020 聖痕の退場
帝国に大醜聞を引き起こした聖痕は、正気を取り戻した皇帝によって処分された。あれだけの大混乱をもたらしたうえは当然の帰結ではある。
その前後におかしなことを吐き散らしていたその聖痕は、不可思議な能力のこともあり、聖痕を保護するという名目で、精霊神教が擁する学院が研究対象として引き取りたい意向をもっていたようだ。だが、帝国は神教がその意向を表明する前に処分を即決し断行した。
これにより精霊神教との関係悪化は避けられないだろうが、皇帝、皇太子、皇子たちがあれだけの醜態を晒した以上、責任をすべて押しつけて退場させることが帝国正常化の一番の早道で、帝国にとっては唯一の良策だった。そのため決定的な関係断絶を招く恐れのある公式表明の前に、速やかに処理されたのだった。
今回の事件で、その聖痕以外に死者が出ていないことは、帝国内の深刻な分断を辛うじて防ぎ、帝国外交の立て直しの条件をだいぶましなものにした。そこに皇妃の尽力があったからには、これまでよりも皇妃の発言力は増すことになる。
……皇妃からはサイロウへと今回の情報提供に対する謝意が伝えられている。今後サイロウは皇妃との繋がりの強化を図っていくことになるだろう。
ミハイル皇子も、皇妃の手により正気を取り戻した。今後はミハイル皇子は皇妃に一定の配慮を示さなければならない立場に置かれたということだ。
「マナリ皇子妃殿下。明日にはミハイル皇子殿下がこちらまで妃殿下をお迎えにみえられます。それまではこちらの王都本邸にてお寛ぎください」
「……ありがとうございます、サイロウ侯爵閣下」
義理の父としてサイロウ侯爵が表も裏もすべての折衝を代行し、マナリは帝国へと戻ることになった。そして公式にサイロウ侯爵夫妻が付き添う形で王都へと移動してきた。
ミハイル皇子は王国への挨拶、実質的には今回の件の説明になるだろうがその挨拶と、実家へと里帰りしていた妃を迎えにくるために、明日から王国への公式訪問の予定が組まれている。
マナリは皇妃とのあいだに多少の溝があるにせよ、結局離婚は成立しておらず、皇妃も恩を受けたサイロウ侯爵家の養女に対してあからさまな排除は行えない。とはいえミハイル皇子の頭を皇妃が押さえたからには、今後はマナリはこれまでより過ごしにくくなる場面もあるかもしれない。
それになにより、殺されかけてから初めてミハイル皇子と再会する。マナリの顔色は化粧などでは隠しきれないほどに悪かった。
「……カリス様、少しお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
マナリは同席していたカリスに話しかけた。同じく同席していたサイアの体がぴくりと動いたのを感じ、カリスはエスコートしていたサイアの手を自分の手で優しく包んだ。
「いかがなさいましたか、マナリ皇子妃殿下」
マナリはカリスをちらりと見てから悲しげにそっと伏し目がちに言った。
「明日のことや、帝国に戻ったあとのことについてご相談したいのですが」
「どういったことでしょう」
その場で聞かれたことが不服なのか、ほんの一瞬だけ眉をひそめたものの、帝国の皇子妃の立場では容易に人払いはできないことは弁えているのか、マナリはすぐにもとの悲しげで儚げな表情を浮かべた。
「……皇帝陛下と皇妃陛下は、いかがお過ごしなのでしょうか」
「今は精力的に動かれているようです」
帝国内外の情勢は、聖痕一人にすべて押しつけてすぐに解決できるほど簡単なものではない。不安定になったものを立て直すのにはかなりの労力をかけなければならない。なかでも精霊神教との関係改善は、喫緊の課題だろうが、ほかにも問題は山積状態だ。
身内で争っている暇などなさそうだ。
「皇太子殿下はじめ皇子殿下方も、協力なされて各方面に動かれているようです」
帝国に戻った暁には、マナリもミハイル皇子を助けて動くことになる。自分を殺そうとしたミハイルに対する気持ちにどう収拾をつけるのか、マナリ個人の問題だが、サイロウにマナリの居場所がない以上は、多少居心地が悪くとも、マナリには帝国に戻る以外の選択肢はない。
あのとき、マナリ自身の手でミハイル皇子の正気を取り戻せていれば、帝国でのマナリの立場は違っていたかもしれない。提案を受けて自身で決意して、サイロウに助けを願っていたら、サイロウはミハイルのもとまで安全に送り届け、さらにマナリの身を危険に晒さないように配慮してミハイルの正気を取り戻す手助けもしただろう。帝国におけるサイロウの広告塔としての価値を認めているし、マナリが帝国にあればサイロウの者をあちらで公に動かすことがたやすい。マナリの存在にはサイロウが助力するだけの甲斐はある。
そして、万が一失敗に終わったとしても、その行動をとることによってマナリのサイロウでの評価は少しでも回復しただろう。
サイロウは自分で努力するものには敬意を払う。だが、それをしない者にはしかるべくだ。
「ミハイル皇子殿下も、お忙しく動かれていることと思います。まずはこのアルタス王国から。ですがそのまえに、マナリ皇子妃殿下とお話しされたいとのことですので、はじめにこちらへと妃殿下を迎えにみえられます」
だが、今カリスが話したことは、すでに実際に折衝にあたったワムルからマナリに伝えられていることばかりだ。
「あの……。明日のことなのですが、カリス様にも立ち会ってはいただけませんか」
躊躇いがちに、だが決心したように、マナリは見上げるようにして言った。……マナリの言いたいことの予測はついていた。自分の味方として、自分のそばにカリスに付いていてほしい。そういうことなのだろう。
何年か前は日々見ていた顔だった。生涯を共にするのだろうと、考えたこともある相手。
だが、マナリの言葉がカリスの心を揺さぶることはもうない。個人的な関心は、すでにないのだ。あのとき植えつけられた複雑な心持ちも、最愛の存在となったサイアによって穏やかに収められている。手のなかの小さな手をとても温かく感じる。
「明日はサイロウ侯爵夫妻が立ち会います。あまりに大勢で同席することはお二方のためにはならないでしょう」
その会話のあいだ、サイロウ侯爵ワムル、侯爵夫人トーリ、そしてサイアも、カリスも含めてサイロウ侯爵家の四人の表情が動くことはなかった。
内心マナリに対して何を考えたとしても、それは一切表に出さない。
最後にカリスは道を違えた従妹に対して助言した。マナリにはサイロウの血が流れているのだし、サイロウ侯爵家の養女となった事実は変わらない。なんとでもなるとはいえ、マナリにはあまりサイロウの名を貶めて欲しくはないし、これ以上縋りつかれても面倒だ。
「……大丈夫です。ミハイル皇子殿下とお会いすれば、その不安も晴れるでしょう。実際にその場に向かってみたなら、おのずと道は開けるものです」
己の道は己で切り開くものだ。本当に伝えたいのはこのことだったが、そこまで言う熱意はカリスのなかにはなかった。……それに、ミハイル皇子は後悔していると情報が入っている。そのことも伝えられたはずだがまだ不安なのか。
「……ご助言、ありがとうございます」
マナリは顔色が悪いままサイロウが付けた侍女たちを連れて、マナリの母の待つ貴賓室へと下がっていった。
その日の夜二人の部屋で、サイアは可愛らしく口を引き結んでいた。
「やっぱり私は、マナリ様は大嫌いです」
カリスは笑ってサイアを抱きしめて、キスを贈った。
「貴女の隣はいつでもとても気分がいい。わたしの代わりにサイアが怒ってくれる。……己の行いは己に帰るものだよ。サイロウの後見があるにせよ、今後の道は平坦ではないが、自分で切り開いていかなければならないんだ。ミハイル皇子と力を合わせてやっていければいいだろうが、それも本人次第だな」
サイロウはサイロウのために尽力するが、マナリのためには動かない。結果的にマナリの立場の強化を図るにせよ、そこ止まりだ。他力本願では人生の荒波は渡っていかれないだろうに、それを本人は分かっているのだろうか。
だがそれはカリスやサイアが気にすることではない。
「まったく、明日でようやく厄介払いができる」




