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とても現実  作者: 皿日八目
9/24

黒幕

 彼はこの回を三人称で書こうと思い立った。こういうことを思う時、たいていまた何かしらの本の影響を受けているものだが、今回もまさしくそうだった。そうしなければいけない理由はなく、一人称にはない長所に魅力を感じたわけでもなく、ただただ影響を受けて始めたこの回が良いものになるはずもないが、それでも読んでくれる人はいるだろうと、彼は考えていた。言うまでもなく、これは非常に甘い考えだった。糖蜜をかけた角砂糖よりなお甘かった。アリもそっぽを向き、一口含めば一生人工透析を受け続けなければならないような、ひたすらに糖度の高い思考であった。


 少し前に、彼は首都よりは近くにある、街の図書館を訪ねた。その日の空はよく晴れ渡っていて、雲の出番はまるでなかった。鳥がねぐらを離れ、また戻ってくるまでの間、天空は太陽の一人舞台だった。よく温められ、半ば溶け出していたアスファルトを渡り、およそ三十分の時間をかけた後、知の宝庫は彼に玄関をくぐらせた。

 

 と、ここまで書いて、彼は首をひねった。一人称で書くよりも、ずっと進みが遅いのだ。散らかりまくった机に肘を付き、手には頬をのせ、ため息をついた。三人称の採用は、彼が想像していたような素晴らしさをもたらしはしなかった。読んだ本では、こうもぎこちない描写ではなかったはずだ。失望が胸の内をおおっていった。もちろん、これは彼自身に原因がある。一人称や三人称、そういった書き方の違いが作品の雰囲気を大きく変えるのは間違いないが、完成度そのものは、まったく作者の腕によっているのだ。彼はそれをまるで理解していなかった。仁王像の表情を真似てみたところで、本当に仁王のごとくふるまえるわけはない。いくつも年を重ねておきながら、いまだにそれがわからないほど、彼はばかだった。


 彼は他にも試みていることがあった。漢字より、仮名を多くするよう心がけていたのだ。今までは、堅い印象を文章に与えたかったのか、多くの言葉を漢字で表記するようにしていた。ところが今回はそれを取りやめ、できるだけ仮名を使うようにしている。とはいえこれも、先人の偉業を何のくふうもなくまねたものに過ぎなかった。句読点の間隔もそうだった。一文を長びかせるようになっているが、粗悪なコピーにしかなっていない。表面上の技法をそのまま取り込めば、すぐにでも卓越した文章を書けるに違いないと彼は思い込んでいた。

 

 □▲めいたふるまいの代償に、さっそく彼は壁にぶち当たった。先に述べた遅筆もそれであり、またぎこちない描写もそれであった。突如取り込まれた技法は、彼よりは素直なかれの脳に拒絶され、さかんな攻撃を受けていた。いま、人間の思考の深遠なる狭間から放たれた光線が、身の丈にあわない考えの右肩を撃ち抜き、その結果、彼はいま側頭部に強いかゆみを感じていた。その処理の必要に迫られて、また話の進みは停滞するのだった。


 そも、彼は図書館にまつわる話をしようとしていたはずだ。しかしいまやその考えは失われ、貧相なキッチンに立って水を飲むなどしている。彼は記憶力も、集中力も、思考力も、判断力も、「力」という接尾辞がつくものをことごとく持っていなかった。これは多少なりともあわれむべきことで、じっさい天もかわいそうに思ったのか、レモン味の飴を先日めぐんでやったのだが、彼はそれを異常気象のせいだと決めつけていた。天は満場一致で彼を見放した。その始まりとして、夏なのに雪が吹き付けたりしたが、彼はそれも異常気象のせいだと決めつけていた。


 執筆の低速度のゆえんは、彼の低能力に鑑みれば砂漠の砂ほどにも思いつくが、間違いなく言えることのひとつは、語彙のなさだった。なにか、自分のしたことについて文章化しようとしたとき、直ちに行うことができずまごつくのは、適当な言葉を見つけられないためであった。とは言うものの、当てはまれば何でもいいというわけではない。彼はこんな文章を書くくらいだから、読解力も不足していることは容易に連想されるが、それでも面白いと思える本を知っていたのである。それはまったく、本の素晴らしさに起因していた。知恵足らずの彼にも理解できる文章、物語からそれは編まれていたのだ。難しい言葉、表現を駆使しなくとも、卓絶の書を作ることは可能で、むしろそれは推奨されるべきことだった。いちいち辞書を頼らなければいけないほど耳慣れぬ言葉にあふれた文章を、読みたがる人はあまり多くないのが現実だからだ。


 言うまでもなく、それはそれで難しい。現に、彼は大失敗している。平易な言葉が持っている、その意味を最大限に押し広げ、感性を研ぎ澄まし、しかるべき箇所に、しかるべき形ではめ込んでいくのだ。どう考えても、彼のような脳足りんにできる作業ではない。


 恐れを知らぬ、ただ足が六本ないだけのかまきり同然の彼は、遥かな高みにある書物が自分にも理解できるというだけで(そしてそれが彼の力ではまったくないということも知らないで)、それを模倣しようとし、こんな文章を書き始めた。彼は生まれてから数え切れないほどの間違いを犯し、その中には本当に冗談では済まないものも片手で数えられるほどにはあったが、これもまた、その指折りの中に含まれるであろうことは間違いなかった。この殺風景な文章を見よ! ただ三人称になったというだけで、彼は現実の描写で余裕をなくし、大切にしていたはずのものまで失ってしまった。前に自分で恥ずかしげもなく述べ立てていた通り、彼はユーモアを重要視していた。名作には、必ずそれがあると。だが、この話にそんなものはない。あるのは実験の無残な産物と、うわ言を繰り返す男だけだ。リビングに置いて訪問客に自慢するには、あまりにも華がない。彼の手はいま止まった。


 かつて読んださまざまな本が、記憶の領域からあふれ落ちた。頑なな視床下部の床に落ち、思いがけないページがいくつも開かれた。内の目はそれを見て、急ぎ足で神経へと向った。電達の電撃は万秒に一回しか往来せず、その須臾にすらたえられなかったのだ。シナプスとシナプスが交わる刹那、あまたの言葉が届けられた。やっとそれを彼が意識し始めたとき、劇的な効果を狙ったのか、秘蔵のフィルムも映写が開始。本当は絶命の瞬間の走馬灯に使うためのものであったはずだが、後先考えないのは主人ゆずりの特性だった。


 まず、多くの人が現れた。彼らはひとりであったり、ふたりであったり、それ以上であったりした。くっついたり離れたりし、なにやら楽しげな様子だった。彼はそれをうらやましく思っていたが、自分もその一員であるのに気づくまで、それほどの時間はかからなかった。彼の前にも人がいて、彼の後ろにも人はいた。特別な人物としてそこにあるわけではなく、端役のひとりに過ぎなかった。しかし、彼はそのことに安らぎを覚えた。しだいに、懐かしい気持ちが胸を満たしてきた。それが表面張力を発揮するころ、まわりの景色はもはやかすんではいなかった。


 そこは書店だった。木の板(の床紙)がはられた床は、上から降ってくる底抜けに明るい照明を忠実に反射していた。天井は高く、距離感が存在しているという点で、空に勝っているようにすら思われた。彼のぐるりを本棚が取り囲み、それはどこまでも続いていた。人々の間が妙に空いていたのは、本棚が介在してしていたためであった。


 たくさんの本棚には、たくさんの本が収められていた。そのたくさんの本棚はたくさんあったから、たくさんの本もたくさんあった。たくさんあるたくさんの本をたくさん探すために、たくさんの思い出からここを選ばれた彼は、もうたくさんだと執筆をやめ、たくさんの中へ駆け出していった。その中にあって、ひときわ輝く本があった。それは彼より背が低い灰色の本棚の一番下の段にあり、したがって彼はしゃがまなければそれを手に取ることができなかった。しかし、それだけの価値はあったと言えよう。それは、彼の原因だった。


 右手で本を抜き出して、左手で持って立ち上がり、両手で持って表紙を眺めた。わけのわからぬ世界を旅させられ、外側と内側をひっくり返された理由は、出荷された時と同じ表紙で、色あせることもなくたたずんでいた。文庫本の滑らかなカバーに、白い光が当たってはじけた。思わず彼は目を背けた。日の出を裸眼で見るよりも、よほどまばゆいものだった。自分の理由を、じっくりと、まじまじと、とっくりと見るのは、意外と誰しもがやらないことで、それゆえひさびさに見てみると、そのあまりのルクスに目も潰れる思いをするのだ。


 見る見るうちに、彼の目から一滴がこぼれ落ち、バイトが週一で掃除してぴかぴかだった床に、マクロの水たまりをこしらえた。実のところその本はとても重かったのだが、落涙の理由はそんなことではなかった。東から昇りたての、まだ顔が赤い日を見た時、似たような現象が起るけれど、まぶしさのためでもなかった。これはあくびのためだった。彼は今日、自分がかなり疲労していたことを思い出した。あまり集中できる環境でもなかった。そういうものを頼みの綱にして、彼はこの幻想から飛び出した。


 西に落ちていく夕日は、不可思議のバンジーの玄人として、プリズムを通して見る摩訶不思議な暗号を残してくれた。が、彼はそんなことには気づかず、なにもかもが和らいでたゆたう夕方を、数百のスピードで落下していた。簀巻きの綱はどんどん解かれてゆき、「あー、これは、ちょっと」。そんな間の抜けた感想。辞世の句を考える領域はもう脳にあまりなかった。容赦ない風の洗礼に髪は逆立ち頬は引きつる。彼はどうして自分がここにいるのかは知っていたが、どうしてここに来たのかはわからなかった。このまま落ち着く場所はどこなのか、この展開の行末がどこにあるのか。彼にはわからず、私にもわからなかった。それでも、まあ、ちょっとはもっともらしいことを言ってみるならば、明日の天気は晴れそうだということだ。この世で信頼できるのは、地上に落ちた靴の角度のみである。



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