第五話【 俺だけが確信を持てる未来図 】
俺が差し出す忠誠は、いずれ全て、
彼女自身を絞め殺す縄になる。
玖芳子はまだ、その縄が、
自分の首にかかり始めていることに、
気づいてすらいなかった。
悪辣合戦は、まだ始まったばかりだった。
年が明け、1983年になった。
相模原営業所は相変わらず、
玖芳子の独裁の下で
数字だけは伸び続けていたが、
俺の頭の中には、
もっと大きな絵図があった。
事務機器商社として
和文タイプライターやコピー機を
細々と売っている今のうちに、
次の波に乗らなければならない。
前世の記憶が正しければ、あと数年で、
日本語ワードプロセッサと
オフィスコンピュータの需要が、
爆発的に伸びる。
海星堂商会が
地場の商社から全国区へと駆け上がる、
最初の踏み台がそこにあった。
俺は、資料室に籠って作った企画書を、
玖芳子の机に置いた。
統計データも、市場予測の数字も、
すべて後付けで理屈を組んだ、
俺だけが確信を持てる未来図だった。
「副所長。
ワープロとオフコンの専門部隊を、
この営業所に作らせてください」
「……そんな博打、
本社が許すはずないでしょう」
「許すかどうかは、副所長次第です。
この企画、副所長の発案として、
本社に上げてください」
玖芳子の目の色が変わった。
手柄を自分のものにできると分かった瞬間、
彼女の警戒心は、いつも欲に飲み込まれる。
それが、玖芳子という女の、
最大にして唯一の弱点だった。
俺はその弱点を、飽きるほど熟知していた。
「本社が渋ったら、どうするの」
「その時は、俺が数字を作ります。
試算表も、他社事例も、
副所長が反論に困らないだけの材料を、
すべて揃えておきます」
「……いいわ。やってみなさい」
玖芳子は、企画書を引き寄せながら、
満足げに笑った。
まだ何一つ実現していない未来の成功を、
彼女はもう自分のものだと信じ切っていた。
俺には、それがどこまでも滑稽で、
そして、どこまでも都合が良かった。
企画は、玖芳子の名で本社に上申され、
会長――玖芳子の祖父――の目に留まった。
相模原営業所発の
「OA機器専門プロジェクト」は、
異例の速さで承認された。
玖芳子は、
瞬く間に社内の注目株となった。
「詞荷科。
あなた、なかなか使えるじゃない」
初めて、玖芳子は俺を、道具ではなく、
駒として認めるような口ぶりで言った。
「副所長のご判断があってこそです」
「分かってるじゃない」
その慢心こそが、俺の狙いだった。
彼女が自分の力量を過信すればするほど、
俺への依存は深くなる。
俺がいなければ回らない体制を、
彼女自身の手で作らせる――それが、
俺の描いた次の一手だった。
プロジェクトチームの人選も、
玖芳子は俺に一任した。
俺は迷わず、桧山と窪田を引き抜いた。
「倉庫番から、いきなりOA部門か。
……お前、本当に何を企んでる」
桧山は、半信半疑の顔で聞いてきた。
「企んでるさ。玖芳子を、
誰よりも高く登らせて、
誰よりも深く落とすことをな」
倉庫番に追いやられかけた桧山も、
お茶くみだった宇佐見も、
少しずつ、
日の当たる場所へと引き上げていく。
玖芳子の権勢を利用して、
玖芳子に潰されかけた者たちを、
玖芳子自身の手で救い上げさせる。
この皮肉に、
俺は密かな愉悦を覚えていた。
宇佐見も、営業事務として
プロジェクトに加わった初日、
俺のもとに駆け寄ってきた。
「詞荷科さん、私、
本当にコピー取りから抜け出せるなんて、
思ってませんでした」
「お前の情報網のおかげだ。
礼を言うのは俺の方だよ」
「……いつか、本当に、
あの人を落とす日が来るんですか」
「必ず来る。それまで、
俺の目になり、耳になっていてくれ」
宇佐見は、力強く頷いた。
給湯室で腐りかけていた娘の目には、
もう一片の曇りもなかった。
プロジェクトの立ち上げから半年、
相模原営業所のOA部門は、
県内でも指折りの売上を
叩き出すようになった。
玖芳子は本社の会議で、
堂々とその成果を語った。
もちろん、実務の九割は、
俺と桧山、窪田、そして今では
営業事務に配置転換された宇佐見が
回していた。
玖芳子は、
成果発表の壇上に立つことしか、
していない。
それでも彼女は、
まるで自分一人の手柄であるかのように、
誇らしげに胸を張っていた。
だが、それでいい。
玖芳子が壇上で輝けば輝くほど、
彼女はますます俺という存在から、
離れられなくなっていく。
表舞台の光が強くなるほど、
裏で光を作っている者への依存は、
深くなる一方だ。
会長からの覚えもめでたくなった
玖芳子は、翌年、
本社の営業企画部への異動が内定した。
相模原営業所から、東証への道の中枢へ。
「詞荷科。
あなたも、本社に連れていってあげる」
玖芳子は、恩着せがましくそう言った。
「ありがとうございます、副所長」
俺は深々と頭を下げながら、
内心でほくそ笑んだ。
異動の内示が出たその晩、
俺は桧山、窪田、宇佐見の三人を
居酒屋に集めた。
「玖芳子が本社に上がる。
俺も連れていかれる」
「……俺たちは、置いていかれるのか」
桧山が、不安げに聞いた。
「いや。時期を見て、
お前たちも本社に引き上げる。
玖芳子には、
優秀な人材を欲しがる癖がある。
その癖を、逆に利用してやる」
三人は、顔を見合わせて頷いた。
相模原という小さな戦場で結ばれた
絆は、
これから始まる、
もっと大きな戦いの土台になる。
舞台は、いよいよ本社という、
より大きな戦場へと移る。
桧山、窪田、宇佐見――
相模原で拾い育てた駒たちを、
俺は静かに周囲に配し始めていた。
上場記念式典まで、あと何年かかろうと、
俺には焦る理由がない。
玖芳子が高く昇れば昇るほど、
彼女が落ちる奈落は、
より深くなるのだから。
©2026 [風風風]. All rights reserved.
本社は、八王子の本町にあった。
相模原営業所とは違い、経理、人事、
営業企画、開発――
各部署が縦横に睨み合う、
もっと生臭い戦場だった。
玖芳子は
営業企画部の課長代理として着任したが、……。
明日、18:10 に第6話を投稿します。




