室自身がどう思おうと、その結果までは、
俺の知ったことではなかった。
上場記念式典まで、まだ長い道のりがある。
だが、駒は着実に、
俺の望む場所へと、集まりつつあった。
氷室が集めた伝票と写真は、
日を追うごとに厚みを増していった。
俺は、その原本を氷室自身には持たせず、
桧山を経由して、
本社の資料庫とは別の場所――桧山が
個人的に借りている貸倉庫の一角に、
密かに保管させることにした。
「なんで、俺の家に置かないんだ、
わざわざ倉庫まで借りて」
桧山が、面倒くさそうに聞いてきた。
「氷室の周りが不審な動きを見せた時、
真っ先に疑われるのは、
彼と親しい人間の自宅だ。
倉庫なら、
名義も動きも、簡単には辿られない」
「用心深いな、相変わらず」
「証拠は、一箇所に集めるほど脆くなる。
原本と写しを分けて、複数の場所に、
少しずつ分散させておく。
誰か一人が消えても、
証拠そのものは残る仕組みに
しておくんだ」
桧山は、感心したように頷いた。
俺の言葉の裏に、
もう一つの意味が隠れていることには、
気づいていない――万が一、
桧山自身や氷室が、玖芳子の側に
寝返るようなことがあっても、
証拠の主導権だけは、
俺が握り続けられるようにする。
それもまた、
この分散保管の、隠れた目的だった。
「一つ聞いていいか」
桧山が、
倉庫の鍵を俺に渡しながら言った。
「お前、氷室のことも、俺のことも、
本当に信じてるのか」
「信じてる。だが、信じることと、
備えることは別だ。
お前が俺を裏切ることは、
今はまずないと思ってる。
それでも、
まずないことに賭けるより、
備えておく方が、俺の性に合ってる」
桧山は、苦笑しながら肩をすくめた。
「相変わらず、
可愛げのない男だよ、お前は」
その頃、本社では、
玖芳子の課長昇格を祝う
社内パーティーが開かれていた。
豪華な立食会場で、
玖芳子は上機嫌にグラスを傾け、
居並ぶ役員たちに
愛想を振りまいていた。
その輪から少し離れた場所で、
営業企画部長の遠藤が、
俺にグラスを差し出してきた。
「詞荷科くん。君、
随分と
凄樺さんに気に入られてるようだね」
「恐縮です」
「デジタル化構想の件、正直に言うと、
あれは私が長年温めていた企画だった。
……君が絡んでいたんじゃないのか」
遠藤の目には、探るような鋭さがあった。
俺は、動じることなく、穏やかに微笑んだ。
「部長。私はただの一社員です。
ですが、もし部長の企画が、
正当な評価を受けていないと
感じておられるなら――いずれ、
私にできることがあるかもしれません」
遠藤の眉が、微かに動いた。
明確な肯定でも否定でもない、
含みを持たせた言い回し。
だが、聡い人間ほど、
こういう曖昧さの中に、
相手の本心を読み取る。
「……含みのある言い方だな」
「今はまだ、何も申し上げられません。
ですが、
部長のような方に恩を売るのは、
悪い話ではないと思っています」
遠藤は、しばらく俺を見つめた後、
小さく笑った。
「面白い男だな、君は。
凄樺さんの犬にしておくには、
惜しいくらいだ」
「光栄です」
そう言って、俺は一礼し、
玖芳子の輪へと戻っていった。
玖芳子には、
忠実な腹心を演じ続ける。
遠藤には、
いつか役立つかもしれない「貸し」を、
少しずつ積み上げていく。
会社の中枢に近づけば近づくほど、
俺が
同時に手綱を握っておくべき人間の数は、
増えていく一方だった。
玖芳子だけを信じさせて
共倒れになるのではなく、
玖芳子が転げ落ちる時、
誰か別の椅子に座る道も、
あらかじめ用意しておく。
それが、俺の流儀だった。
パーティーの喧騒の中、
玖芳子が、ふと俺の方を見て、
小さく手招きした。
「詞荷科。あなたも、
こっちに来て乾杯なさい」
「はい、課長」
グラスを合わせながら、俺は、
彼女の背後に立つ遠藤の視線を、
はっきりと感じていた。
二人の思惑が、俺という一点で、
静かに交錯している。
パーティーの終わり際、宇佐見が、
そっと俺のもとに近づいてきた。
「詞荷科さん、遠藤部長と、
何を話してたんですか」
「大したことじゃない。……いや、
大したことになるかもしれない布石だ」
「私にも、教えてくれないんですか」
「今は、知らない方がいい。
お前が知らなければ、
お前が問い詰められても、
答えようがない。それも、
お前を守る手段の一つだ」
宇佐見は、
少し不満げな顔をしながらも、
それ以上は聞かなかった。
上場記念式典まで、
あと何年かかろうと、駒は着実に、
盤上に並びつつあった。
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デジタル化構想の
第二フェーズが動き出したのは、
パーティーから一週間も経たない
頃だった。
全国十二の営業所に美央が……
9/23 18:20 に、第10話を投稿します。




