第二話【密(ひそ)やかな諜報網】
玖芳子が己の野心のままに突き進み、
この会社を
東証スタンダード市場の頂へと
押し上げたその瞬間――今蒔いた種を、
一斉に刈り取ってやる。
今蒔いた種が、何年後にどう実を結ぶか。
それを知っているのは、
この会社で俺一人だけなのだから。
非情な業務命令で、
お茶くみ専任に落とされた
一年目の女子社員に、
俺は近づいた。
名前は宇佐見千鶴。
営業職として採用されたはずが、
配属初日に玖芳子の一存で
「女は茶と電話番で十分」
と言い渡され、
以来コピー取りと来客対応だけを
命じられている娘だった。
同期の男どもが得意先を回っている間、
彼女は毎朝、給湯室で
人数分の湯呑みを磨き続けている。
その給湯室の隅で、
俯いたまま手を動かす彼女に、
俺はさりげなく声をかけた。
「宇佐見さん、そのコピー、
綴じ方まで揃ってるな。
誰にでもできる仕事じゃない」
「……詞荷科さんまで、
私を馬鹿にしてるんですか」
「逆だよ。今のあなたを、
誰よりも近くで見てるのは
俺だけかもしれない。
腐るなよ、宇佐見さん。
腐った人間から先に、
あの人は切り捨てる」
その一言で、彼女の目に、
微かな光が戻るのを俺は見た。
言葉巧みに、彼女の心を獲る。
彼女に、
男として関心があった訳ではない。
彼女に、
女としての魅力を感じた訳でもない。
ただ俺は、
衷心からの味方が必要だった。
玖芳子を利用し尽くすには、
玖芳子の目の届かない場所に、
玖芳子を裏切らない駒を、
一人でも多く配しておく必要がある。
そういう者を何人得られるかが、
この先何十年もの勝負を分けると、
俺は確信していた。
詞荷科美央は、
この会社という戦場で、
静かに刈り取る
『死神王』となる覚悟だった。
それだけじゃない。
俺は宇佐見に、
営業所内の噂話や、
玖芳子の機嫌の波、
誰が今
どんな案件を抱えているかといった、
ごく些細な情報を
集めてもらうことにした。
給湯室に立つ彼女には、
誰も警戒せずに口を滑らせる。
それは、俺だけが持つ、
密やかな諜報網の萌芽だった。
玖芳子のあざとい駆け引きの手口を、
俺は同年入社の若手社員・窪田にも、
それとなく教えてやった。
2月14日、
バレンタインデーの日だった。
彼の営業机の引き出しの中に、
玖芳子は
ラップしたチョコを忍ばせていた。
同じものは、
俺の机の引き出しにもあった。
中身は既製品の安いチョコだったが、
包み方だけは丁寧で、
玖芳子らしいあざとさが滲んでいた。
外回りから帰った窪田が、
営業日誌を書くために引き出しを開ける。
チョコと思しきラップを目にした
窪田の顔が、
みるみる赤くなった。
その様子を、
営業所の女子社員たちが
給湯室の陰から盗み見て、
くすくすと愉しんでいた。
玖芳子が、
女子社員たちを
自分の味方につける為に仕組んだ、
余興の一種だった。
誰にチョコを渡すか、
誰に渡さないかで、
社内の序列を可視化する。
それが、玖芳子のやり口だった。
俺の引き出しのチョコを、
俺は誰にも見られぬうちに、
そっと閉じたままにしておいた。
帰り際、
俺は窪田を居酒屋に誘った。
ぬる燗を挟んで、
玖芳子の目論見を全部バラしてやった。
「いいか、窪田。
玖芳子には気をつけろよ。
あれは餌だ。
目をつけられないように注意しろ」
「うん。……知らなかった」
「俺が、いつか必ず仇を取ってやる。
その為に俺は、玖芳子の懐に、
誰よりも深く飛び込むつもりだ。
お前も協力しろ」
「お、おう。……分かった」
「宇佐見にも、
同じようなことを言った。
味方は、多いに越したことはない」
窪田は、黙って猪口を呷った。
何も答えなかったが、その横顔には、
確かな覚悟が滲んでいた。
店を出る頃には、
外はすっかり冷え込んでいた。
吐く息の白さを眺めながら、俺は思う。
仲間は、多いほどいい。
だが多すぎれば、
いつか誰かが玖芳子に寝返る。
信じるべき数と、
切り捨てるべき数の見極めこそが、
この先の三十年を左右する。
前世で三十年、
この会社を内側から見てきた俺には、
それが痛いほど分かっていた。
あからさまな玖芳子の、
私欲まみれの経営手腕。
すでに玖芳子は、
相模原営業所の女王だった。
徹底した信賞必罰。
靡く者には甘く、
靡かない者には容赦なくキツく当たる。
営業社員には、
毎朝の朝礼で
鬼のような進軍ラッパを吹き、
前日の数字を達成できなかった者の名を、
全員の前で一人ずつ読み上げさせる。
読み上げられた者は、
始業前から立ちっぱなしで、
玖芳子の説教を浴びる。
事務方の女子社員には、
季節ごとの菓子折りや、
飲み会の奢りといった飴を配り、
忠誠心の高い者から順に、
残業の少ない楽な仕事を回してやる。
飴と鞭の人心掌握術を、
玖芳子は惜しみなく、
そして計算高く振るっていた。
宇佐見も、
表向きは玖芳子に大人しく頭を垂れた。
だが、
俺と交わした短い言葉が、
彼女の中に小さな火を灯したのを、
俺は見逃さなかった。
窪田もまた、
玖芳子の前では
従順な若手を演じながら、
俺と目が合うたびに、
微かに頷くようになった。
味方は、まだ二人。
数だけ見れば、心許ない。
だが、始まりとしては十分だった。
所長すら形骸化させ、
まるで女王のように君臨する玖芳子。
誰もが彼女の顔色を窺い、
誰もが彼女の機嫌を恐れる、
小さな独裁国家。
だがその独裁こそが、
この会社を東証スタンダード上場まで
押し上げる原動力になることを、
俺だけが知っている。
だからこそ俺は、
玖芳子を止めない。
むしろ、誰よりも忠実な部下として、
彼女の背中を押し続ける。
その足元で、俺は静かに、
確実に、駒を並べ始めていた。
上場記念式典の壇上で彼女を、
丸めたゴミのように奈落へ突き落とす、
その日の為に。
©2026 [風風風]. All rights reserved.
半年が過ぎる頃には、
俺は
玖芳子の腹心と
呼ばれるようになっていた。
会長の孫娘として振る舞う
彼女の癇癪を先読みし、
機嫌を損ねる前に手を打つ。
誰よりも早く出社し、……。
本日、18:10 に第三話を投稿します。
よろしくお願いいたします。




