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とても現実  作者: 皿日八目
8/24

 ユーモアが足りない。語彙も足りない。

 この二要素の欠如は作品に致命的な空洞をもたらし、第三惑星に新たな説を巻き起こしたりどよめかせたりする。わけはないけれど。

 既に触れた通り、いつまでもおかしな文章のみを書き綴っていると、私も疲れるし読む者もくたばることが予想されるため、今回は再びの中休みである。休め。寝ろ。生理行動の暇つぶしにでも読むべき文章なのだこれは。主題は一行目に記してある。


 一応、私はこの作品をある程度は読めるものにしたいと思っている。どうも全然伝わってなさそう(それは当然のことだが)なので、今恥をしのんで小声でそう呟いた。うつむき加減のヒロイックな横顔から滴るものの塩分濃度はいかほどか? リトマス紙を押し当てよ。出たところの色は黄色。これが示す性質は大体二、三百文字にまとめて学会に提出されるべき。私はやらない。誰かがする。


 ユーモアと語彙とは、そういう読むに堪える文章を生成する上で不可欠の材料のように思える。これがあることにより、作品は必要な辛味や苦味や甘みや酸味や、それと肝心な旨味を備えるのであり、これがないものは水切りネットにひっかかってゴミ回収日の沙汰を待つに過ぎぬ物質なのだ。


 だから私もこの二つを何とかこの作品に盛り込みたいという考え、もちろん頭の片隅の砂漠のサボテンの雨季に咲く花の蕾の内側に隠していた。しかし必要な時には紛失している必要な物のように、そういう奥まって複雑で一筋縄でない場所に収納しておいた考えは、とっさに取り出すことができなかった。というわけで私が頭を痛めて産み出したこの文章は、その二つを著しく欠いているのだ。必須成分の欠乏にあえぐ段落は、やがて産みの親たる私の手を離れ、栄養素を求めて安宿のキッチンへと彷徨いでるだろう。一般的なイメージにより、厨房という場所は常に火が舞い上がるひどく忙しい場所という印象を与えられているから、当然その安キッチンも調理人がせわしなく立ち働いているはずで、そんな状況下に駄文が場違いなその頭を登場させるとなると、文系の保健所の襲来に恐れをなした調理人たちの手によって、デリートの憂き目を見るかも知れない。ちょっと長すぎるねこの文章。


 それは避けなければならない危機である。ようやっと二万字を越えるほど全長を育ててきたのに、見ず知らずのコックのコスプレイヤーの手によってその芽を摘み取られてしまうわけにはいかぬ。だから私は今から何としてでも栄養失調によりやせ細ったこの文章に活力を与え、子供料金の切符を買わせることを阻止する必要があるのだ。


 しかしユーモア、語彙とは、一体どうすれば獲得できるものなのだろう。こういう時に大切なのは、調査対象の定義を明白にしておくことである。もしそれを怠れば、トマトを集めるはずなのに赤血球を集めてしまったというような悲劇が起こりかねない。悲劇はもう見飽きた。ここでしっかりと、この二つの未確認存在の定義を明らかにしておくとしよう。


 まずユーモア。これは何だろう。多分、笑えるとか、面白いとか、そういうことだと思う。定義終了。


 続いて語彙。これはいっぱい文字を知っている、そういう感じの意味だろう。定義終了。


 ひどく蒙昧な私によるひどくあやふやな定義をあたえられたひどく曖昧模糊な二存在は、この世のどこに存在するのだろう。ううむ。と、首を捻る(致命傷)ポーズをとってはみるものの、これに関して私は確固たる自信に満ちた声で説明できる在り処を知っているのだ。それはだいたい紙からなり、印刷所の接吻で誕生し、シマウマの皮から引っ剥がしたマークを背中に刻印されたあれだ。要するに本と呼ばれているもの。あらゆるユーモアと語彙とは、それの内に蓄積されてきたのだ。だからヒト科がそれを得たいと欲したときに、まず取るべき手段とは読書。次には食書。その次には飲書である。しかし後者の二つはおすすめできない。雑食というのは、何でも食べられるという意味ではないからだ。十二指腸をまえがきやあとがきが沈降していく様を想像してみろ。まったく、ぞっとする。ぞっとしない作品の執筆を防ぐためにも、日頃から規則正しい生活を実施しておくように。


 私は読んだ本にすぐ影響されてしまう。これを書いている(書いていない)時にも、新たな本に手を出しているから(読了的不貞)、その影響が押したての朱印のように滲むことがあるかもしれない。だが当然私はその影響元たる偉大なる書物のエッセンスの万分の一だって理解できないから、この意味不明が何によって影響を与えられているのか、その源泉を見極めるのは難しいだろう。だからやらなくてよい。


 私の書いたものを読んでいると、えー小説とはこんなにつまらないものなのかと、ともすると絶望する無垢な読者もいるかも知れない。もちろん、そんな感情に心理を支配される必要はない。世には実に面白き本が縦に積み重ねるならクェーサーにまで届くほど存在している(筈)。秀逸なる創作物には共通する体験かもしれないが、そんなものを目にし耳にし認識し知ると、否が応でも現在の地点を超越する光景を目撃せざるを得ない。私はそのことを知っている。そして身の程知らずにも、自分もそういうものを作ってみたく文章を書き始めたのだ。ま、結果はごらんの有様。この文章を捨てる場所を教えてくれ。金曜日なら持っていってくれるだろうか? 曜日はカレンダーを越え指定ごみ袋を携え空を駆ける。それを見た北欧の子供たちはサンタクロースの存在を確認し、ふてくされた私などは課税の存在を確信して免税店へ急ぐ。そんな午後をいかがお過ごしか? 言うまでもなく、サンタが跳梁するのは午後である。


 本は素晴らしいものだ。私は一切の躊躇なく賛美の言葉を口にする。すばらしい――実にすばらしい。私が今飽きもせずに空気を吸ったり吐いたりしている理由はざっと十ほど挙げられるが、間違いなく本はその序列において主要なる位置を占める一存在なのだ。人の言葉が、どれほど人の感情を動かすのか。ちょっと動きすぎ、私の胸を飛び越えた。今それを探している。お察しの通り、褒美として授けられるのは三角定規である。これは夏の定義にも使用されるものなのだ。あの熱気、アスファルトの脱力、そういうものの角度を求めるのに、やはり三角定規は欠かせない。


 甚だしく一行目の目的を逸脱した展開へ突入しているが、べつに忘却したわけではない。抽象的なあの概念を示すのには、やはり抽象的な言葉でもって対抗するしか方法はないのだ。毒をもって毒を制す、というのは賛否両論ありそう(少なくとも私の前頭葉においては)だけれど、ユーモアと語彙は毒ではないし、私の文章も腐っているだけであって毒なわけではない(そう信じている)。この両方の組み合わせにより私は念願の成就を上旬に見出すのだ。


 クズ番組の音を漏れ聞きながらたゆまぬ歩み。と言い張りたい年頃の私の強がりが、句読点に挟まれて窒息する。こういうもの全て、私は本から、音楽から、あらゆる先人の才知の発揮から生意気にも拝借したものなのだ。それだけ、もう、言い知れぬ輝きがあまねく(大体の)本には内蔵されているから、これを読んだものはすべからく書店へ急ぐべし。合言葉は「ここ本屋?」

 己の所在地を確認するのは全生物の急務である。


 だいぶ書いた気がするけれど、やはりまだ千文字以上が残されている。誰かこの文字を屋台の秘法ですくい取ってくれ。私はあれが非常に苦手だ。自分もすくえないのに何故他生物をすくえるのか。なんて、やっぱり考えなしの言葉が満ちる。そも十万は虚無の数字。この世にない記号。その桁数の葬列を目指しひた進むこの文章、行末はどうなのだろう。そうだ。何が起るのかを確認するためにこれはあったのだ。その結末を先取りできるなら、わざわざ何十万回もタイプする必要はない。


 どうなのだろう、結末とは。それは幸せなものなのか。悲しみをたたえたものなのか。いくつもの本を私は読んだ。その中にはその両方があった。あー、確率の賽降る兵士よ、何とも意地の悪いこやつの存在により、それは完璧な半々を見せる。五対五。人生の岐路ではいつもこのような難問が頭を締め付ける。教科書には調和された出来事ばかりが列挙されるが、まったく、現実はそうではない! 

 

 けれど、また一つ思い出す。ただエンドロールを見たいがために、あれや、あの、伝説のような物語、奇跡のような逸話を求めてきたわけではなかったはずだ。むしろ大切なのは、その道中。二点間の類まれなるいくつもの線。カーブし、したかと思うと直進し、ぐるっとまわって見物人を惑わす。その曲線の外側内側の両方に着色はなされる。私はそれこそに楽しみを見つけていたはずだ。そう、最後の最後の閉幕の直前、その瞬間のみに価値があるなんて、これはまったく馬鹿げた話。私はそこに辿り着くまでを、それこそを喜びとしていたのではなかったか。やっと気づけた傍らの真理。手を振って歩めば頬を張られる。ほおずきが表す感情の交わりの擬音。ずきずきと。


 それなら、また最初の地点に戻るのだ。それはしょぼくれてなく、街に立つ人の堂々とした歩み。私は何を気にすることもなく、ただ黒々とした道筋をたどればよいのだ。一寸先は常に白であった。私はそれに黒を塗り、大灯台へ照明するのだ。まったき公転のような円い光を照らされる価値は、私にもあるのだと。

 

 何にせよ、知りたさのためにここにいるのだ。憧れた様々なものに少しでも近づこうと思うなら、同じ事をやってみるのが有効だ。そういう気持ちは始めから持っていたのかも知れない。到底知り得ぬ魔術の一端、奇跡の欠片、視界にわずかでも滲ませられたなら、無為の道も有為となろう。私の舌には甘すぎる至福だ。提供されず当然と思えど、やはり書く手は止められぬ。この章すべてが虚しい励ましの言葉だっだとしても、まだ目を開く気にはなれないのだ。

 

 



 

 

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