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第四話【強気な言葉の裏で】

上場記念式典のその日まで、

あと何年かかろうと構わない。


俺には、前世で見届けた、

この会社の未来という、

何よりも強力な武器があるのだから。

副所長室に呼ばれたのは、

桧山の一件から一月ほど経った、

ある夕方だった。


玖芳子(くよしこ)は、

決裁書類に判を捺しながら、

俺には目もくれずに言った。


「詞荷科(しにか)。何か用?」


「副所長が、

社員の恨みをかうことが心配です。

万一に備えて、手当をしておきます」


判を捺す手が、一瞬止まった。


「……どういう意味かしら」


「桧山さんの一件、

所内では色々と噂されています。

誰かが本社に告げ口するかもしれない。

あるいは、もっと直接的な形で、

副所長に恨みを晴らそうとする者が

出るかもしれない。

そうなる前に、

俺が――所内の空気を、

細かく拾っておきます。

誰が何を言っているか、

誰が誰と親しくしているか。

すべて、副所長のために」


「そんな必要はないわ」


玖芳子は、判子を

叩きつけるように押しながら、

強く言い切った。


だがその声は、いつもより一段高く、

早口だった。


桧山を吊るし上げた翌週から、

彼女の周りの空気が

微妙に冷えていることに、

玖芳子自身も

気づいていないはずがなかった。


強気な言葉の裏で、彼女の視線は、

書類の上を

何度も同じ行を往復していた。


「かしこまりました。ですが、

もし気が変わられたら、

いつでもお申し付けください」


俺は一礼して、部屋を出た。


断られることは、

最初から織り込み済みだった。


大事なのは、断られてもなお、

俺という監視の目を、

彼女の傍らに置いておく

口実を作ることだ。


種は、蒔いた瞬間から芽吹き始める。


玖芳子は、誰かに弱みを握られることを、

誰よりも恐れている。


だからこそ、俺自身が先回りして

その「弱み」の管理者になってしまえば、

彼女は俺を切り離せなくなる。


忠誠を装った監視、庇護を装った支配。

俺がやろうとしているのは、

そういうことだった。


それから数日、

玖芳子は表向き素っ気ないまま、

俺の「手当」を黙認するようになった。


所内の噂話、誰の機嫌が悪いか、

誰が愚痴をこぼしているか――

俺が拾い上げる情報を、

彼女は「参考までに」と言いながら、

確実に利用していた。


使われる情報が増えるほど、

俺が握る情報も増えていく。


これは、俺にとっての保険であり、

同時に武器でもあった。


だが、

玖芳子もただ利用されるだけの

女ではなかった。


「詞荷科。

桧山さんの再教育、あなたに任せるわ」


ある朝、彼女はそう言い渡した。


再教育とは名ばかりの、

事実上の懲罰的な配置転換――

倉庫番への異動を、

他ならぬ俺の口から

桧山に言い渡させるつもりだった。


俺の忠誠を試す罠だと、すぐに分かった。


桧山を切ることで、

俺が本当に玖芳子の犬なのか、

それとも裏で誰かと繋がっているのか、

見極めようとしている。


断れば怪しまれる。


だが、素直に従えば、桧山を、

そして俺が積み上げてきた駒を、

一つ失うことになる。


「かしこまりました」


俺は、表情ひとつ変えずに頭を下げた。


その夜、俺は桧山を呼び出した。


「悪いが、玖芳子から

倉庫番への異動を言い渡すよう

命じられた」


桧山の顔が強張った。


「……お前も、結局あっちの人間か」


「まだ話は終わってない。明日、

俺は玖芳子にこう報告する。

桧山は密かに丸昌商店の主人と会い、

直談判で許しを得た、

営業所に残す方が得策だと。

全部、俺が仕込む嘘だ」


「……そんな嘘、バレたらどうする」


「バレない。丸昌商店の主人には、

俺が今夜のうちに話をつけてくる。

口裏を合わせてくれるよう、

頭を下げてくる」


「なんで、そこまで」


「言っただろう。いずれ復仇する。

それまでは、

駒を一枚も失うわけにはいかない」


翌朝、俺は玖芳子に、

桧山と丸昌商店の主人が実は旧知の間柄で、

今この場で彼を切れば

得意先を丸ごと失いかねないと報告した。


無論、大部分は俺の作り話だった。


だが玖芳子は、

損得勘定でしか物を見ない。


得意先を失うリスクの方が、

彼女にとっては

桧山を切る快感よりも重かった。


「……仕方ないわね。今回だけよ」


玖芳子は、忌々しげにそう吐き捨てた。


彼女は、俺が桧山を守ったことに、

まだ気づいていない。


あるいは、気づいていて、

あえて泳がせているのか――

そのどちらであっても、

俺にとっては好都合だった。


廊下で彼女とすれ違いざま、

玖芳子は小さく舌打ちをした。


負けを認めたくない、

あの人らしい仕草だった。


悪辣さでは、玖芳子は本物だ。


人の弱みを見抜き、

恐怖と利益で人を縛り付ける手腕は、

天性のものだった。


試すような命令一つで、

部下の忠誠と裏切りを

同時に炙り出そうとする冷徹さも、

並の人間には真似できない。


だが俺には、

彼女が絶対に持ち得ないものがあった。


この会社の三十年先までの未来を知る、

記憶という武器だ。


玖芳子が仕掛ける罠の、一手先を読み、

罠そのものを利用して、俺の駒を守り、

増やしていく。


彼女の悪辣さを養分にして、

俺はより深く、より静かに、

この会社に根を張っていく。


「副所長のために」と

俺が差し出す忠誠は、いずれ全て、

彼女自身を絞め殺す縄になる。


玖芳子はまだ、その縄が、

自分の首にかかり始めていることに、

気づいてすらいなかった。

悪辣合戦は、まだ始まったばかりだった。


©2026 [風風風]. All rights reserved.

年が明け、1983年になった。

相模原営業所は相変わらず、

玖芳子の独裁の下で

数字だけは伸び続けていたが、

俺の頭の中には、

もっと大きな絵図があった。


事務機器商社として

和文タイプライターやコピー機を

細々と売っている今のうちに、……。。


明日、18:10 に、第五話を投稿します。

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