第三話【玖芳子(くよしこ)の腹心】
誰よりも忠実な部下として、
彼女の背中を押し続ける。
その足元で、俺は静かに、
確実に、駒を並べ始めていた。
上場記念式典の壇上で彼女を、
丸めたゴミのように奈落へ突き落とす、
その日の為に。
半年が過ぎる頃には、
俺は玖芳子の腹心
と呼ばれるようになっていた。
会長の孫娘として振る舞う
彼女の癇癪を先読みし、
機嫌を損ねる前に手を打つ。
誰よりも早く出社し、
誰よりも遅くまで残り、
玖芳子の望む数字を、
望むタイミングで揃えてやる。
時には、
彼女が思いつく前に
企画書を用意しておき、
まるで
彼女自身の発案であるかのように
振る舞わせてやることもあった。
玖芳子は、自分を持ち上げる者には
無防備なほど甘い。
前世で三十年、
この会社の裏も表も見てきた俺には、
その手綱を握るのは造作もないことだった。
あれは4月のこと。
会長の視察が急遽決まった朝、
玖芳子は
寝耳に水の連絡に取り乱していた。
俺はその時すでに、
視察当日の想定質問と回答案を、
一冊のファイルにまとめて
用意していた。
「これを使ってください」
とだけ告げて渡すと、玖芳子は初めて、
値踏みするような目で俺を見た。
その日以来、彼女は俺を、
他の誰よりも近くに置くようになった。
その地位を得た俺は、
玖芳子が誰に狙いを定めているかを、
誰よりも早く知る立場になった。
彼女の予定表、
彼女が誰と何を電話で話したか、
彼女が誰の名を苦々しげに口にしたか
――そのすべてが、
腹心である俺の耳に自然と集まってくる。
今回の標的は、係長の桧山。
古株で、
実直だが融通の利かない男だった。
玖芳子の理不尽な指示に、
たびたび正論で異を唱えたことが、
彼女の逆鱗に触れていた。
「あの人、そろそろ本気で潰しにかかるぞ」
俺は、
桧山を裏口の喫煙所に呼び出して告げた。
「……何の話だ、詞荷科」
「今度の得意先クレーム、
玖芳子が仕組む気だ。
桧山さんの担当案件に、
わざと納期を遅らせる横槍を入れて、
クレームにして、
責任を桧山さんに被せる。
もう根回しは始まってる」
桧山の顔から、みるみる血の気が引いた。
一週間後、
俺の読み通りのことが起きた。
桧山が担当する得意先・
丸昌商店への納品が、
玖芳子の一存で二日遅らされた。
理由も告げられぬまま、
桧山は平謝りに走り回った。
丸昌商店の主人は激怒し、
本社に苦情の電話を入れた。
翌朝の朝礼で、
玖芳子は待ってましたとばかりに
桧山を吊るし上げた。
「桧山係長。
得意先の信用を失うということが、
どれほど重いか分かっているの?」
「……申し訳ございません」
「あなたのような、要領の悪い人間に、
係長は
荷が重かったのかもしれないわね」
所内の空気が凍りついた。
誰もが視線を逸らし、
桧山の孤立を、
遠巻きに眺めているだけだった。
だが桧山は、
俺に予め聞かされていた通り、
あらかじめ社内便の送付記録と、
丸昌商店への電話の履歴を、
こっそり控えておいた。
だから、玖芳子の詰問にも動じず、
静かに一礼だけして
その場をやり過ごした。
証拠を握っていることを、
あえて口にはしなかった。
切り札は、
使う時を選ばなければ意味がない。
その日の晩、俺は桧山を居酒屋に誘った。
「……言った通りだったろ」
「……ああ。詞荷科、お前、
なんでそこまで分かるんだ」
「理由はいずれ話す。
今は、これだけ聞いてくれ。
いずれ俺は必ず、玖芳子に復仇する。
それまで、俺と一緒に潜伏してろ。
表向きは、大人しく従っておけばいい」
桧山は、
しばらく黙って盃を見つめていたが、
やがて小さく頷いた。
「一つだけ聞かせてくれ。
お前は、玖芳子さんの腹心なんだろう。
なんで、俺たちの味方をする」
「腹心を演じてるだけだ。
玖芳子を信じたことなんか、一度もない」
それだけ答えて、
俺は手酌で盃を満たした。
桧山は、それ以上何も聞かなかった。
玖芳子の悪辣さは、
桧山の一件だけでは終わらなかった。
彼女は、自分の失策を決して認めない。
得意先からのクレームの矛先は
常に部下に向け、
成果だけは自分の手柄として、
会長である祖父に報告する。
桧山を吊るし上げた翌週には、
涼しい顔で「相模原営業所の統率力」を、
社内報の表紙で語っていた。
写真の中の玖芳子は、
誰よりも輝いて見えた。
恐ろしいのは、その徹底ぶりだ。
玖芳子は、味方につけた者の弱み――
借金、家庭の事情、過去の些細な失態――
を、笑顔の裏で几帳面に記憶している。
いざという時、
それをちらつかせて相手を黙らせる。
あざとさは天性のものだが、
その裏付けとなる情報収集の執念は、
並の悪役令嬢の域をとうに超えていた。
人を懐柔する才も、
人を切り捨てる冷徹さも、
どちらも本物だった。
だが皮肉なことに、その執念こそが、
俺の求めていたものだった。
玖芳子が誰かを潰そうとするたび、
腹心である俺はその情報を先読みし、
標的を救い、恩を売り、
静かに仲間を増やしていく。
桧山、窪田、宇佐見。
表向きは
玖芳子に忠実な駒でありながら、
裏では俺だけを見ている者たちが、
少しずつ、しかし確実に増えていった。
桧山の一件から間もなく、
玖芳子は次の標的として、
経理課の若手女子社員に
目をつけているという噂も、
俺の耳に届いていた。
今度は金の絡む話らしい。
伝票の処理ミスを口実に、
私物化した接待費の穴埋めを
その社員に押し付けるつもりだという。
俺は、
まだ会ったこともないその社員の名を、
そっと手帳に書き留めた。
次に救うべき駒は、もう決まっていた。
上場記念式典のその日まで、
あと何年かかろうと構わない。
俺には、前世で見届けた、
この会社の未来という、
何よりも強力な武器があるのだから。
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副所長室に呼ばれたのは、
桧山の一件から一月ほど経った、
ある夕方だった。
玖芳子は、
決裁書類に判を捺しながら、
俺には目もくれずに言った。
「詞荷科。何か用?」
「副所長が、……。
明日、18:10 に第四話を投稿します。
よろしくお願いいたします。




