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第6章 ―― 卓上の下に潜む刃

 第六章までお読みいただき、ありがとうございました。


 また一週間が過ぎましたが、私は相変わらず本業と並行しながら、この作品の執筆を続けています。


 物語を書き進める中で準備しなければならないことは意外と多く、世界観の設定や今後の展開はもちろん、私自身が制作して各種プラットフォームへ投稿している楽曲から着想を得たアイデアなども少しずつ形にしています。


 現在はVelindia編の執筆に集中していますが、その一方で第二部となる「東方帝国(East Empire)編」の構想も考え始めています。


 ただ、そこまで物語が進むにはまだかなり時間がかかると思います。


 現時点ではあくまで構想段階の予定ですので、今後の執筆状況や物語の流れによって内容が変更される可能性もあります。


 それでも、一歩ずつではありますが、この世界をより広げながら物語を描いていければと思っています。

 それでは、また次の章でお会いしましょう。

第一部 ―― Alven Drenn視点 ―― Edhen入出管理官

Edhenの朝は早い。

まだ陽光が城壁の頂に届く前から、幾十ものルーンリングと身分証が入城門の下で淡く熱を帯び始めていた。

門は二つある。

一つは人用。

もう一つは荷獣を伴う商人や運搬人のための門だ。

身分証と荷獣を確認する検問所は、まるで目を覚ました蟻の巣のようだった。絶え間なく出入りする人々。きらめくルーン。そして高級身分証や特権証が通るたび、その足跡に沿って光の線が描かれ、静かな交差地図を作り出していく。

だが、それで検査が雑になるわけではない。

定められた方針に従って治安を維持すること。

それこそが、この都市の市長が掲げた絶対の命令だった。

Velindiaの模範都市となるために。

「次の方、どうぞ……」

「書類をお願いします……」

その言葉は、Edhenの治安維持体制が稼働して以来、十年以上もの間、毎日のように繰り返されてきた。

「許可……」

「却下……」

それ以来、この街の治安は常に良好だった。

重大な事件は一度も起きていない。

犯罪率はVelindiaでも最低水準。

そしてこの街は、帝国中央と、およそ十二年前に滅亡したある大都市に次ぐ第二の大都市を目指して発展を続けていた。

Alven Drenn――二十一歳。

彼は第二門の詰所で勤務する若き職員だった。

商人や運搬人の流れを監視するための専門教育を受け、今日も机に向かっている。

羽ペンを手に持ち、次々と提出される通行証と貨物情報へ視線を走らせていた。

第一門の担当者に比べれば、仕事は少ない。

第二門を通る者の大半は、すでに商業ギルドへ登録済みの者たちだからだ。

とはいえ例外もある。

見知らぬ商隊。

遠方からやって来た旅人。

そうした者たちに対しては、必ず貨物検査を行わなければならない。

彼の仕事は調査ではない。

記憶することだった。

危険人物は、必ずしも経歴ルーンに表示されるとは限らない。

人身売買業者や奴隷商人も同様だ。

この街は自由を重視する市長によって厳しく統治されている。

もし誘拐被害者と判明すれば、その商人は即座に投獄される。

残りの人生を牢獄で過ごすことになるだろう。

禁制品も同じだ。

悪質な場合は長期収監。

協力的であれば警告のみで済む。

許可するか、拒否するか。

それを決めるのは彼だった。

先人たちから受け継いだ責務は重い。

だが、同じEdhen市民である以上、善良な市民は守られるべき存在だ。

そして今日もまた、いつもと変わらぬ一日になるはずだった。

ただ一人――

彼の目を引く見知らぬ人物が現れるまでは。

その名は、

Cyran Yilfen。

夕暮れ時。

門前の列は少しずつ短くなっていた。

それでも第一門には長い列が残っている。

「許可」

「許可」

「却下……」

その時だった。

ガリ……

鉄の履帯が石畳を軽く削る音が響いた。

極めて小さい。

馬ではない。

商人の荷車でもない。

人に操られた奇妙な荷獣のようだが、魔力は感じられない。

まるで小さな緑色の亀。

だが、その移動方法は二匹の蛇を巻き付けたようだった。

Alvenは顔を上げる。

その男は東門から近づいてきた。

本来向かうべき第二門ではなく、第一門の列へ並んでいる。

乗っているのは低く細長い物体。

平らな背を持ち、燻された苔のような鈍い緑色をしていた。

それは静かに地面を這う小型の地竜のようだった。

鱗はない。

だが荒れた外装をまとい、露出した機構は機械仕掛けの鯨の脚のようにも見える。

履帯が一周するたび、大地を確実に噛み締める。

暖かく一定のリズム。

そして微かに漂う鉄の匂い。

「おい、そこの君」

Alvenは声を掛けた。

「こちらの門へ来てくれ。第二門は小型荷獣用だ。個人運搬はこちらになる」

「はい、わかりました……」

その上に座る男は大柄ではなく、派手な鎧も着ていない。

古びた石色の薄い外套を羽織っているだけだった。

だが、どこか妙に乗り物と似ていた。

背筋の伸び方。

降り立つ時の静けさ。

そして周囲を見回さない視線。

まるで周辺の配置をすでに全て記憶しているかのようだった。

やがて順番が回ってくる。

「そこの君。降りて身分証、通行証、それから積み荷を提示してくれ」

男は黙って二枚のカードを差し出した。

一枚は仮発行の身分証。

ランクE。

基本階級。

D級への昇格枠もまだない。

記載された名前は、

Cyran Yilfen。

もう一枚は明らかに格が違った。

都市有力ギルドが発行する銀色のルーン通行証。

運搬人向けの高優先証。

認証済みであり、触れるだけで通過可能な特別証だった。

Alvenは情報を照合する。

問題なし。

彼は衛兵へ指示し、奇妙な青い鉄の荷獣の積み荷検査を省略させた。

そして新参者らしいその男へ、いつもの説明を始める。

胸の奥に今も刻まれた、忘れられない出来事と共に。

「この都市には十年以上前から続く暗黙の法があります」

「魔獣の模倣魔法および召喚魔法の使用は禁止されています」

市民たちはそれを『召喚禁止令』と呼んでいた。

「かつて異世界人が、見たこともない白い石板と奇妙な技術兵器を使い、南区画を爆破した事件がありました」

「その際、犯人を拘束しようとした兵士たちにも多くの被害が出ています」

彼は壁に貼られた白い石板の絵を指差した。

「それ以来、このような石板を用いる召喚魔法使いへの疑念は今も消えていません」

「違法使用が発覚した場合、即時拘束・収監となります」

「……以上です。通行を許可します」

「ありがとうございます。ところで、第4貨物区画へはどう行けばいいでしょうか? 荷物を届ける依頼がありまして……」

「真っ直ぐ進んで、少し右へ曲がった先だ。集積場の近くだよ」

「ありがとうございます。失礼します」

Alvenはその一連の出来事を記憶に刻み込んだ。

いつもの癖だった。

誰も彼に求めたわけではない。

だがAlvenの記憶帳の中で、こうした名前はしばしば消えないインクとなる。

将来、戦場で出会うかもしれない人材。

あるいは斥候として活躍する可能性を秘めた者。

柔軟な思考と記憶力を持つAlvenにとって、それは自然な行為だった。

やがて履帯の音は遠ざかる。

赤い砂埃を削りながら、石畳の上には細い平行線が残された。

まるで見えない機械仕掛けの医師が縫い合わせた傷跡のように。

門番たちはしばらく奇妙な男について噂していた。

しかしその直後――

Alvenは次の荷車から禁制品を発見する。

「衛兵! こちらだ!」

「禁制品の密売だ!」

「了解しました、閣下! 奴を取り押さえます!」

――Cyran Yilfen視点へ

 YilfenはT-60を操縦し、第4集積区近くの馬小屋へと向かった。

 人々の関心から外れた場所。彼はスロットルを低速のまま維持しながら進む。

 この地面はVoldaとはまるで違っていた。

 平坦で、硬く、冷たい鉄のような感触。

 まるで石そのものが組織化された都市のために鍛え上げられたかのようだった。

 首を傾げた木々もなければ、苔むした岩もない。

 あるのは輝くルーン、整然と並ぶ石畳、そして人々の視線だけだった。

 彼はすでに城壁外縁からの運搬任務を完了している。

 商人Varrikへ小さな荷箱を届け、その代価として厳重に管理された都市への入城権を得た。

 そして今は、移住先と仮住まいを探していた。

 同時に、あの商人の残した曖昧な言葉が頭の中で反響している。

 >「冒険者ギルドに入れてこそ、Edhenで長生きできる」

 「Cyran Yilfen」と刻まれた身分証は胸ポケットの中。

 銀色のルーンカードもまた、胸元の装飾品のように収まっていた。

 この都市では荷獣の乗り入れが禁止されている。

 ゆえに、ここから先は徒歩だ。

 Yilfenはブレーキを軽く引き、車両を隅へ停車させると、防水布をかけながら小さく呟いた。

 >「しばらくここで待っててくれ。どうもこの街は、お前みたいなのが好きじゃないらしい。心配するな、誰も触れないさ」

 金属にだけ聞こえる程度の小声だった。

 従順な獣のように。

 残弾わずか20mm弾十発となったT-60はエンジンを停止し、人気のない馬小屋の無主荷物群へ静かに溶け込んでいった。

 すべてを終えた後、彼は昼間に回収した魔物の結晶を詰めた袋を担ぎ、都市の冒険者ギルドへ向かう。

 夜の帳が降り始める。

 石段に響くブーツの音は、まるで新兵たちの初集合を告げる号令のようだった。

 傾いた陽光が埃を被ったルーンガラスを貫き、その影を鞘へ納められた剣のように長く伸ばしていく。

 >「ギルドか……。まだ待っていてくれるかな。夜八時くらいまでは開いてそうだけど」

 密かに確認したスマートフォンの時計は午後六時を示していた。

 ギルドまでは約二キロ。

 急げば七時前には到着できるだろう。

 そして近くで宿も探せるはずだ。

 仮想ミニマップの案内に従いながら、重い袋を担いで三十分ほど歩いた末――

 ついに彼はEdhen冒険者ギルドへ辿り着いた。

 白い大理石で築かれた五階建ての壮大な建築。

 最上階には住居区があり、正面には伝説の冒険者一行の像がそびえている。

 それはこの都市の人々の不屈さを象徴する記念碑だった。

 夜更けに近い時間帯。

 ギルドへ足を踏み入れたYilfenを迎えた光は電灯ではなかった。

 ルーン石――魔力によって輝く不思議な鉱石。

 壁や天井に取り付けられたそれらは、まるで異世界の電球のように空間を照らしていた。

 >「ようこそ冒険者ギルドへ。ここでは、あらゆる嘘がルーンによる証明を必要とします――ですが、いつも一拍遅れるその目だけで他人を判断しないように」

 若い男性職員が朗らかにYilfenを迎える。

 館内へ入った瞬間、彼はわずかな寒気を感じた。

 温度のせいではない。

 光のせいだった。

 電気ではなく、目に見えない力から生まれる光。

 壁に埋め込まれたルーンは、白でも黄金でもない、青と銀の狭間に揺れる宝玉のような光を放ち、通り過ぎる者の顔立ちを鋭く浮かび上がらせていた。

 Yilfenは受付へ歩み寄り、袋を置いて言った。

 >「いくつか換金したい物があるんですが」

 応対したのは髪を少し不揃いに切った若い男性職員だった。

 >「承知いたしました。拝見してもよろしいでしょうか」

 袋を開く。

 中から現れた複数の第二級魔物結晶に、職員の目が見開かれた。

 さらに、その中には一際価値の高そうな特殊結晶も混じっていた。

 >「これは……上物ですね。こちらはすべて同格の第二級魔物の結晶ですので、合わせて銀貨二十枚ほど。そして、この特殊第二級結晶は金貨三枚以上の価値があります」

 Yilfenは黙って頷く。

 取引終了後、手元には金貨三枚と銀貨百六十枚が渡された。

 そして彼は続けて尋ねる。

 >「それと、冒険者ギルドへの加入についても聞きたいんですが。今は特に職がなくて……少し稼ぎたいので」

 職員は驚いた様子もなく答えた。

 今日だけでも十数件の申請が来ているのだろう。

 >「冒険者登録をご希望でしたら、身分証と入城許可証をご提示ください。登録料は銀貨五十枚です。こちらが申請書になります。文字が書けない場合はこちらで補助いたします」

 >「分かりました。お願いします」

 基本情報を伝え終えると、手続きはほぼ完了した。

 首元の翻訳ルーンは今日も問題なく機能している。

 >「申請の正式承認には通常三日ほどかかります。お手数ですが、身分証と入城証をご提示ください」

 Yilfenは銀色のルーンカードを差し出した。

 職員はそれを見て頷き、小石のような丸いルーン装置へ軽く触れる。

 しかし魔力認証を終えた直後、その表情が変わった。

 >「失礼しました。お客様の申請は即時承認となります。三十分ほどお待ちください」

 三十分後。

 ルーン徽章と承認済み登録書類が彼の前に差し出された。

 身分等級こそE級新米のままだが、その肩書は「配達人」から「新人冒険者」へと変わっていた。

 >「冒険者ギルドへのご加入、誠にありがとうございます。こちらが仮宿泊用ルームカードです。一年間ギルド内で滞在可能となります。こちらが会員証と登録証明書になります。身分証とルーンカードもお返しいたします」

 >「ありがとうございます……それだけですか?」

 >「はい、それだけです。実力測定は明日行います。それでは案内係を呼びますので」

 職員は魔法通信装置へ向かって告げた。

 >「新規入居者一名。仮宿泊。二階へ案内を」

 それ以上の質問はなかった。

 Yilfenは案内人の後ろを歩き、ルームカードを受け取って部屋へ向かう。

 中は中級宿の客室のように広く快適だった。

 戸惑っている彼へ案内人が言う。

 >「後ほどパンと牛乳、それから小さな肉料理をお持ちいたします。どうぞご自由にお召し上がりください」

 >「ありがとうございます。でも、街に来たばかりの自分にしては豪華すぎませんか?」

 案内人は慌てて首を振った。

 >「いえ、それはその銀色のルーンカードのおかげです。それはVelindia最大商会から信頼された者だけが持てるVIPカードなんです。通常等級ではありますが、それでも所持できるだけで十分特別ですよ。渡した方も相当な大物なんでしょうね……それでは失礼します」

 案内人は去っていった。

 残されたYilfenはまだ状況を理解できずにいる。

 >「Varrikがくれたあのカード……街の中でも本当に優遇されるのか?」

 部屋へ入り、食事を受け取った後。

 ひとまず安全を確認した彼は、ようやくノートパソコンを取り出して報酬画面を開いた。

 ――任務を完了しました。

 ――報酬を受領しますか?

 ――武装補給:T-60弾薬50%補充

 ――Backupカード更新中……

 ――更新完了。報酬:

 ― +1 Backup * T-35

 ― +1 Backup * Air Rank III All Vehicles

 ― +1 Backup * ZiS-30

 ― +1 Backup * GaAZ - 7.62mm

 ― +1 Backup * BT-5

これが報酬か? ……いや、むしろガラクタを押し付けられたと言った方が正しいな……

Yilfenはわずかに苛立っていた。受け取った4つのBackup*は、どれも低ランクの車両ばかりだったからだ。

もっとも、T-35 PremiumとRank III航空機が含まれていた点だけは救いだった。

SPは200まで増加している。しかしT-34のような、より上位のRank II車両を呼び出すには300ポイントが必要であり、さらに乗員訓練も済んでいない状態では22,000SLもの費用がかかる。

とりあえず、明日になってから考えるか。これらで何ができるか見てみよう……

翌朝。

準備を整えたYilfenは、戦闘能力評価試験を受けるために受付へ向かった。

お待たせしました。こちらへどうぞ……

受付係に案内され、螺旋状の回廊を進む。

一歩踏み出すたび、靴底の金属音が石壁の奥へ反響し、静かな余韻となって広がっていく。

規則正しく、揺るぎなく。

ことさら存在感を示そうとはしていないが、その歩みには確かな安定感があった。

鑑定室の中には、ルーンテーブルが一つ。

弓状の測定装置が一基。

そして薄暗い光の中に、一人の人影が立っていた。

ほう、新顔か?

鑑定士の魔術師だった。

背は高く、短く切り揃えた白髪。

灰銀色のローブを纏っている。

挨拶らしい挨拶はない。

あるのは事務的な指示だけだった。

Yilfenは向かいの椅子に腰掛ける。

男の言葉を待った。

その脈導路に手を置け。動くな。この水晶球で適性を測る……

Yilfenは言われた通りに手を置いた。

ルーン球が淡く輝く。

しかし、一般人のように安定した波動を刻むことはなかった。

強烈な光も。

異常な反応も。

何一つ起こらない。

ただ僅かに震え――

わずかに軌道を外れ――

そして消えた。

KCHHH……

背後で微かな音が鳴る。

剃刀の刃が角度を誤ったような。

あるいはガラスの表面を何かが引っ掻き、目に見えない亀裂を残したような。

そんな錯覚。

だが実際には――

魔術の才能はほぼ皆無だ。ランクE。

魔術師は視線を上げた。

それ以上何も言わない。

横の補助端末へ符号を打ち込み、一枚の硬質ルーン紙を出力する。

魔力運用の適性なし。

測定球の反応なし。

測定値10――一般人以下。

運用可能エネルギーを保持していない。

判定:魔術適性なし。

Eランク認定。

つまり俺は……ただの普通の冒険者ということですか?

Yilfenが尋ねる。

すると老人は首を横に振った。

いや。普通以下だ。

若い一般人でも最低50は出る。

だが君はそこにも届いていない。

冒険者稼業は厳しいぞ。雑用ばかりになるだろうな。

新米冒険者の夢が打ち砕かれる光景など、老人は何度も見てきた。

だからこそ、少しだけ声を和らげる。

だが、君にはまだ若さがある。

未来はいくらでも変えられる。

向いていないと思ったら、別の道へ進めばいい。

そう言って老人は結果刻印入りのカードを差し出した。

Yilfenはそれを受け取る。

思ったよりも軽い。

しかし裏面には紫色の光文字が浮かび上がっていた。

『TAG 0147 ― Eランク

冒険者適性なし

技能向上のため要観察』

Yilfenは黙って頷く。

特に反論もしない。

そのまま回廊を後にした。

やっぱり、人が職業を選ぶんじゃない。

職業の方が人を選ぶんだな……

そう心の中で呟きながら。

それでも、もっと努力しなければならないと考えていた。

石段を最後まで降りた時だった。

不意に視線が交差する。

二階の手すり脇に、一人の女性が立っていた。

彼女もまた偶然こちらを見ていたが、Yilfenはすぐに目を逸らした。

ただの職員ではない。

黒地に銀の縁取りが施された制服。

胸元には特殊なルーン識別章。

橙がかった金髪を低くまとめ、

銀縁の眼鏡が鼻筋に静かに収まっている。

その手には、たった今印刷されたばかりの調査資料。

彼女の視線はYilfenを追っていた。

ゆっくりと。

無表情のまま。

だが――偶然にしては静かすぎる視線だった。

……Cyran Yilfen。

この街へ現れた奇妙な男……

彼女は誰にも聞こえない声で、その名を繰り返した。

聞いていたのは彼女自身と、

先ほど脳裏を過ぎった記憶の残像だけだった。

やがてYilfenはギルド本館の大扉を抜ける。

Eランクの認定カードが掌の中に収まっている。

城壁から吹く風は冷たく、乾いていた。

だが――

先ほどギルド内で向けられた数々の視線よりは、ずっと軽かった。

なら、まずは冒険者としてやってみるか。

まだBackupの車両を使う時じゃないし、T-60も今は眠らせておく。

予備の拳銃と、冒険者らしい小さな剣もある。

まずはこの街の基本的な情報を集めるところから始めよう……

そうしてCyran Yilfenは、

異世界での新たな一歩を静かに踏み出した。


第二部 ―― 第一級ダンジョン任務

 それから、およそ一か月。

 Yilfenは比較的簡単な依頼をこなし続けていた。

 報酬は一件につき数十枚の銀貨程度。

 だが彼の目的は金ではない。

 Edhenという都市について情報を集めることだった。

 まず――魔物の等級について。

 この世界では魔物はⅠ級からⅣ級まで分類されている。

 もちろん、それ以上の存在も確認されているが、一般に遭遇することはほとんどない。現在確認されている中で最上位に位置するのはⅧ級以下の存在であり、それらは帝国滅亡級の脅威として扱われていた。

 特殊個体には名前の後ろに「#」が付く。

 そして、この地域で最も実力のある冒険者ですら、Ⅲ級#の魔物と交戦し、生還したことがある程度だった。

 次に――ダンジョン等級。

 これについては、ゲームのBRランク制度によく似ていたため、Yilfenも少々驚いた。

 現在確認されている最高ランクは12.7。

 Velindia中央部に存在する「黒のダンジョン」。

 そこは未だ生還者のいない悪名高き場所である。

 (さらに後の時代には14.7へ再分類されることになる。)

 ランク1ダンジョンは極めて安全とされており、本格的に危険視されるのはランク3以降からだった。

 そして――通貨制度。

 最小単位は銅貨。

 銅貨100枚で銀貨1枚。

 銀貨100枚で金貨1枚。

 さらに上位には白金貨や特殊加工されたダイヤ貨が存在する。

 ただし、この制度はVelindia国内限定であり、他国ではそれぞれ異なる通貨体系が流通していた。

 物価について言えば――

 Yilfenはゲームの頃と同じように、かなり無駄遣いをしていた。

 読めもしない魔導書を数冊。

 魔法杖一本。

 剣一本。

 その中で実際に役立っているものと言えば、一着一金貨ほどの軽量革鎧くらいだった。

 それでも多少の安心感は得られている。

 そして今――

 Yilfenは冒険者ギルド三階の依頼受付区画で列に並んでいた。

 ようやく条件を満たし、ある依頼へ参加できるようになったからだ。

 ――第一級ダンジョン偵察任務。

 低級スライムしか生息しないはずのダンジョンで発生した部分崩落。

 さらに数名の冒険者と住民の失踪。

 その調査が目的だった。

 呼吸をするたびに、石壁から滲み出る冷たい霧が肺へ入り込む。

 背後ではルーン石灯の淡い光が揺れていた。

 高い石造りの天井から降り注ぐ薄明かりは、人々の肌色を一段白く見せている。

 掲示板は霧の中に浮かんでいるかのようだった。

 記録装置の駆動音。

 筆記係のペン先。

 ルーンカード読取機の規則正しい作動音。

 それらはまるで機械生命体の鼓動のように響いていた。

 巨大なルーン投影板には依頼内容が次々と映し出される。

 崩れた石門。

 灰色の砂地に残る巨大な足跡。

 そして最後に現れたのは、三つの赤い円が絡み合う紋章。

 どこか不穏なものを覆い隠すかのようなその印は、第一級ダンジョンを示す古い記号だった。

 前回の調査報告にはこう記されている。

 ――危険度は低い。

 ――だが、不安定化の可能性は高い。

『第一層における崩落構造の確認要員を募集。

 旧採掘区域東端。

 単独行動は非推奨。

 単独潜入の場合は特別許可証が必要。』

 受付の奥から女性職員の声が響いた。

 正確で、無駄がなく、機械のように整った声音。

 周囲の冒険者たちは誰一人その依頼に興味を示していない。

 彼らの視線は、より高ランクの依頼へ向いていた。

 第一級ダンジョンの調査など。

 宝もなく、名誉もなく、ただ危険だけが存在する空洞へ入るようなものだからだ。

 だがYilfenにとっては違った。

 これはEランクからDランクへ昇格する好機だった。

 自分の可能性を示すためにも。

 そう判断した彼は迷わず依頼書を掲示板から取り外し、受付へ向かう。

「この依頼を受けたいんですが」

 受付担当は少し驚いたような表情を見せた。

 一か月前に登録したばかりの若い冒険者。

 それがYilfenだったからだ。

「Yilfenさん。Eランクでしたら、できればパーティを組むことをお勧めします。

 第一級ダンジョン自体はそれほど危険ではありませんが、予想外の事態は起こり得ます。

 ギルド側で増援を手配しましょうか?」

 Yilfenは静かに首を横へ振った。

 彼にとって、この程度の偵察任務は難しいものではない。

 VRシステムを介して操る鋼鉄の機械。

 この世界の誰も見たことのない兵器があるのだから。

「信頼できる仲間がいます。

 召喚されて私と共にここへ来た存在です。

 今は手元にいませんし詳しくは言えませんが……

 彼はとても強い。

 二人や三人分以上の戦力になります。

 それに、以前遺跡探索をした経験もありますので」

 言い終えた瞬間。

 受付嬢の視線が一瞬だけ彼の資料へ落ちた。

 そこには評価欄が表示されている。

 ――魔法適性なし。

 ――突出した能力なし。

 ――一般。

 ――現在評価継続中。

 ――成長機会を与えること。

 淡く点滅するその文字列を見て、彼女はわずかに迷った。

 初めてのダンジョン任務として、この分類の依頼を許可していいのか。

 だが結局、それ以上質問することはなかった。

 彼女は依頼書へ承認印を押し、Yilfenへ差し出す。

「個人任務として承認します。

 同行支援:未確認種の騎乗獣。

 幸運を祈ります。

 必要な情報を持ち帰り任務を完遂した場合、ギルドはあなたの再評価および昇格審査を行います」

「ありがとうございます。必ず成功させます」

 Yilfenは軽く頭を下げた。

 冒険者らしい礼儀正しい所作。

 そして腰の剣の柄をそっと握り締める。

 異世界に来て初めて。

 彼は試してみたかった。

 ――ただの人間である自分が、自らの手で最低ランクの魔物を倒せるのかを。

 受付を離れた彼は、石造りの回廊を歩き始める。

 足元の床はまるで呼吸しているかのように微かに震えていた。

 螺旋階段は龍の腸のように奥へ続く。

 黒い石目。

 青金色のルーン灯。

 人の気配はない。

 聞こえるのは自分の足音だけ。

 それはまるで、別世界から近づいてくる何かの鼓動にも思えた。

「……そういえば、そのダンジョンってどこにあるんだ?」

 その時だった。

 肩に掛けた荷物の中にあるノートPCが反応する。

 ミニマップ上に城外の小規模ダンジョンが点滅し始めた。

 同時に、新たな通知が表示される。

 ――ダンジョン偵察任務。

 ――報酬:100SP+ランダムBooster*。

「へえ……中にもっと危険な何かでもいるのかな……」

 Yilfenは小さく呟いた。

 そして待機場所へ向かう。

 そこには約一か月もの間、静かに眠り続けていたT-60があった。

 補助操縦システム接続。

 起動開始。

 ――ブゥゥゥゥン……

 低い振動音と共にエンジンが目覚める。

 だが外見は依然として、小型の鉄製荷運び亀に偽装されたままだった。

 ギルドの案内を受けながら、彼は第三門へ向かう。

 冒険者専用の出入口。

 自由に都市外へ出られる特別な門である。

 検問所でギルドカードを提示すると、衛兵は特に何も尋ねなかった。

 そのまま通行許可。

 Yilfenは小さな鋼鉄の機械を操り、指定されたダンジョンへ向かう。

 胸の内には期待と不安が入り混じっていた。

 それでも。

 少しずつ、この「冒険者」という立場にも慣れ始めている。

「さて……

 冒険者としての最初の一歩。

 一体何が待っているんだろうな」

 ――初めての冒険者任務。

 ――第一級ダンジョン偵察。

 ――報酬:銀貨100枚。

 目的地までの距離。

 十五キロメートル。

第三部 ―― ダンジョンとT-35

 途切れ途切れの荒い呼吸が、冷たく湿った岩壁の間に反響していた。

 灰色の埃をまとった足がふらつきながら狭い通路を駆け抜ける。

 天井に埋め込まれたルーン灯はとっくに機能を失い、今は死にかけた呼吸のような微かな明滅を繰り返すだけだった。

 男は走っていた。

 手には奇妙なルーン装置。

 近隣地域の探索ギルドから依頼を受け、映像記録を専門とする記録士だった。

 どれほど走り続けたのか、もう覚えていない。

 本来ならば、一部崩落しただけの廃棄ダンジョンであるはずだった。

 入る前に警告も受けていた。

 何人かが潜り、帰ってこなかったと。

 だから男は単純に考えていた。

 低級Goblinが増殖し、第一級ダンジョンが第三級相当へ変貌したのだろう、と。

 だが――

 違った。

 ある部屋の前を通り過ぎた時。

 彼は聞いてしまったのだ。

 鼓動を。

 異様な心臓の鼓動を。

 それは鎧に覆われていた。

 奇怪な金属神経が古びたルーンコアへ突き刺さっている。

 そして――呼吸していた。

 まるで未知の変異種。

 男は、その怪物が瓦礫に閉じ込められているだけだと思った。

 だから逃げた。

 だが、その近くにはもう一体いた。

 黒い怪物。

 蒸気機関車が疾走するような轟音を響かせながら移動する存在。

 全身は漆黒。

 重く、騒々しく、鋼鉄の外殻を持つ獣。

 幸運にも彼は第二層の崩落穴近くの暗がりへ身を潜めることができた。

 そうでなければ、その怪物に轢き潰されていただろう。

 怪物はもう一体の傍へ向かい、

 男は夢中で逃げ出した。

 それ以降の記憶は曖昧だった。

 気付けば、このダンジョンは二層どころか三層分も崩壊している。

 拡張現象まで発生していた。

 さらに記録装置で確認した映像では、二体目の怪物が撮影機器の前で姿を消していた。

 まるで透明化したかのように。

 その事実が男の背筋を凍らせる。

「くそったれ……今日は完全に外れだな……。

 依頼料は二百銀貨まで吊り上げてもらうぞ……。

 生きて帰れたら……もうこんな仕事辞めてやる……」

 男が第一層への崩落地点へ辿り着いた、その時だった。

 下層から不気味な音が響き始める。

 ――Gre... Gre... Gre...

 耳障りな鳴き声。

 次第に近付いてくる。

 低い影。

 黄色く光る目。

 ――Goblin Rank I。

 一匹なら脅威ではない。

 だが、群れとなれば話は別だった。

 奴らは血の匂いを嗅ぐ。

 心臓の鼓動を聞く。

 そして恐怖を感じ取る。

 男は第三層へ剣を置き忘れていた。

 護身手段は何もない。

「逃げろッ!!」

 振り返らない。

 ただ走る。

 この情報さえ持ち帰れば。

 生き残れるかもしれない。

 あるいは死ぬとしても、それなりの価値は残せる。

 出口は目前だった。

 だが――

「なっ……!?」

 第一層の副出口。

 そこに差し込む光を見た瞬間。

 男は足を止めた。

 出口を塞ぐ巨大な影。

 青黒い巨体。

 岩でもない。

 魔物でもない。

 ――金属だ。

 鋼鉄の怪物。

 大型荷獣ほどもある巨体。

 死神の眼のように静かに回転する砲塔。

 灰色の土埃を被った車体は、まるで目覚めを待つ地竜のようだった。

 鋭い砲身が洞窟の奥へ向けられている。

 そしてその背後には――

 六十体を超えるGoblinの群れ。

 すでに男の背後まで迫っていた。

「早く出ろ!

 何ぼさっとしてるんだ!」

 突然聞こえた声。

 男が顔を上げると、鋼鉄の怪物の上から人影が身を乗り出していた。

 考える暇はなかった。

 全力で出口へ飛び出す。

 そして――

 次の瞬間。

 轟音が世界を引き裂いた。

 ――ドドドドドドドドッ!!

 ――ドドドドドドドドッ!!

 ――ドドドドドドドドッ!!

 ――BOOM!!

 ――BOOM!!

 ――GRAAAAAAッ!!

 《Target Destroyed》

 《Target Destroyed》

 《Target Destroyed》

 炎が咲く。

 全砲塔が洞窟内部へ火線を放った。

 先頭のGoblinが熟れた果実のように破裂する。

 群れが悲鳴を上げる。

 本能による恐怖。

 だが遅かった。

 同軸機銃が前列を薙ぎ払う。

 続いて主砲が低く唸った。

 人皮太鼓を叩いたような重い咆哮。

 HE弾が空気を裂き、天井ごと吹き飛ばす。

 二、三秒ごとに45mm砲が連続発射。

 その後を追うように75mm砲。

 最後は7.62mm機銃の豪雨。

 まるで戦争そのものだった。

「ば、化け物だ……」

 男はそれしか考えられなかった。

 頭を抱え、その場へしゃがみ込む。

 気付けばGoblinの群れは存在しなくなっていた。

 銃声が止む。

 男は地面へ崩れ落ちる。

 記録装置だけは離さない。

 だが何も落ちてこない。

 あるのは熱せられた金属の匂いと、砂埃を巻き上げる風だけだった。

 ――

 数時間前。

 Yilfenは冒険者としての仕事に慣れるため、低級魔物を剣で倒しながらダンジョン内部の異常を調査していた。

 T-60から降りる。

 腰にはK-59。

 手には剣。

 そして洞窟へ足を踏み入れる。

「T-60はここで待機だな。

 せっかくの冒険者デビューなんだ。

 少しくらいダンジョン探索らしいことをしないと」

 しかし。

 わずか三十分後。

 再びT-60に頼ることになるとは、この時まだ知らない。

 ――コツ、コツ。

 スマートフォンのライトで暗闇を照らしながら進む。

 ルーン石の光を頼りに状況を確認していると――

 ――ぬちゃり。

「ん?

 あれって……Slimeか?」

 目の前でゆっくり蠢く半透明の塊。

 ファンタジー作品で何度も見た存在だった。

 Yilfenは剣を構える。

 核を壊せば倒せる。

 その知識は知っていた。

 観察すると確かに内部に小さな核が見える。

「試してみるか」

 ――シュッ。

 ――ぷしゅぅぅ……

 人生初のSlime討伐。

「この感覚……

 初めて敵車両を撃破した時みたいで最高だな……」

 そう言いかけた瞬間。

 ――Gre Gre Gre...

 ぽん。

 何かが肩へ触れた。

 振り向く。

 緑色の手。

 そして振り下ろされる木製棍棒。

「っ!?」

 反射的に回避。

 同時に剣を振り抜く。

 Goblinは悲鳴すら上げられず、青い血を流して倒れた。

「Goblin……?

 いや、待て。

 これ絶対おかしいだろ」

 次の瞬間。

 周囲から大量のGoblinが現れた。

 二十体近い群れ。

 Yilfenは即座に判断する。

 戦うな。

 逃げろ。

「これが安全ランクだって!?

 難易度高すぎだろ!!」

 冒険者への憧れは一瞬で吹き飛んだ。

 残ったのは現実的判断だけ。

 ――T-60まで逃げる。

 そして砲撃で片付ける。

 それが最適解だった。

 数体のGoblinはK-59で排除。

 倒れた死体はすぐに消滅していく。

 だが数が多すぎる。

 弾薬が足りない。

 結局YilfenはT-60へ飛び乗った。

 そして――

 戦闘終了後。

 彼は新たな問題に気付く。

「まだ崩落地点まで辿り着いてない。

 任務完了通知も出ないし……」

 Goblinの数が異常だった。

 もし群れ続けるならT-60だけでは心許ない。

 その時。

 Yilfenの脳裏にBackup*が浮かぶ。

 少し考えた末。

 彼は決断した。

 ――T-35 Backup* 使用。

 《確認しますか?》

 《確認済み》

 《召喚開始》

 眩い光。

 そして現れたのは多砲塔戦車。

 T-35だった。

 同時にVRシステムが新機能を告げる。

 ――仮想乗員システム起動。

 ――以後、召喚車両には仮想乗員を配置。

 ――乗員損害は車両損傷として処理。

 ――AI支援機能解放。

 ――チャット指示による目標指定可能。

「……これって完全にゲームのダメージシステムじゃないか。

 しかも召喚車両の指揮機能まであるのか」

 等価交換。

 失ったものは大きい。

 だが得たものも確かに存在していた。

 T-35は砲塔を回転させる。

 Yilfenが指揮位置へ立つ。

 車体を斜めに配置。

 全砲門が出口へ向く。

 そして待機。

 しばらくして。

 あの男が飛び出してきた。

 その後ろには六十体以上のGoblin。

「人がいる……

 間に合ってくれよ」

 そして現在へ至る。

 Goblinの群れは砲火によって消し飛んだ。

 名もなき男は地面へ崩れ落ちる。

 特殊な記録ルーン装置を胸へ抱き締めたまま。

 YilfenとT-35は沈黙していた。

 冒険者としての夢。

 その甘い幻想は、開始直後に現実へ叩き潰された。

 風が吹き抜ける。

 だがYilfenの視線は洞窟の奥を見据えていた。

 ――まだ終わっていない。

 この奥には。

 回収すべき情報がある。

 エンジンが唸る。

 重く。

 鈍く。

 鋼鉄の要塞が再びダンジョンへ進もうとしていた。

 だがその前に。

 Yilfenはエンジンを停止させる。

 車体から降りる。

 肩掛け鞄を整えながら、命からがら逃げ延びてきた男へ歩み寄った。

 そして静かに尋ねる。

「中で、一体何を見たんですか?」


第四部 ―― 鋼鉄の魔獣の呼吸

 T-35はその場に静止していた。

 まるで太古の戦争遺跡が再び目覚めたかのように。

 左側副砲塔の周囲には、まだ薄く煙が漂っている。

 ほんの数分前まで、45mm砲、75mm砲、そして7.62mm機銃が、それぞれの射界限界近くまで旋回しながら弾幕を吐き続けていたのだ。

 車内では砲弾の薬莢と機銃弾の空薬莢が散乱している。

 未だ熱を帯びた金属から白い蒸気が立ち上り、地下の冷気の中へ溶けていった。

 車外へ弾き出された真鍮色の薬莢は、石段やダンジョン入口の地面を転がり落ちる。

 ――チリン。

 ――カラン。

 ――チン……。

 まるで沈黙した鐘楼を叩く金属音のようだった。

 狭い操縦区画の熱気は徐々に冷め始めている。

 しかし火薬の臭いだけは濃く残っていた。

 Yilfenは車体上面に立っていた。

 ダンジョン内部を吹き抜ける風はどこか巨大な換気孔から流れ込んでくるように緩やかだ。

 彼は車体から飛び降りる。

 濡れた岩床へブーツが着地した。

 冒険者としての第一歩。

 その淡い期待は火薬の臭いと共に吹き飛んでいた。

 あと一瞬反応が遅れていたなら、自分も死んでいたかもしれない。

 そんな現実だけが残る。

 救出された男は未だにルーン記録装置を抱き締めていた。

 顔色は青白い。

 まるで処刑台へ向かう囚人のように固く目を閉じている。

「こんにちは。

 私はEdhen所属の冒険者で、現在このダンジョンの偵察任務を受けています。

 何があったんですか?

 どうしてGoblinたちに追われていたんです?」

 男はゆっくりと目を開いた。

 目の前の若い冒険者を見る。

 彼があの青い怪物を操っていたことに恐怖を覚えているのは明らかだった。

 だが、どうにか平静を保ちながら答える。

「怪物だ……

 高位種の怪物だよ……

 あんな生き物、今まで見たことがない……」

「何を見たんです?」

 Yilfenが問い返す。

 男は喉を震わせながら答えた。

「わ、分からない……

 だが巨大だった。

 幸いなことに、何かの部屋に閉じ込められていた。

 全身が装甲で覆われていたんだ。

 異様だった。

 金属の神経みたいなものが古いルーンコアへ突き刺さっていて……

 それが……呼吸していた。

 変異種だ。

 そいつの出す音だけでダンジョンが崩落していた。

 普通の魔物じゃない。

 まるで……

 巨大な心臓が鼓動しているようだった……」

「ランクは?」

 男は震えながら続ける。

「Ⅲ級だ。

 いや……Ⅲ級#かもしれない。

 あるいは未分類のⅣ級。

 奴へ続く通路は、その鼓動だけで床ごと崩れ落ちていた……」

「それだけですか……」

 Yilfenが呟く。

 そこで男はようやく自己紹介をした。

「私はただの情報記録員だ。

 三十マイル先の中継都市近くの町にあるギルドから依頼を受けて来た。

 行方不明者が出たから情報収集を頼まれたんだ。

 だが……

 本当に助かった。

 君と……

 あの青い奇妙な霊獣のおかげでな……」

 情報は曖昧だった。

 Yilfenは男の抱えている記録装置に目を向ける。

 映像が残っているのなら有力な手掛かりになる。

 そう思って尋ねようとしたが――

「この情報は渡せない」

 男は即座に拒否した。

「これは俺の飯の種なんだ」

 Yilfenはそれ以上追及しなかった。

 ただギルド証の紐を軽く握る。

 すると男は少し迷った後、小声で付け加えた。

「一体じゃない」

「……?」

「俺は……

 二体いたと思う」

 Yilfenの動きが止まった。

「に、二体?」

「間違いないのか?」

「もう一体いた。

 黒い怪物だ。

 呼吸音が聞こえた……

 君の操る獣にも少し似ていた。

 だが違う。

 最初の奴みたいな異音じゃない。

 もっと規則的だった。

 ――フシュウ……

 ――フシュウ……

 そんな音だ。

 まるで中継都市を走る蒸気機関車のような……」

「機関車……?」

 Yilfenは眉をひそめた。

 最初は単なる変異魔物だと思っていた。

 だが話がおかしい。

「そうだ。

 ただし小型機関車とは違う。

 もっと低い音だ。

 重い。

 なのに鋭い。

 何千もの部品が同時に動いているような……

 そんな呼吸だった。

 鋼鉄の管を通して息をしている生き物みたいに……」

 背筋を冷たいものが走った。

 Yilfenは振り返る。

 停止状態のT-35を見る。

 耳を澄ませる。

 ――ゴトゴト……

 ――カタカタ……

(違う……)

(その表現……)

(むしろガスタービンエンジンに近い……?)

(待て……)

(この世界にそんな技術があるはずがない)

 Yilfenは再び男へ向いた。

「その機関車とやらは、いつ頃から存在しているんだ?」

 男は少し落ち着きを取り戻して答えた。

「十年以上前かな。

 石炭で動いている。

 今じゃ絶えず走り続けているよ。

 おかげで商隊も昔の街道を使わなくなった」

 十年。

 その数字がYilfenの胸を重くする。

(十年足らずで……)

(T-80BVM級に近い動力技術?)

(いや……)

(そんな偶然があるわけない)

(考えられる最悪の可能性は一つだけだ)

(俺は最初の転移者じゃない)

(誰かが先に来ている)

(そして――)

(そいつは既に十分な時間と資源を手に入れている)

 ゆっくりと息を吐く。

 まだ仮説だ。

 証拠はない。

 だが確認しなければならない。

 YilfenはT-60を近くの岩陰へ待機させる。

 そしてT-35へ指令を送った。

 履帯が動き始める。

 ――ブゥゥゥゥゥ……

 重々しい振動。

 車体がゆっくり前進する。

 彼の脳裏には最悪の未来が浮かんでいた。

 自分は後発組。

 先に来た者たちは既に最高ランクへ到達している。

 十分な戦力も持っている。

 なのに自分は未だ初心者。

 Eランク冒険者。

 それだけだ。

 Yilfenは男へ最後に一言だけ告げた。

「ここで待っていてください」

 そして少しだけ視線を鋭くする。

「中には入らない方がいい。

 あなたが記録した映像も……

 消してしまった方がいいかもしれません」

 各砲塔が前方へ旋回する。

 旋回できない砲塔は防御方向を維持したまま固定。

 T-35は地面へ履帯の跡を刻みながら進み始めた。

 安全だったはずの第一級ダンジョン。

 今やそれは危険地帯へ変貌している。

(もう一人のプレイヤー……か)

(もし本当にいるなら……)

(それは最悪のケースだな)

 鋼鉄の怪物は暗闇の奥へ進んでいく。

 その先で待つものが何であれ――

 Yilfenは確かめなければならなかった。


第五部 ―― この世界に属さない影

 T-35が低く唸る。

 そのガソリンエンジンは規則正しく鼓動していたが、どこか気怠げだった。

 まるで長い眠りから無理やり起こされた機械が吐く溜息のように。

 履帯が岩盤を擦る。

 金属が石を引っ掻く音が反響しながらダンジョンの奥へと響いていく。

 黄色い前照灯の光は歪な影を壁へ描き出し、周囲の景色を巨大な生物の内臓のように見せていた。

 YilfenはVRシステム越しに周囲を監視していた。

 一人称視点。

 狭い視界。

 消えたルーン灯の代わりに車載ライトだけが闇を切り裂く。

 突如現れる魔物たちは、そのたびに砲撃や機銃掃射によって消し飛んだ。

 Slimeも。

 Goblinも。

 数は多い。

 だが弾薬が尽きる気配はない。

 鋼鉄の要塞であるT-35にとって、それは痒み程度の脅威でしかなかった。

 ――BOOM!

 ――BOOM!

 ――ドドドドドドッ!!

 Slimeが原形を留めぬほど吹き飛ぶ。

 新たに湧いたGoblinの群れも銃弾の嵐に呑まれ、跡形もなく消滅した。

 やがて最初の崩落地点へ到達する。

 異常なし。

 さらに深く。

 さらに奥へ。

 下れば下るほど空洞は巨大になっていく。

 事前に覚悟していたにもかかわらず、不安だけが増していった。

 ――第三崩落層。

 男が剣を置き忘れたという副コア区画への分岐。

 Yilfenは車両を停止させた。

 車外へ出る。

 落ちていた剣を回収する。

 周囲を調査しながら手帳へ状況を書き込んだ。

 危険度上昇。

 Goblin大量発生。

 ダンジョン拡張現象。

 記録は着実に増えていく。

「なるほど……

 あの男が言っていた怪物にも近付いているわけか。

 でも鼓動音は聞こえない。

 まさかもう一体の怪物と関係があるのか……?」

 そして――

 問題の部屋へ辿り着いた瞬間。

 Yilfenは足を止めた。

「……なんだ、これ」

 言葉を失う。

 目の前には巨大な肉塊が転がっていた。

 崩れ落ちるように溶けていく異形。

「これが……

 あの怪物……?」

 鉄の殻を持つ巨大な心臓。

 男の証言通りならⅢ級#相当。

 だが。

 既に死んでいた。

 腐敗臭はない。

 ただダンジョンそのものへ還るように消滅を始めている。

 Yilfenは傷口へ視線を向けた。

 一撃だった。

 貫通孔は綺麗すぎるほど綺麗だった。

 まるで巨大な鋼鉄の矢が貫いたように。

 致命傷。

 即死。

 迷いも躊躇もない。

 ただ殺すためだけの一撃。

「この痕跡は……」

 彼は膝をつく。

 装甲の裏側。

 そこには壁面へ続く一直線の穴。

 ライトを向ける。

 壁は深く抉られていた。

 放射状の焼損痕。

 魔法では不可能。

 あまりにも機械的。

 あまりにも見覚えがある。

 Yilfenは呟いた。

「APFSDS……」

 指先で壁面をなぞる。

 高熱摩擦による焼損。

 運動エネルギー弾特有の痕跡。

 そして――

 彼は見つけてしまった。

 壁際に転がる細長い破片。

 軽量合金製。

 縦に裂けたサボット片。

 その表面にはかすかに刻印が残っていた。

「DM53……」

 喉が引き攣る。

 身体が凍り付く。

 脳裏に古い記憶が蘇る。

 数年前。

 T-90Aの改修作業を進めていた頃。

『Attack the D point!』

『Attention to the map!』

『Leopard! 12時方向! 距離650!』

 ――BOOM!

 ――Hit。

 ――ドォン!!

『乗員全滅』

 後退速度4km/h。

 砲身補正遅延。

 僅かな照準ミス。

 画面を横切るDM53。

 次の瞬間には暗転。

 砲弾は車体を斜めに貫通し、そのまま反対側へ突き抜けた。

 T-90A撃破。

 警告すらなかった。

『NOOB』

 敗北後のチャット。

 それだけが残った。

 ソ連戦車乗りが最も恐れるもの。

 俯角不足。

 後退速度。

 そしてLeopard。

 どれだけ「Russian Bias」だと叫ばれようと、それは変わらない現実だった。

 Yilfenは深く息を吐く。

 DM53。

 この弾種を使う車両は限られている。

 経験上、おそらく――

 Leopard 2A5。

 あるいは2A6。

 2A7やPSOではない。

 そして操縦者は熟練者だ。

 待ち伏せ。

 隠蔽。

 一撃離脱。

 狩り慣れた捕食者。

 集団ではない。

 個人の戦い方。

 この射撃地点も偶然ではない。

 これは――

 メッセージだ。

 しかも今の自分が持つ車両群より格上。

 Yilfenはゆっくりとサボット片を拾い上げた。

「俺はここにいる」

 そう告げるかのような痕跡。

 一発。

 一撃必殺。

 それだけで十分だった。

「これは……

 新しい獲物を待っているのか。

 それとも最初から俺を狙っているのか……」

 答えはない。

 だが撤退するには十分すぎる情報だった。

 その時。

 通知が表示される。

 ――偵察任務完了。

 ――ギルドへ帰還し報酬を受け取ってください。

「撤退だな……」

 Yilfenは小さく呟いた。

「今の俺じゃ対処できない」

 T-35へ乗り込む。

 第二崩落層まで約五キロ。

 帰路は長い。

 異世界へ来てからというもの、嫌な予感ばかりが現実になっていた。

 エンジンが唸る。

 ――ブゥゥゥゥン……

 Yilfenは拳を握り締めた。

 怪物は倒されていた。

 だが彼の心は重かった。

 恐怖ではない。

 理解してしまったからだ。

 もう相手は魔物ではない。

 これはPvEでは終わらない。

 PvPだ。

 車体を反転させる。

 撤退開始。

 その時だった。

 岩壁の向こう。

 何の音もない。

 エンジン音も。

 魔法反応も。

 ただ――

 視線だけがあった。

 魔力で補助された熱線観測装置。

 一度だけ瞬く。

 それは既にYilfenを捉えていた。

 獲物が失敗する瞬間を待つ捕食者のように。

 T-35は再び履帯を回す。

 老いた獣のようにゆっくりと。

 だが今、Yilfenの脳裏にあるのは魔物ではない。

 別の存在。

 自分と同じ世界から来たかもしれない者。

 War Thunderを知る誰か。

 そして――

 その誰かは今、

 確実に自分へ照準を向けている。

(――十二年前。

 『血と鉄の力』を解き明かした鍵が……

 ついに俺の目の前へ現れた!)

 異世界へ転移してから。

 四か月と十六日。

 Yilfenはまだ知らない。

 その出会いが、この世界の運命すら揺るがすことになることを。

 ――第六章・完。


外伝 ―― 小さなSlimeの独り言

 私はもう、とっくの昔に死んだ人間だ。

 どれくらい前だったのかは覚えていない。

 気付いた時には、このダンジョンの中でSlimeとして生まれ変わっていた。

 魂が成仏できなかったかららしい。

 まあ、それでも悪くはない。

 私の仕事は単純だ。

 ダンジョン内のゴミを分解し、初心者向け魔物として冒険者たちの経験値になること。

 新人冒険者が私を倒すたび、私は少し嬉しくなる。

 ――ああ、また一人。

 ――冒険者への第一歩を踏み出したんだな。

 そう思えるからだ。

 他の魔物たちは言う。

「人間に殺され続けるなんて嫌じゃないのか?」

「何度も死んで蘇るなんて虚しくないのか?」

「もう成仏した方がいいぞ」

 でも私はそう思わない。

 誰かの成長を助ける。

 それが小さな生き物の役目だろう。

 だから今日も、いつも通りだった。

 ――のはずだった。

 だが今日は妙なことが二つも起きた。

 一人の奇妙な魔法使い。

 そして、負けず劣らず奇妙な冒険者。

 まず魔法使いの方だ。

 彼女は黒い鉄の怪物に乗っていた。

 うるさい。

 とにかくうるさい。

 地面には巨大なムカデみたいな足跡が残る。

 私のような小さな存在には見向きもしない。

 そのまま崩落穴へ向かい――

 第三層へ消えていった。

「……あの怪物、何なんだろう」

 そう思っているうちに時間は過ぎた。

 私は第一層でのんびりしていた。

 すると今度は冒険者が現れた。

 若い男だった。

 彼は私を見るなり剣を抜いた。

 そして私の中にある魔石へ狙いを定める。

「あああああぁぁぁ……

 そろそろ串刺しの時間かぁ……」

 ――シュッ。

 ――パキッ。

 私は消滅した。

 虚空へ還る。

 そして再生待機。

(近くにGoblinがいるんだけどなぁ)

(教えてあげられないんだよねぇ)

(まあ、頑張ってね)

 そう思いながら。

 ――Respawn。

 再び目を開く。

「……え?」

「え?」

「えええええええぇぇぇぇっ!?」

 目の前にいたのは。

 青い。

 巨大な。

 多頭の怪物だった。

 しかもでかい。

 とんでもなくでかい。

 そして何だか妙に見覚えのある気配。

 さっきの冒険者に似ている。

 でも違う。

 決定的に違う。

 何故なら――

 その黒い筒が全部こちらを向いていたからだ。

 私は考えた。

 ほんの一秒だけ。

「……うん」

「やっぱり転生した方がいいかもしれない」

 ――BOOM。

 ――ドドドドドドドドッ!!

 《Target Destroyed》

 その日。

 小さなSlimeは悟った。

 冒険者に倒されるのは経験値になる。

 だが。

 戦車に倒されるのは何かが違う、と。

 たぶん。

 とても違う。

 ものすごく違う。

 そして次に復活したら、

 少しだけ遠くの場所へ引っ越そうと心に決めたのだった。

 ――外伝・完。



 次章では、第六章の戦いの続きが描かれます。

 一人の謎めいた人物が鋼鉄の機械と共に姿を現し、第一部における中心的な敵役として物語へ関わっていく予定です。また、現在構想中の本格的なメインヴィランについても、今後の各章で並行して登場させていく予定です。


 次回の更新も、これまでと同じく火曜日の午後を予定しています。ただし、時差などの関係で公開が遅れる場合があります。


 もし更新延期などの問題が発生した場合は、可能な限り事前に一部を先行公開するか、あるいは延期のお知らせを掲載する予定です。

次章で

 最後になりますが、この拙いアマチュア作品に興味を持ち、ここまで読んでくださった皆様に心より感謝いたします。


 今後ともよろしくお願いいたします。

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