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第六話【 肩書きだけでは 誰も靡(なび)かない 】

桧山、窪田、宇佐見――


相模原で拾い育てた駒たちを、

俺は静かに周囲に配し始めていた。


上場記念式典まで、あと何年かかろうと、

俺には焦る理由がない。


玖芳子が高く昇れば昇るほど、

彼女が落ちる奈落は、

より深くなるのだから。

本社は、八王子の本町にあった。


相模原営業所とは違い、

経理、人事、営業企画、開発――

各部署が縦横に睨み合う、

もっと生臭い戦場だった。


玖芳子(くよしこ)は、営業企画部の

課長代理として着任したが、

初日から、

その洗礼を受けることになった。


「凄樺(せいか)さん。噂には聞いていましたが、

 まさか

 会長のお孫さんとは思いませんでしたよ」


営業企画部長の、遠藤という男が、

慇懃(いんぎん)な笑みで言った。


言葉の端々に、露骨な皮肉が滲んでいた。


相模原では「会長の孫娘」という

肩書きだけで誰もが平伏したが、

本社には、

玖芳子より社歴も実績も上の人間が、

いくらでもいた。


「小さな営業所の女王様が、

 本社でも通用すると思ったら

 大間違いだ」――誰の顔にも、

 そう書いてあった。


初めての企画会議で、玖芳子の提案は、

けんもほろろに却下された。


彼女が慣れ親しんだ、

恫喝(どうかつ)と根回しの二段構えは、

本社という土俵では、

ただの子供の癇癪(かんしゃく)にしか見えなかった。


声を荒げれば荒げるほど、

周囲の視線は冷ややかになっていく。


相模原では絶大だった武器が、

本社では逆に、彼女の未熟さを

証明する道具になっていた。


会議室を出た玖芳子の顔は、蒼白だった。


「詞荷科(しにか)……

 あの連中、どうすればいいの」


その声は、

いつもの居丈高(いたけだか)さが嘘のように、

細く頼りなかった。


相模原の営業所では

女王でいられた玖芳子も、

本社という土俵に立てば、

大勢いる「会長の孫娘程度」の

一人に過ぎない。


肩書きだけでは

誰も靡(なび)かないという現実に、

彼女は初めて直面していた。


本社という広い戦場に出た瞬間、

玖芳子は、初めて俺に、

指図ではなく助けを求めた。


「相模原と同じやり方は、

 通用しません。ここでは、

 恫喝よりも、実績と情報です」


俺は、あえて突き放すように言った。


玖芳子が

本当の意味で俺に依存するには、

まず彼女自身に、自分の限界を

思い知らせる必要があった。


「実績なら、OA部門の件があるじゃない」


「あれは過去の実績です。

 本社の人間が見ているのは、

 これから何を成し遂げるか。

 副所長――いえ、課長代理には、

 次の一手が必要です」


「次の一手って、何よ」


俺は、あらかじめ用意しておいた

資料を差し出した。


全国の営業所のOA機器の販売実績と、

遠藤部長が長年温めていた、

しかし社内政治の都合で潰されてきた

「全国営業所デジタル化構想」の

骨子だった。


「これを、部長より先に、

 会長に直接進言してください」


「……遠藤さんの企画を、

 横取りしろって言うの」


「横取りじゃありません。

 埋もれていた良い企画を、

 掘り起こして日の目を見せる。

 感謝されこそすれ、

 恨まれる筋合いはない――というのが、

 表向きの理屈です」


玖芳子の目に、久しぶりに、

あの貪欲(どんよく)な光が戻った。


「でも、もしバレたら」


「バレません。会長への報告は、

 俺が一言一句、原稿を作ります。

 副所長――課長代理は、それを、

 ご自分の言葉として語るだけでいい」


「……面白いじゃない。やってみるわ」


玖芳子は、会長への月例報告の場で、

遠藤の温めていた構想を、まるで

自分の発案であるかのように語った。


会長は、

その熱意と着眼点を高く評価した。


翌週、遠藤は、自分の企画が

孫娘の手柄として持ち去られたことを知り、

烈火のごとく怒った。


だが、

会長の前ですでに評価が固まった以上、

今さら「自分の企画だ」と主張すれば、

器の小ささを露呈するだけだった。


遠藤は、

苦渋の表情で沈黙するしかなかった。


本社での、玖芳子の最初の一勝だった。


だが、それは同時に、遠藤という

新たな敵を作ったことも意味していた。


営業企画部の中には、

遠藤に同情する声も少なくない。


玖芳子は敵を作ることに躊躇(ちゅうちょ)しないが、

その敵の数を数え、

いつ牙を剥(む)かれるかを警戒するのは、

俺の役目だった。


「詞荷科。今度の件、あなたのおかげね」

「副所長のご判断があってこそです」

「もう副所長じゃないでしょ。課長代理よ」

「失礼しました。……課長代理」


訂正しながら、俺は内心で笑っていた。

呼び方など、どうでもいい。


彼女が俺なしでは、

この本社という戦場で

一歩も動けないという事実こそが、

俺の欲しいものだった。


桧山、窪田、宇佐見を

本社に引き上げる算段も、

着々と進めている。


遠藤という敵の存在すら、

いずれ俺の駒に変える材料になる。


玖芳子が本社で築く敵の数だけ、

俺の復仇の網は、静かに、

しかし確実に広がっていく。


廊下ですれ違った遠藤が、

俺に一瞬だけ視線を寄越した。


値踏みするような、探るような目だった。


俺は、何も知らない一介の部下を装って、

丁重に頭を下げた。


この男もまた、

いずれ使い道のある駒になるかもしれない

――そう思いながら。


©2026 [風風風]. All rights reserved.

本社に上がって数ヶ月が経った頃、

俺は経理部の資料庫で、

妙な数字に気づいた。


子会社の「海星堂メンテナンス」――

複合機やオフコンの

保守・修理を請け負う部門の、

修理費の計上が、年々不自然に……。


来週の水曜日、18:10 に第7話を投稿します。

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