第15章:ZARATHEN ― 機械の町(1)
前書き
長い間お待ちいただき、ありがとうございます。
本作は素人の手による作品ですが、私自身も仕事に追われる日々の中、少しずつ完成度を高められるよう努力を続けています。
今回の章では、異世界での生活が本来どれほど過酷なものであるかを、皆さんにお見せしたいと思います。また、地下洞窟の内部に築かれた町が、主人公の一時的な滞在先となります。
ここ数週間、インフルエンザにかかってしまったため、更新ペースが落ちてしまいました。そのため、今回は第15章の第1部と第2部を先に公開します。
どうかご理解いただければ幸いです。(ハックション!)
皆さんからの応援は、執筆に使える時間がわずかしかない中でも、作品をより良いものへと仕上げていくための大きな励みになります。
いつも応援してくださり、本当にありがとうございます。
第1部:すれ違う影
午前11時、昼近く。Miraが働いているルーン刻印店――
「おい、Mira! 俺たちは中継都市を離れなきゃならない。もう、ここにはいられないんだ!」
「えっ……?」Miraは驚いた表情を浮かべた。「別の町へ行くの? 私たち二人だけで……? 何か問題でもあったの?」
「ああ。今日の午後には出発する」Brenは焦った様子で答えた。「店主にそう伝えてくれ。午後には出ると話してある。借りていた部屋の料金も、もう全額支払ってあるからな。荷物もすぐに取りに戻れる。
今の俺たちに残っているのは、金貨二枚、銀貨二十枚、そして四十枚の銅貨だけだ。これ以上、この町に留まるわけにはいかない……。
移民たちが町の中をあちこち移動しているせいで、兵士たちの監視が日に日に厳しくなっている。明日には、王都から来た魔術師たちが専用の検査装置を使い、新たに入ってきた住民を一斉に調べるらしい。酒場でついさっき手に入れた情報だ。
だから、今すぐ出発しなければならない」
「それで……あなたが言っていた町は……安全なの?」
「ここにいるよりは、ずっと安全だ。俺はそう確信している。さっき会った人物が、俺たちの住む場所を手配してくれると約束してくれた。それに、もしかすると……あの人こそ、俺たちが探していた手掛かりなのかもしれない」
郊外で年老いた兵士と会ったあと、Brenはすぐに戻り、出発の準備を整えた。
一方、Miraもわずか一週間足らずの間に、店主のために数々の精巧な工芸品を制作していた。商人たちがその作品を次々と買い求めたため、彼女は百枚近い金貨を稼いでいたのだった。
「な、なんだって……や、辞めるのかい? おやおや……。せっかく、あれほどの腕前を持つ職人がうちに来てくれたというのに……。
いや、いいんだ。君が望むなら、いつでも戻ってきてくれて構わない。
この一週間、君のおかげで私も多くを学ばせてもらった。それに、数年は余裕を持って暮らせるほどの金まで稼がせてもらったんだ。本当に感謝しているよ。
さあ、これを受け取ってくれ」
店主は小さな金貨の入った袋を差し出した。
「今回の作品は数こそ少ないが、その品質と価値は素晴らしい。商人たちは、誰もが手に入れたがっているほどだからね。これは、その礼だと思ってくれ」
Miraはその袋を受け取った。
かつて大きな発言力を持っていた彼女なら、こんな金貨の袋など、即座に断ることもできただろう。
しかし……今の彼女は、別の身分を装って働く一介の職人にすぎない。
そして、この金貨は、彼女たちに新たな逃げ道を与えてくれるものだった。
執拗な追跡を逃れ、彼女たちを狙うさまざまな勢力の目から身を隠すための道を――。
Edhenの生き残りである、彼女たちのために。
「ありがとうございます。それでは……失礼します」
二人は店をあとにすると、急いで荷物をまとめ、中継都市の外にある待ち合わせ場所へと向かった。
Grenmark郊外――夕暮れ
空には薄い霧がかかっていた。それはまるで、絶え間なく移動する移民たちの秘密を覆い隠す、薄いヴェールのようだった。
Edhenの周囲三十キロメートルはすべて兵士たちによって封鎖されている。その結果、この一帯は、かえって情報の統制が難しい地域となっていた。
空から差し込むかすかな光は、何とか地上へ届こうとしていた。しかし、風の吹くたびに肌を刺すような寒気を払うには、あまりにも弱々しい。
みぞれ混じりの雪が、旅人たちの吐く息の中を舞い、降り積もっていく。
そして、町の外に取り残され、命を落とした不運な者たちの遺体にも、容赦なく雪が降り注いでいた。
「お、おねがいです……。何か食べ物を恵んでください……」
「旦那様方、余っている藁や古着などはありませんか? どうか、私たちに分けてください……」
ドンッ!
「失せろ! うちの商会には、お前らに食わせる食料なんてないんだ! お前もだ!」
ドカッ、ドカッ!
「荷馬車にしがみついて、いったい何のつもりだ! さっさと離れろ!」
護衛を務める傭兵の男は、苛立ちを隠そうともせず、運に見放された移民たちを強く蹴り飛ばした。蹴られた人々は、道の両脇へと転がっていく。
ほんの数時間前にも、後方を走っていた荷馬車の一台が逃げ遅れ、地域の盗賊たちに襲われていた。被害額は数千枚もの銀貨に達していた。
それでも、隊列を立て直して確認したところ、最も重要な積み荷には被害がなかった。そのため商隊は、襲われた荷馬車を失いながらも、納期に間に合わせるべく、急いでGrenmarkへ向かっていた。
彼らが厳しい検問を受けながら城門を通過したのは、ちょうどBrenとMiraが南門から町の外へ出ようとしていた頃だった。
検問を終えた商隊は、あらかじめ予約していた宿泊場所へと向かった。
彼らの通行証には、東方から運ばれてきた品物の詳細が記されていた。
そこにあったのは、何らかの祝祭を祝う贈り物と思われる、精巧な白磁の壺が二つ。
その品々は、Arvenwald邸へと運ばれる予定だった。
それから一週間以上が過ぎた。
Edhenから逃れてきた移民の姿は、この中継都市でもほとんど見られなくなっていた。誰もが、耐えがたい寒さに打ちのめされていたからだ。
残っているのは、突然現れる盗賊団の襲撃を避けるため、急いで町へ入ってくる少数の商隊くらいだった。
MiraとBrenの二人は、Brenの記憶を頼りに、あの男が示した目印をたどっていた。向かう先は、南の森の奥深くにある倉庫だった。
昼間だというのに、空はどんよりと曇っている。命を脅かすような寒さは依然として続き、みぞれ混じりの雪が降り始めていた。
南の森では、葉を落とし始めた木々が、少しずつ白い雪に覆われていく。
「もう……一週間以上も経ったのね……。今頃、Edhenはどうなっているのかしら……。あの地獄から生き延びた人がまだいるって、彼らは知っているのかな……」
Brenの後ろを歩きながら、Miraは不安げに、ほとんど囁くような声で呟いた。
かつてギルドマスターを務めていた彼女の直感は、予測不能な情勢の変化に対して、常に警戒を怠らなかった。
今の彼女とBrenは、辺境から来た移民という身分を装っている。
だが、これ以上Grenmarkに留まれば……二人もまた、すでに捕らえられた者たちと同じ運命をたどることになるかもしれない。
それでも、Brenの隣を歩くという選択を、彼女は一度たりとも後悔したことがなかった。
他人の気遣う視線をいつも避けている、正体の知れない男。
それなのに、彼女の心は彼に惹かれていた。
まるで、かつて初めて彼と出会ったあの日のように……。
ザッ、ザッ……。
二人はそのまま土の道を進み続けた。
やがて、草がきれいに刈り取られ、馬車の車輪の跡がいくつも残る開けた場所へとたどり着いた。
「着いたぞ、Mira」
Brenは道の先へ視線を向けた。
「前方にいるのが、Stepanovichという老人だ。あの人が馬車隊と一緒に待っている」
Miraも彼の視線を追い、道の先を見つめた。
そこでは、年配の男の指示のもと、荷物を運ぶ作業員たちが列を作っていた。
その老人は、Brenと同じように、この土地の人間とはどこか違う雰囲気をまとっていた。
Stepanovich――Brenがそう呼んだその名は、Velindiaの人間にはあまり見られない名前だった。
「おや……Bren、それに……Miraというお嬢さんだったかな。初めまして。こうして会えて光栄だよ」
Stepanovichは、肩に荷物を担いで歩いてきた二人へ声をかけた。
「二人とも来たな。荷物は多いか? さあ、馬車に積んでくれ。これから少し長い道のりになる。体力を温存しておくことが大切だぞ」
老人は二人を荷馬車のほうへと促した。
彼自身も、すでに荷物をまとめていた。この倉庫に、これ以上長く留まることはできなかったからだ。
ここ数日、よからぬ意図を持った何者かが、倉庫の周辺をうろついているのを何度か目撃していた。
「ありがとうございます」
Brenはそう答えた。
馬たちは鼻を鳴らしながら、御者の準備が整うのをじっと待っていた。
作業員たちは、果物や種子、石炭や薪といった原材料の入った木箱を次々と荷馬車に積み込んでいる。
中には、土産物を示す印が付けられ、丁寧に梱包された品々もあった。
すべての荷物が整然と積み上げられ、簡素な防水布で覆われていく。
Stepanovichの指示に従い、BrenとMiraも最後尾の荷馬車へ仮の荷物を積み込んだ。
その間に、老人は倉庫の扉を勢いよく閉めた。荷馬車の状態をもう一度確認すると、自分の暮らす地下の町へ向かう準備を整えた。
「さあ、出発だ! 厄介者どもがここへ集まってくる前にな。Suka!」
馬が甲高くいななく。
ヒヒーン!
カタッ、カタッ、カタッ……。
十台近くの馬車が、ゆっくりと列を作り、南東へ続く道を進み始めた。
Mira、Bren、そしてStepanovichの三人は二台目の荷馬車に乗り合わせ、道中、互いの疑問について話し始めた。
「これから向かう町って……どんなところなの?」
Miraが尋ねた。
「町のことか?」
Stepanovichは答えた。
「そこは洞窟の入口に近い場所にある。ここの連中、正確には冒険者たちが、ときどき近くにダンジョンがあると噂している場所だ。
だが、実際に中へ入るための道を知っているのは、町の住人くらいのものだ。
あそこは、この世界に受け入れられなかった者たちのための場所だ。……そして、この老いぼれのような人間が暮らす場所でもある。
一年中、人工の光しかない。太陽の光なんて、まったく届かないんだ」
「それで、そこまでの道のりは遠いのか?」
Brenが尋ねた。
荷馬車がくぼみに差しかかると、彼は揺れに備えて車体の縁を強く握った。
馬車は大きく揺れたものの、すぐに何事もなかったかのように走り続けた。
「そうだな……あの町へ行くには、まず前方にある石造りの見張り小屋を通り過ぎ、左手の古びた道へ入るんだ。
ただし、そこまで進んでも、まだ入口にたどり着いただけにすぎない。
町そのものは……フフフ、まだまだ先だ!」
老人は意味ありげに笑った。
「Zarathen。それがあの町の名前だ。
別名は、『この世界には属さない機械の町』。
あそこに関する情報は、すべて秘密にしておかねばならない。知る者は少なければ少ないほどいい」
カタッ、カタッ、カタッ……。
荷馬車の一団が広い土道へ入ったとき、前方を進んでいた者たちが、道端に散乱する無残な光景を見つけた。
破壊された荷馬車の残骸。そして、その周囲に横たわる複数の遺体。
ある者の体には、剣や鋭い短剣で刺されたような傷が残っていた。また、別の遺体は、すでに土の中へ埋められていた。
少し前に発生した盗賊の襲撃。その痕跡は、降りしきる雪によって白く覆い隠されようとしていた。
「Stepanovichの旦那。このあたりでは、どうやら街道を塞いで略奪する連中が出没しているようです」
長年、老人のもとで働いてきた先頭の作業員が報告した。
「心配するな。そのまま進め。あんな連中、この老いぼれに言わせれば素人同然だ」
それを聞いたMiraは、急いで尋ねた。
「この人たち……本当に信用できるの?」
彼女の脳裏には、かつて経験した出来事がよみがえっていた。
荷物を届けたばかりの商隊が、突然裏切り、盗賊たちと手を組んだことがあったのだ。
雪が降り続ける中、Stepanovichは少しも不安そうな様子を見せず、答えた。
「この連中の大半は、何度も雇ったことがある。口も堅い。
洞窟の入口に近づけば、そこで引き返す手はずになっている。
雇っているのは、どこの馬の骨とも知れない連中じゃない。兵士としての経験がある者も、それなりにいるんだ。
このあたりにいるのは、せいぜいダンジョンの偵察任務に来た冒険者が少しいるくらいだ。兵士がわざわざ、あんな場所まで来る理由もない。
それに、内部の者たちとはすでに連絡を取ってある。向こうから迎えが来るはずだから、二人とも心配はいらん。Blyat!」
話しながら、Stepanovichは荷物袋の中を探った。
ちょうどそのとき、袋の中から紫色の結晶が取り付けられた二本の首飾りを取り出した。
老人はそれを二人へ差し出し、説明した。
「地下の町で暮らすには……服装を変えるだけでは不十分なんだ。言葉の問題もある。
住人と意思疎通ができなければ、よそ者扱いされるだけだからな。
ほら、二人ともこれを持っていけ。
これは『第二級翻訳石』と呼ばれるものだ。身につけていれば、地下の住人たちと会話できるうえ、文字も理解できるようになる。
これからあの町の住人になる二人に与えられる、特別な身分証のようなものだと思ってくれ」
MiraとBrenはStepanovichを見つめ、それぞれ首飾りを受け取った。
Brenは、すでに身につけていた別の翻訳用の装飾品と一緒に装着し、Miraは手首に巻きつけた。
上位の翻訳石は、首にかける必要さえない。身につけてさえいれば、自動的に言葉を翻訳してくれるのだ。
ただし、この石には、魔力を持たないBrenにはまだ知られていない、ある特性が秘められていた。
「ありがとうございます。私たちは、ただ身を隠すためにあの町へ行くだけです。
ですが、しばらく滞在するために必要なものなら、受け入れるしかありませんね」
Brenはそう言って頷いた。
それ以上、余計なことは口にしなかった。
言葉にしなくても、理解できることがある。
彼は、それを知っていたからだ。
南西部の土道を、一団の荷馬車が静かに進んでいた。
降り始めたみぞれ混じりの雪が、周囲の景色を白く染めていく。
高くそびえる木々の間を縫うように、曲がりくねった街道が続いていた。
馬車の車輪が規則正しく音を立てるたび、彼らは慣れ親しんだ中立地域から少しずつ遠ざかっていく。
背後には、町の喧騒と賑わいが置き去りにされていた。
薄く積もった雪の上には、馬の足跡と車輪の轍が深く刻まれていく。
Brenにとって、雪に触れるのは生まれて初めての経験だった。
雪が降るのは、冬を迎えた北方地域だけだと思っていたからだ。
しかし、今の彼にとって、舞い落ちる雪は単なる自然現象ではなかった。
それは、彼の記憶に焼きついた、滅びた都市の荒廃した光景を思い起こさせるものだった。
馬の足が雪道を踏みしめるたび、過去を切り裂く刃のように、胸の奥に痛みが走る。
古い記憶が一枚ずつ剥がれ落ち、その下から、新しい殻が姿を現していく。
より冷酷に、より強く、そして以前よりも静かな自分へと。
Brenは厚手の上着の襟を引き上げ、体に染み込んでくる寒さに耐えようとした。
一方のMiraは、もう一度、荷物を確認していた。
何かが起きてもすぐに対処できるよう、剣を握る手にも力がこもっている。
一つ一つの持ち物は、予期せぬ事態に備えて慎重に整理されていた。
Stepanovichもまた、使い古されたMosin Nagantを強く握りしめていた。
行く手を阻む者が現れれば、いつでも発砲する構えだった。
それは、過酷な現場で長く生き延びてきた人間の習慣だった。
兵士として生きるということ。
そこでは、沈黙が生存を意味する。
そして、どんなに小さな物音であっても、死へとつながる可能性があった。
荷馬車隊は、密集した森を抜ける細い道をたどりながら、旅を続けた。
地下深くにある機械の町、Zarathenまでの道のりは、Grenmarkから洞窟の入口まででおよそ十キロメートルと見積もられていた。
しかし、それは決して一直線の道ではなかった。
岩だらけの山腹を曲がりくねり、小さなせせらぎをいくつも横切り、木々の枝が幾重にも重なった低い森を抜けていく。
弱々しい太陽の光が葉の隙間から差し込み、苔むした地面をかすかに照らしていた。
その光景は、少しずつ色褪せていく古い記憶の断片のようだった。
風が吹くたび、雪混じりの風が乾いた枝を揺らし、葉擦れにも似たかすかな音を響かせる。
湿った土の匂いと、腐りかけた木々の独特な香りが混ざり合い、森の空気を満たしていた。
馬車の車輪が、乾いた落ち葉と薄く積もった雪を踏みしめる音を立てる。
そのときだった。
遠くから、耳をつんざくような叫び声が響いた。
絶叫。悲鳴。そして、苦しみに途切れる声。
森の静寂を引き裂くようなその音に、枝の上でさえずっていた鳥たちさえ、ぴたりと鳴きやんだ。
「た、助けて……! 誰か……誰か助けてください!」
その声は、荷馬車隊に届くほど大きかった。
一同は一斉に前方へ視線を向けた。
そこには、藁を編み込んだような粗末な外套を着た者たちが、三十人近く集まっていた。
彼らは、一人の少女を取り囲んでいた。
そして、その様子からして、とても友好的な集団には見えなかった。
「Stepanovichの旦那! 前方の街道です。分かれ道にある石造りの見張り小屋の近くに、盗賊の一団がいます。
それに……あいつら、少女を捕まえているようです……!」
Stepanovichは、ためらうことなく指示を出した。
「さっき言ったことを忘れるな。行く手を阻む者は排除する。
今回は重要な荷物を運んでいる。これ以上、納品を遅らせるわけにはいかん」
老人はBrenのほうを向き、肩を叩いて準備を促した。
同時に、後方の荷馬車に乗る作業員たちにも武器を用意するよう合図を送った。
Brenは荷物袋に包んである機関銃を取り出すことも、身につけているK-59を抜くこともしなかった。
Stepanovichを警戒しているような、ある種の予感があったからだ。
彼は代わりに、片端がレンチになっているバールを手に取った。
その鋭い眼差しは、前方から響く音に集中している。
Miraは腰のベルトに差していた剣を抜き、いつでも対応できるよう構えた。
Stepanovichはすぐに銃へ弾を装填した。
ガチャッ、ガチャッ。
装填の音を響かせながら、老人は馬車から飛び降り、一番前の車両へ向かって走り出した。
ほかの作業員たちも、次々と荷馬車から降り、戦闘態勢を整えた。
やがて、彼らは悲鳴の発生源をはっきりと目にした。
現場までは二百メートルにも満たない。
夕暮れの分かれ道。石造りの見張り小屋のすぐそばだった。
盗賊の一団は三十人近く。
彼らは薄汚れたぼろ服を着込み、その上から藁を編み込んだ外套を何枚も重ねていた。
手にしている武器も、あり合わせのものばかりで、統一性もなければ扱いにも慣れていない様子だった。
それでも、持っている武器は十分に危険だった。
棍棒、短剣、そして血錆にまみれた古い刀まである。
彼らの輪の中心には、若い少女がいた。
その姿は、学院に通う生徒のように見えた。
身につけている学院のローブには、いくつもの破れがあり、土と雪でひどく汚れている。
頭には魔術師風のつば広帽子をかぶり、恐怖で青ざめた顔を隠そうとしていた。
少女は魔法の杖を必死に握りしめていたが、魔力はないらしい。
それは、彼女にとって頼りない護身用の武器にすぎなかった。
足元には、奪われた書類入れがひっくり返り、書類や持ち物が散乱していた。
それでも少女は、一部の資料だけは手放さず、必死に守ろうとしていた。
おそらく、彼女にとって重要な記録や研究資料なのだろう。
そして、その背後には、大柄で凶暴そうな盗賊がいた。
男は少女を後ろから強く押さえつけ、汚れた手で彼女の口を塞いでいる。
もう片方の手には鋭い短剣が握られ、その刃先は少女の細い喉元に突きつけられていた。
「もう一度だけ言うぞ。その袋をよこせ!」
禿頭の男が、凶暴な声で怒鳴った。
どうやら、盗賊団の頭目らしい。
「か、頭……あの女、近くの学院の生徒じゃないですか……!」
痩せて気弱そうな盗賊の一人が、恐る恐る警告した。
「へへへ……だから何だってんだ? ただの小娘じゃねえか。
価値のあるものを全部剥ぎ取ったら、商人どもにでも売り払えばいい」
盗賊たちは、前方に荷馬車隊が到着し、数十人もの人々が様子をうかがっていることに、まだ気づいていなかった。
Brenは少し首を傾け、降りしきる雪の中で状況を素早く判断した。
周囲の空気は、張り詰めた弦のように緊迫していた。
ほんの小さなきっかけ一つで、誰かが命を落としかねない。
彼は盗賊たちに脅されている少女へ目を向けた。
少女の顔は汗と泥で汚れ、目は恐怖で大きく見開かれていた。
今にも絶望に押し潰されそうだった。
ほかの者たちも、ただ好機を待っていた。
Miraはすぐに助けに飛び出したかった。しかし、今はまだ、その時ではない。
少女を拘束している盗賊に彼女を放させなければ、安全に救出することはできないのだ。
だが、Stepanovichは誰かの命令を待つような人間ではなかった。
彼は黙ってMosinを構え、少女を拘束している男へ照準を定めた。
危険な状況を幾度となく経験してきた老兵の本能が、すでに次の行動を決めていた。
バンッ!
ガチャッ……カラン……ガチャン!
「ぎゃあああっ!」
盗賊の手から短剣が弾き飛ばされた。
「なっ……誰だ、今のは……!」
銃声が山の内部に雷鳴のように響き渡り、森の静寂を打ち破った。
盗賊たちは驚愕し、一斉に止まった荷馬車のほうを振り向く。
弾丸は少女を拘束していた男の短剣の柄に命中した。
衝撃によって短剣は砕け散り、柄と刃が地面へ落ちた。
男はよろめきながら後ずさり、砕けた柄の破片で負傷した手を押さえ、苦痛の叫び声を上げた。
「突撃!」
Brenが叫んだ。
「ウオオオオオッ!」
荷馬車隊の人々が、一斉に前方へ駆け出した。
Brenの最初の一撃は、最も近くにいた盗賊の顎を正面から打ち抜いた。
男は体勢を崩し、そのまま茂みの中へ吹き飛ぶように倒れ込んだ。
ほかの者たちも次々と前進し、荷馬車の護衛として数人だけを残した。
彼らが手にしていたのは、木の棒やシャベル、それに簡単なレンチといったありふれた道具ばかりだった。
しかし、それだけでも、素人同然の盗賊たちを相手にするには十分だった。
「な、なんだよ……! どこからこんな連中が湧いてきやがった……!」
盗賊の一人が、街道の向こうから押し寄せる人影を見て叫んだ。
反応する間もなかった。
ヒュッ!
ドガッ、ドガッ!
キン、キンッ!
「ぐあっ!」
「うぐっ……!」
いつの間にか、Miraは側面へと回り込んでいた。
豹のように素早く、しなやかな動きで少女のそばにいた盗賊へと剣を振るう。
刃が藁の外套を切り裂き、男は苦痛の叫びを上げて後ずさった。
やがて足を滑らせ、雪の積もった地面へ倒れ込む。
隣にいた盗賊たちは、何が起きたのか理解する間もなく、Miraの剣によって次々と肩を斬られ、地面に転がった。
周囲に血がにじむ。
幸い、彼らは命を落としたわけではなかった。
負傷しただけだ。
一方、少女もその場に崩れ落ちそうになり、恐怖と混乱で体を震わせていた。
StepanovichはMiraとともに少女のもとへ駆け寄った。
老人は一歩下がると、左手で銃を構えたまま、右手で少女を自分の背後へとそっと押しやった。
彼女を危険から守るためだった。
ドンッ!
銃弾が、別の盗賊の太腿に命中した。
男は大きく倒れ込み、錆びた剣を冷たい地面へ落とした。
ガチャッ。
Stepanovichは再び銃を操作し、次の弾丸を装填した。
「弾薬は限られている。それに、わしは理由もなく人を殺すような人間じゃない。
こいつらだって、ただ追い詰められた移民にすぎん。
倒せる相手は倒し、できるだけ捕らえろ。あとは兵士たちに処理させればいい」
Stepanovichが言った。
「わかったわ。気をつける」
Miraは答えた。
ドンッ!
「ぎゃああっ!」
別の盗賊が銃弾を受け、悲鳴を上げた。
「後ろよ、気をつけて!」
「やああああっ!」
ヒュッ、ヒュッ!
ドガッ、ドガッ!
キンッ!
「ぐっ……うあっ!」
背後から奇襲を仕掛けてきた二人の盗賊も、瞬く間に倒された。
「助かったよ、お嬢さん!」
Stepanovichが声をかけた。
「当然のことをしたまでよ。気にしないで」
Miraはそう答えた。
……
戦闘は、急速に終わりへと向かっていた。
さらに八人以上の盗賊が制圧されていた。
老兵と若い女剣士は、互いに連携しながら、行く手を阻む敵を次々と倒し、学院の少女を守っていた。
二人の戦闘経験は、Brenよりも明らかに豊富だった。
そのBren自身も、ほかの作業員たちとともに、まだ数人の盗賊を相手に格闘している。
この世界へ来て一年にも満たない彼の身体能力では、そう簡単に戦いを有利に進めることはできなかった。
「俺たち、意外と戦いの相性がいいな。まるで、昔失った娘と一緒に戦っているみたいだ」
Stepanovichが言った。
「私も、あなたがお父さんみたいに思えるわ。
いつも礼儀作法を勉強しろとうるさく言ってきて、何かと衝突していたけれど……。
こうして戦っている姿を見ると、家族を大切にする父親そのものだわ」
Miraは答えた。
二人がそんな会話を交わしている間、彼らの背後にいた学院の少女は、恐怖に震えていた表情の奥から、どこか……普通ではない視線を向けていた。
それは、二人を観察するような目だった。
その後、戦闘は十分も経たないうちに決着した。
残った二人の盗賊は、森の奥へと慌てて逃げ出した。
しかし、そのうちの一人はMiraにすぐ追いつかれた。
彼女は男の背中を強く蹴りつけ、地面へと転倒させる。
もう一人も、Brenとほかの作業員たちによって打ち倒された。
こうして、三十人近い盗賊団は、素人同然の商隊によって、ほぼ全員が捕縛された。
雪はますます強く降りしきり、周囲の景色を白く染めていた。
ほかの者たちが盗賊を縛り上げる中、Bren、Mira、Stepanovichの三人は少女のそばに残っていた。
彼女は目を大きく見開き、荒い息を繰り返している。
身にまとっていた衣服は剣によってあちこち切り裂かれ、持ち物も地面に散乱したままだった。
「もう大丈夫よ。落ち着いて。すべて終わったから」
Miraは優しい声で語りかけ、少女を落ち着かせようと手を差し伸べた。
その間にStepanovichは、地面に散らばっていた彼女の持ち物を拾い集め、袋の中へ戻しながら、二人のもとへ近づいてきた。
少女は顔を上げた。
先ほどまで涙が浮かんでいた瞳でMiraを見つめ、恐怖と感謝で震える声を絞り出した。
「ほ、本当に……助けてくださって、ありがとうございます……」
少女はMiraの手を強く握った。
まるで、目の前にいる見知らぬ人物の正体を確かめようとしているかのようだった。
しかし、Miraはその意図に気づかなかった。
「あなたの名前は?」
Miraが尋ねた。
「……わ、私は……Erikaといいます」
少女は続けた。
「自由生徒として学院に所属しています。近くの村で行われていた訓練を終えて、戻る途中だったのですが……まさか、こんな道の途中で……」
灰色がかった瞳から、再び涙がこぼれ落ちた。
「盗賊に襲われるなんて……思ってもいませんでした……」
その名前を聞いた瞬間、近くにいたBrenの動きが一瞬だけ止まった。
しかし、彼はすぐに驚きを顔に出さないよう取り繕った。
視線を向けた先には、雪で白く覆われた石造りの見張り小屋があり、そのそばには、捕縛された盗賊たちがいた。
Erika。
奇妙なほど聞き覚えのある名前だった。
まるで、過去から響いてきた声のように。
焼け焦げた記憶の断片から、突然浮かび上がってきたもののように。
懐かしいようで、どこか見知らぬ名前。
だが、Brenが一瞬だけ見た彼女の瞳には、狂気も、殺意もなかった。
自分を追い詰めている者が向ける、矢のように鋭い殺気も感じられない。
今、目の前にいるのは、盗賊に捕まり、脅され、疲れ果てた一人の若い少女にすぎなかった。
(よかった……。あのEという人物は、この学院生の少女ではないらしい。
もし彼女がE本人だったなら……あいつに顔を見られた時点で、俺はもう生きていなかっただろう)
Brenは内心でそう考えながら、目の前の少女へと視線を戻した。
「私はMira。辺境でルーン刻印職人をしているの。たまたまここを通りかかったときに騒ぎが聞こえて、様子を見に来たのよ」
Miraは穏やかな口調で説明し、少女の不安を和らげようとした。
「こちらは私の夫で、Bren。そして、こちらは私の叔父のStepanovichよ」
Miraはすぐに状況に合わせ、三人で協力して話を進めた。
BrenとStepanovichも、彼女の意図を察して、自然に話を合わせる。
まるで、本当の家族であるかのように。
二人は、自分たちがこれから向かう場所について、余計な詮索をされたくなかった。
地下の町は、よそ者を歓迎する場所ではないからだ。
そして、目の前の少女にも、彼女自身の目的があるのだろう。
少女はMiraの手を取り、Stepanovichから受け取った荷物を抱えて立ち上がった。
表情にはまだ恐怖が残っていたが、その目の奥では、目の前の三人を注意深く観察していた。
過去の記憶をたどり、彼らと以前に会ったことがないか、確かめようとしているかのようだった。
少女は静かに頭を下げた。
その仕草には、礼儀正しさと感謝の気持ちが込められていた。
「み、皆さん……本当にありがとうございます。
こんな雪の降る中、ここに人が通りかかるなんて不思議ですけれど……それ以上、詮索するつもりはありません。
助けていただいたこと、本当に感謝しています」
彼女はそう言ってから、続けて尋ねた。
「私は中継都市のGrenmarkへ戻る途中なのですが……皆さん、道を教えていただけませんか?」
「ごめんなさい。それは少し難しいわね。
でも……」
Miraは、荷物を運ぶ作業員たちを指し示した。
「あの人たちなら、道を知っていると思うわ」
彼女がそう言い終えると、Stepanovichが話を引き継いだ。
「わしらは、これ以上、荷物の運搬を遅らせるわけにはいかんのだ。あの町では、住民たちがわしらの到着を待っているからな。
お嬢さん、あそこの作業員たちについていくといい。彼らは捕まえた盗賊どもをGrenmarkまで連行し、兵士たちに引き渡す予定だ。
わしらは、どうしても急いで届けなければならない荷物があってな。
たまたま通りかかったところ、お嬢さんが悪党どもに襲われているのを見かけた。それで助けただけだよ。
大したことではない。ハハハ!」
Stepanovichは軽く笑った。
少女は頷き、弱々しい笑みを浮かべた。
少しばかり不安そうではあったものの、そこには彼女本来の気品と優雅さが残っていた。
その笑顔には、疲労と、かすかな悲しみも混じっていた。
これまでに数多くの困難を乗り越えてきたかのような表情だった。
「それでは、改めてお礼申し上げます。
もしまた皆さんとお会いできたなら、そのときは必ずお礼をさせてください」
少女はもう一度、丁寧に頭を下げた。
その間も、彼女の視線は一瞬ごとに三人の姿を捉えていた。
そして、くるりと向きを変えると、盗賊たちを連行する作業員たちの一団について歩き始めた。
Stepanovichの荷馬車隊も、盗賊たちをGrenmarkへ送り届けるため、空いている荷馬車を一台用意した。その結果、残りの九台の荷馬車には、荷物を運ぶために必要な人員が確保された。
二つの一団は、こうして互いにすれ違っていった。
だが……。
Erikaが通り過ぎていった道は、まさにBrenが古い石造りの見張り小屋を目印に、T-34-1942と使い古したノートパソコンを隠していた場所だった。
分かれ道に立つその小屋へ、二人はほとんど同じ瞬間に視線を向けていた。
しかし、その胸中にあった考えは、まったく異なっていた。
一人は、この世界には存在しないものを隠している。
もう一人は、弱々しい少女を演じながら周囲の人間を観察し、自分が追い求めている相手を探している。
降りしきる雪は、二人の偶然の遭遇を覆い隠していった。
互いの正体を知ることもなく。
互いが、誰を前にしていたのかに気づくこともなく。
二人の距離は、ほんの数歩しか離れていなかった。
視線が交差する。
ほんの一瞬だけ。
言葉は交わされなかった。
疑念さえ、生まれなかった。
ただ、息が詰まるほどの静寂が、その一瞬を包み込んだ。
Brenは振り返らなかった。
それでも、背中には冷や汗がびっしょりと滲んでいた。
死神の鎌が、今まさに彼の首筋をかすめていったかのようだった。
全身を走る悪寒。そして、音もなく告げられた警告。
だが、Bren本人は、自分がたった今、死を免れたことにまったく気づいていなかった。
一方、Erikaは、そのままGrenmarkへ向かう荷馬車隊について歩いていた。
すれ違ったばかりの男がどこにいるのかなど、知る由もなかった。
それでも、彼女の胸の奥には、言葉では説明できない落ち着かなさが、かすかに湧き上がっていた。
そよ風が頬を撫でるような、漠然とした不安。
しかし、彼女はすぐにその感覚を振り払った。
ただの偶然にすぎない。そう自分に言い聞かせたのだ。
名づけようのない感覚だった。
まるで、自分が追い求めている獲物が、ほんのすぐ近くにいたかのような。
手を伸ばせば届くほど近くにいたはずなのに、その姿をはっきりと捉えることができなかったかのような。
Erikaは小さく首を振った。
そして再び、前を行く人々について歩き始めた。
その頃、近くの丘へ向けて、微弱な魔力の波がひそかに伝わっていった。
風が吹き荒れ、さらに激しいみぞれ混じりの雪が降り始める。
それは、遠い未来、どこか別の場所で起こることになる対決を予告しているかのようだった。
そして、そこからわずか数百メートルも離れていない場所。
漆黒の姿に偽装され、これまでじっと静止していた一台の車両が、新たな命令を受けて動き始めた。
その車両は、近くの丘の上で、分かれ道において起こった一連の出来事をすべて記録していた。
あの出来事は、決して偶然ではなかった。
――ほんの小さな、試験の一環だったのだ。
第2部:偽りと疑念
中継都市 Grenmark
「着いたぞ、お嬢さん。まずは診療所へ行って、傷の手当てをしてもらうといい。その傷じゃ、治るまで時間がかかりそうだ。俺たちは、こいつら盗賊を兵士たちに引き渡さなきゃならないからな」
「あ、ありがとうございます……。それでは、お先に失礼します」
Erikaはそう告げると、その場を離れていった。
だが、彼女が立ち去った直後、その眼差しは元の状態へと戻っていた。
か弱い少女を装っていた顔から、獲物を狙う捕食者の表情が浮かび上がる。
一瞬、鋭い殺気が走った。
先ほどまで彼女と話していた作業員は、理由もわからぬまま、思わず身を震わせた。
夜の帳が、ゆっくりと降り始めていた。
一日の終わりを告げる最後の陽光が、Grenmarkの外縁に並ぶ銀灰色の屋根を長く照らしている。
そよ風が吹き抜け、夕暮れ特有の冷気を運んでくる。細かな砂埃をさらい、木々の梢をかすかに揺らしていった。
空には、まだ霜の名残を思わせる淡い灰色が残っている。まるで、沈んだ色彩だけで描かれた絵画のようだった。
月明かりが、弱々しく木々の葉を横切り始める。葉はぼんやりとした黄金色に染まり、漆黒の闇の中で、かすかに燃え続ける炎のように輝いていた。
しかし、この場所で夕暮れの美しさを見上げる者は一人もいなかった。
誰一人として。
彼らは皆、日々の糧を得ることに追われ、街を包み込む寒さに耐え、目の前の暮らしを維持するだけで精一杯だったのだ。
雪がようやく止んだこのひとときの平穏を、立ち止まって味わう余裕など、誰にもなかった。
ただ一人を除いて――。
いや、正確に言えば、獲物を追うはずが、逆にその獲物に翻弄されている者を除いて。
Erikaは回復魔法を使ったあと、城壁の高所にある、人目につかない一角に静かに腰を下ろしていた。
そこは長い間、見張りの兵士が姿を見せていない場所だった。秘密任務のための観察地点としては、申し分ない。
複雑なルーン文字が刻まれた学院生の制服は、修繕した魔法の外套によって一部が覆われていた。
先ほどのように破れた箇所は、もう見当たらない。
さらに隠密魔法を重ねたことで、灰色に沈む城壁の風景に溶け込み、その姿は完全に見えなくなっていた。
灰色がかった瞳が、街の南側をじっと見下ろしている。
そこには、城外へと続く細い道があり、その先は鬱蒼と茂る森の中へ消えていた。
「残念ね……。何人かが単独でこの道を通ることまでは探知できていたのに。結局、一度きりのこの罠でも、あいつを捕まえることはできなかった。
あの男……警戒心が強すぎるわ」
Erikaは呟き、昼間の出来事を思い返した。
そもそも、盗賊による略奪など、一度も成功していなかった。
か弱い少女が誘拐されることもなければ、女性が奴隷として売り飛ばされる悲劇も起きていない。
そして、英雄願望を抱く誰かが現れ、美しい娘を救い出す――そんな涙ぐましい芝居も、最初から存在しなかった。
彼女が目撃した出来事の正体は、実に単純だった。
Erikaが無名の街道荒らしたちを捕らえ、精神操作の魔法で操り、巧妙な罠を仕掛けていたのである。
古典的で、ありふれた筋書き。
『英雄が美少女を救う』。
孤独に行動する者や、他人を疑うことを知らない者を誘い出し、その正体と目的を露呈させるために用いられる、よく知られた手口だった。
盗賊たちは確かに実在していた。
だが、彼らは氷山の一角にすぎない。
本当に重要で、そして危険だったもの。
それは、丘の高所から街道の三叉路へと砲身を向けた、戦闘車両 Leopard 2A5* が、一瞬だけ姿を現したことだった。
もし、あれが本物だったとしたら。
もし、彼女を助けようとした者が、異世界由来の物品や、あのLeopardと同じような戦争のための機械を扱っているのだとしたら――。
Erikaが取るべき行動は、ただ一つ。
交渉も妥協も必要ない。
その人物に向けて、即座に攻撃命令を下すことだ。
彼女の目的は、あの機械に関わる者を一人残らず生け捕りにすること。
あるいは、それすら叶わないのであれば、排除することだった。
自分の持つ力の正体を知る者など、彼女にとっては危険極まりない存在なのだから。
「残念ながら……罠の中に仕掛けた罠は、通りかかった商隊のおかげで台無しになってしまったわけね」
Erikaは小さく息を吐いた。
事態は、彼女の予想とはまったく違う方向へ転がっていった。
本来なら、単独行動する何者かが罠にかかるはずだった。
Erikaは偵察によって得た情報から、三叉路付近を慌ただしく通り過ぎようとしていた流れ者の特徴が、Cyran Yilfenと一致していることを掴んでいた。
そのため、彼女は罠の準備を進めていたのだ。
ところが、そこへ通りかかったのは、商人たちの一団だった。
彼らは偶然にも現場へ入り込み、被害者を演じていたErikaを助けてしまったのである。
単独行動でもなければ、隙を見せたわけでもない。
Erikaは、あの奇妙な一団を思い返した。
三人は、家族だと名乗っていた。
まず一人目。
Stepanovichという名の年老いた男。
帝国ではあまり見かけない、どこか奇妙な名前だった。
彼が携えていたのは、Erikaがこれまで目にしたどの銃とも異なる、極めて珍しい小銃だった。
軍が専門的に使用している銃器とも違う。
二人目はMiraという名の妻。
指導者としての強い威厳を備えているにもかかわらず、身にまとっていたのは、質素なルーン刻印職人の服装だった。
その体つきには、どこか見覚えがあった。
Edhenで彼女を見かけたことがあったのかもしれない。
そして三人目。
Brenという若い夫。
接近戦について、多少の心得があるようだった。
ルーン石に記録した情報を見返すほど、Erikaは違和感を覚えた。
彼らはこの世界に属していないような、どこか場違いな雰囲気をまとっていたのだ。
その特徴は、Cyran Yilfenという男の情報とも一致しなかった。
ただ一つ、奇妙なことがあった。
彼女がBrenのそばを通り過ぎた瞬間、胸の奥から何かが込み上げてくるような感覚を覚えたのだ。
まるで、内に潜む狂気が、今にも溢れ出そうとしているかのように。
「……あの家族、どう考えても普通じゃないわね」
Erikaは手帳を開き、自動的にインクを送り出すペンを使って記録を書き始めた。
彼らの姿は、細部に至るまで注意深く観察していた。
一つ目は、年配の男が携えていた小銃。
その外見は、Kar-98という型式の刻印がある銃を思わせた。
古い武器であり、長年使い込まれているらしい。動かすたびに、扉の閂を外すときのような音が鳴りそうなほど、ひどく摩耗していた。
Erika自身も、小規模な狩猟に出かける際、似たような古い銃を使用していたことがある。
また、その銃はTiger H1\*という型式番号を持つ古い機械のいくつかにも搭載されていた。
もっとも、男が持つ銃は、それらとは外見が大きく異なっていたが。
それでも、あの銃がこの大陸で鍛造された武器ではないことは明らかだった。
銃身には、深く刻み込まれた文字があった。
古代のものを思わせる、見慣れない文字体系。
彼女にはまったく解読できず、まるで失われた文明から持ち込まれた品のようだった。
男は、夫婦の叔父だと名乗っていた。
その男は、彼女を拘束していた盗賊を、たった一発の銃弾で無力化してみせた。
ためらいもない。
手の震えもない。
妻のMiraもまた、驚くほど迅速かつ的確に行動していた。
刺突、蹴り、武器の奪取。
その一連の動きには無駄がなく、十分な訓練と実戦経験を積んでいることがうかがえた。
明らかに、この二人は厳格な訓練を受けたことがある。
そして、幾度もの戦闘をくぐり抜けてきた人間だった。
しかし――。
「それでも……あの女の夫を名乗っていた男。あいつだけは、どうしても捕まえたい!」
Erikaが本当に不安を覚え、疑いを深めたのは、ほかでもないBrenだった。
彼の外見は、どちらかといえば書生のようだった。
しかし、その立ち居振る舞いには、まだ訓練を積み始めたばかりの兵士のような雰囲気もあった。
戦いに不慣れというわけではない。
かといって、完全に熟練しているようにも見えない。
まるで、今もなお何かを学び、鍛錬を続けている途中のようだった。
年齢は二十三歳から二十五歳ほど。
体つきは、特別に頑強というわけではない。
それなのに、彼がこちらへ目を向けたとき、その眼差しは異様なほど落ち着いていた。
まるで、あらゆる危険を見透かしており、もはや何事にも恐怖を感じないかのようだった。
何かが合わない。
Erikaが観察してきた彼の姿と、これまでに得た情報が、うまく噛み合わないのだ。
もしYilfenという男が、正体を隠すことに長けているのなら――。
あの男こそ、彼なのだろうか?
「単独行動をするはずの男が、突然、家族と一緒に現れる? あり得ないわ。
あいつは、いつだって一人で行動している。
わざわざ他人を巻き込めば、自分の弱点を相手にさらすようなものじゃない」
Erikaはそう考えながら、さらに記録を書き進めた。
どれほど巧妙で完璧な偽装であろうと、必ずどこかに綻びが生じる。
ほんの小さな仕草、些細な違和感が、隠された真実を露呈させるのだ。
そして、Erikaは実際にいくつかの異常な点を見つけていた。
三人は結婚指輪を身につけていた。
確かに、そうだった。
だが、男は左手の人差し指に指輪をはめていた。
この土地では、まったく一般的ではない習慣である。
ほんの小さな不一致にすぎない。
しかし、Miraの手を握ったときでさえ鋭い観察眼を保っていたErikaにとって、それは真っ白な雪原に浮かぶ鮮血のように、ひどく目立つ違和感だった。
Miraには、元冒険者らしい強さと決断力があった。
それなのに、振る舞いや態度は、ごく普通の職人そのものだった。
第三者が見れば、彼女の正体を疑うこともなく、専門的な技術を持つ職人だと信じてしまうだろう。
「二人の間にあるのは、本物の夫婦が持つ親密さや絆じゃない。
むしろ……綿密に計算された協力関係。
まるで、何かの芝居を演じているみたい。自分たちとは別の役柄を、無理に演じているような……」
Erikaは手帳にそう書き記した。
もちろん、彼女自身も、自分の推測が正しいと確信しているわけではなかった。
それでも、三人の姿はすでに、彼女の記憶に深く刻み込まれていた。
話をするときの顔の傾き。
武器を抜く際の動作。
戦闘中の身のこなし。
その場を去る際の足取り。
細かな動きから、わずかな表情の変化に至るまで、Erikaは一つ一つを書き留め、慎重に分析していた。
彼女は、自分自身で仕掛けた罠の中で、被害者を演じていたのだ。
一つには、任務を遂行するため。
もう一つには、危険な状況に置かれた周囲の人々が、どのように反応するのかを観察するための、小さな社会実験でもあった。
罠を張ったのは、彼女自身。
そこへ、誰が愚かにも足を踏み入れてくるのかを確かめるためだった。
しかし、今回の罠が、想定とはまったく異なるものを捕らえることになるとは思ってもいなかった。
正体不明の三人が作り上げた、奇妙で謎めいた家族の姿。
それは、彼女の心に戸惑いと不快感を残していた。
「身代わりの男が残したものについても……。
やっぱり、先にあいつを捕まえておくべきだったわね。それからYilfenの行方を探るべきだった」
Erikaは小さく呟いた。
月はすでに高く昇り、中継都市を照らしていた。
彼女の手には、資料の束と古びた音楽再生機があった。
今日目撃した一連の出来事について、疑念と考察を巡らせながら、Erikaはそれらを手放さないことに決めていた。
それらの資料は、あの航空機の残骸から回収したものだった。
異世界の金属製の箱に収められていた、歌と音楽ディスク。
そして、Yak-9Kの残骸から見つかった、奇妙な楽譜。
そこには、重要な情報が隠されている可能性があった。
彼女は、この楽譜を解読できる人物を探す必要がある。
その役目を任せられる相手は、一人しか思い浮かばなかった。
学院に所属する、本物の音楽教授。
彼女が常日頃から信頼を寄せている人物だ。
教授の力を借りれば、この奇妙な楽譜に隠された謎だけでなく、そこに記録された不可解な音声データも解読できるかもしれない。
「王都へ戻って教授を探し、この謎めいた楽譜を解読してもらうには、数日かかりそうね。
その間は、ここにもう数日滞在する必要があるわ。
この場所を離れる前に、片づけておかなければならないことが、まだいくつか残っているもの」
Erikaはそう結論づけた。
奇妙な痕跡を、簡単に見逃すわけにはいかない。
彼女の任務には、自分の内に潜む謎の力――この世界に属さないものの正体を突き止めるという、重要な目的も含まれていた。
たとえ、あの二人が互いの顔を詳しく確認していなかったとしても。
たとえ、二人が一言も言葉を交わさなかったとしても。
Erikaには、強い予感があった。
もし、あの男が本当に彼だったのなら……。
次に遭遇するときは、すれ違うだけでは終わらない。
今度こそ、彼の心臓に矢を突き立てることになるだろう。
「……そろそろ時間ね。
学園長から任務を受けた人物に会いに行きましょうか。
この仕事は、副隊長に引き継いだほうがよさそうね」
ヒュッ――。
Erikaの姿が、城壁から離れた。
雪の積もった城壁には、彼女がそこにいたことを示す足跡だけが残されていた。
月と星が輝く夜空の下、冷たい空気に満ちた場所から、人影は完全に消え去った。
遠くでは、荷物を積んだ荷馬車の一団が、カタカタと車輪を鳴らしながら、急いでGrenmarkへと戻っていった。
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あとがき
次回予告:第15章・第2部(第3~5節)
魔法が存在する世界に、第二次世界大戦期のソ連を思わせる町が登場する!?
公開予定日:2026年10月27日




