脱色噴飯三回忌
「きた、きた、きた!」くるりとまわって彼は急降下した。「アレルゲンの大往来!」
彼はトウモロコシにアレルギーを持っている……と思い込んでいた。十年前のこと、当時小学生だった彼の給食に、コールスローサラダが出された。草を積み重ねてコーンを散りばめたあれだ。彼はそれを一口含み、吐き出した。そのときから思い込みは始まったのだ。彼は自分の嘔吐の理由を、体内の抗体があの黄色い実に過剰反応したせいだと考えていたが、それは大きな勘違いだった。実のところ、彼が本当にアレルギーを持っていた食品は、コールスローサラダの一手前に摂取したなすだったのだ。
果実で武装した野菜は果汁を発射する。目に入ると痛い。目に入ればどんなものでも痛いだろうと思うかもしれないが、しかし目が特に弱点としているのが果汁だったのだ。
「あー。入ったっ」彼女は目を押さえた。「アルカリすら肩透かす痛み!」
「おい、クリームパイはどこだ?」ブロッコリーがぼやいた。「わたしの大好物なのだが」
「あれは全部墜落しました」彼が答える。「なにせ、クリームパイは果汁と比べて大きいですからね」
「しかし糖分には法則を打ち破る力があるのではなかったか?」ブロッコリーはめげずに続ける。「あれは特に人に捕食されたいという欲求が強いから、そのためには多少重力をもねじ曲げられるとか」
「あれは神話でしょう」と彼。「冗談は四行詩から成りますからね」
「なるほど」とうとうブロッコリーは諦めた。「元日の福袋を待つか」
ところで、彼らはなにを武器として戦っているのだろう? ありふれた解答だが、それは心である。しかし、それは目の前の光景を信じないということではない。むしろ逆で、これが現実だと受け入れているのだ。事実は小説より何より奇妙であるが、現実はそれを上まわる。事実が起きるのが現実だからだ。現実に起るのが事実なのだから、飛行するイネ科だって事実。それを受容し、信じること。それが抵抗のための唯一の手段であった。というのは、信頼しないことにはなにも始まらないからである。
「確かに」彼はつぶやいた。「お化け屋敷がお化け屋敷たりうるのは、ただただ客の信仰によるためだし」
「ねえ、何の話してんの。私も交ぜてよ」彼女が二四時の方向から現れた。「さとうきびで斜塔を作る話?」
「ちがうよ」彼はトウモロコシに鉄串を突き刺しながら言った。「いまは伝統料理の話をしているんだ」
「エスニックな?」
「いや、コスメティックな」
「お前ら、前を見たほうがいいんじゃないか?」ブロッコリーが呆れて言った。「どうやらファクシミリは空を飛べるようだぞ」
「え?」ふたりが顔を上げると、型落ちファクシミリがセールの値札を貼っつけたまま弾丸のごとく突っ込んだ。
「命の危機!」彼はからだを中空から引っ張ってきた学習机で防御し、彼女は東の空へ逃げた。
「そっちが日の出の方角だから」だそうである。
まったく描写はなかったものの、それでもちゃんと存在していた天使たちにより、空を埋め尽くさんとするばかりの緑黄色野菜は、だいぶその数を減じていた。それでも、まだ県庁所在地の全世帯に笑顔を振りまきながら配布できるくらいの量は残っていた。
眼下の街では混乱が頂点に達し、人々は快速電車で北極へ向かおうとしていた。イメージとしては、そこには雪と氷とクマしかなく、その他のごたごた(ファミレスのメニューから飛び出すグラタンや、勝手に持ち場を離れて年金を貰いに行く石像や、なによりも自分の隣人)は存在しないはずだったからだ。だが当然、快速電車が北極に行くことはない。というわけで、その日南極は久々の人出でにぎわった。ひとつだけ残念なのは、南極には土産店がまったくないということだった。南極はもちろん北極と同じように、雪と氷とペンギンしかなかったのである。
「だいぶ数が減ってきたんじゃないすか?」彼は口笛を吹いた。「なんだ、大したことないな」
そのとたん、竜がやって来た。それも伝統的なぼさっとした姿ではなく、現代人の想像力によって修飾された、非常に戦闘的で鋭いデザインの竜であった。
「余計なこと言って!」彼女が叫んだ。「そういうことは言うなって、親に教わらなかったの?」
「いやー、ごめんなさい」彼は身を縮ませた。「でもさ、さすがに竜はやりすぎだと思うな」
「さすがに手に負えん」ブロッコリーが言った。「よし、逃げるぞ」
「その言葉を待ってたよ」ふたり(と一野菜)は一目散に飛んでいった。
目についたビルの中、鉄球を含む風に破られた窓から入った。誰も人はいなく、デスクや書類がひたすらに散らかっていた。
「ここの人は逃げたのかしら?」彼女はひっくり返っていたキャスター付きのいすを起こして座った。「きっとそうよね」
「これからどうすればいいのかなあ」彼はどこからか拾ってきた鍵をもてあそびながら言った。「きりがないぜ」
「そのことについてだが……」ブロッコリーが口を開き、ふたりはきっと役に立つことが聞けるはずだと固唾を呑んだ。「私もぜひ訊きたいところだ。どうしたらいいと思うね?」
「あなただけが頼みなんですよ」彼は気落ちしていた。声にもそれが表れていた。「そんな弱気でどうするんですか」
「そう言われてもな」ブロッコリーの声も沈んでいた。水には浮くのに。「ただのブロッコリーだし」
「人間だったんじゃないの?」彼女が驚いて言った。
「いや、元々ブロッコリーだったのだ。あのときはたまたま人間に戻っていただけだ」
「ええっ」彼は持っていた鍵を取り落した。「初耳なんですけれど」
「じゃあなんで人に変身していたんですか?」また彼女が訊いた。
「そりゃ、決っているだろう」ブロッコリーは当たり前のように言った。「散歩をするためだ」
「こんな下らないことばっかしてないで」彼は窓際(と言っても窓はもうないが)から下を見つつ、「もっと役に立つことを考えましょうよ」
「……おい!」ブロッコリーが突然大声を出した。おかげで彼は窓から転落しかけた。
「なんだよ!」
「その鍵はどこで拾ったのだ?」
「これ?」彼は足元にあった鍵を拾い上げた。くすんだ銀色で、古びた家の戸に何千回と差し込まれたのだろうと思われた。「気がつくとポケットの中にあったんだ」
「それはディボイア星系のゲアオエル星の首都ピリコザンにある一軒家の鍵だ」
「へ?」
「それはディボイア星系の……」
「ああ、いや、わかったわかりました」彼は慌ててさえぎり、それから言った。「で、何の鍵ですって?」
もし地球を出発した光が、途中でトイレに行きたくなったとしたらどうするか。言うまでもなく、光というものはめちゃくちゃに速い。ばかみたいに速い。だから途中でどこかに寄ろうと思っても、気づいたら遥か後方。寄り道は細心の注意を払って行わなくてはならなかった。そんなときには、わかりやすい目印が役に立つ。例えば、トイレマークとか。ディボイア星系はまさしく地球で言うところのトイレマークの形状をしていた。その中にある便座型惑星、それこそがゲアオエル星である。
ゲアオエル星の住人はみな、生まれつききわめて胃腸がぜい弱だった。その元凶を探るべく、学者たちが必死で研究したところ、どうやらそれが先祖にあるらしいことがわかった。あらゆる生物は、生まれつき八割方の性質を、家系図を見たとき自身より上に位置するものたちによって決定づけられているのだ。しかし、それで先祖を恨んだって仕方がない。だから彼らは毎週のようにトイレにこもらなくてはならないときにも、自分の曾々々々々々爺さん婆さんを罵ったりせず、神に祈願した。「もう悪いものは食べませんし、規則正しい生活を心がけますので、どうかこの痛みを収めてくれ給え」と。残念なことに、その願いはほとんど聞き届けられなかった。というのも、彼らがトイレで苦しんでいるときはたいてい、神もトイレで苦しんでいたからである。
「なんだか親しみのわく星ですね」ゲアオエル星についての説明をブロッコリーから聞き、彼は心からそう思った。「それで、なんでその星の首都の一軒家の鍵をわたしが持っているんですか?」
「知らんよ」ブロッコリーはあっさり言った。「たまたまだろう」
「鍵って、なんか、特別な感じがするよね」床から生えた魚を彼女は眺めていた。コンクリートは淡水だろうか。「その星に行けば、この混沌を収拾する目処が立つかもしれないよ」
「根拠のない話だけど」彼は鍵を握りしめた。「ま、この出来事の根拠もなさそうだしね」
ふたり(と野菜)の視線がぶつかり、ひとつに交じり合った。そして一つの道を指し示した。
「宇宙へ行く方法を知ってるかい?」彼は笑って言った。
「普通はロケットくらいしかないがな」ブロッコリーも笑っているようだった。「いまはごまんとあるぞ」
突然、彼らが踏みしめていたカーペットがふわりと中に浮き、そのまま壁を突き破って空へ飛び出した。あわてて繊維にしがみつく。
「言霊に力があるっていうのは」彼は容赦なく吹き付ける風に目を細めた。「マジだな」
「じゃ、このままそのなんとか星へ?」なだれ落ちるオフィス用品をかわして、彼女は言った。「ちょっと準備不足じゃない?」
「心配するな」ブロッコリーは不明の原理でカーペットにからだを固定させていた。「いまは生命保存の原則も乱れている。宇宙で呼吸をしなくたって、多少鼻づまりが起るくらいだろう」
「大問題じゃないか」彼は身を震わせた。「私が慢性鼻炎だって、言わなかったっけ?」
灰色のカーペットは三存在をその身に乗せて、軽々と対流圏を舞う。その優美さ、華麗さに、曇天すら恥じらい、道を開いた。雲間から差し込んだ光のなか、きらびやかになって昇っていく。ついに雲を越えた。偉大なる日が彼らの前に出現し、未知の星へ旅立つに足りるほどの励ましを授けた。いつだって陽光とは、生物に力を授けてきたのだ。今更ながら、彼も彼女もそのことに気がついたのだった。




