欠かせぬ色素と青い水
「びっくり」彼は言った。「ブロッコリーって口が悪いんだね」
リュックサックから取り出されたブロッコリーは、教室の小汚い机の上で振動していた。その動きはブロッコリーの怒りを示していて、怒りの原因は彼がブロッコリーの存在を今の今まで忘れていたことにあった。
「嘆かわしき大学生よ!」仰々しくブロッコリーはまくし立てた。「その体が何から出来ているかも知らず、その成因をつまはじきにして中古のリュックサックに閉じ込めておくとは!」
「このバッグは中古じゃないぞ」彼はいささか気分を害した。「親のお下がりだ」
「同じでしょ」彼女はブロッコリーから目を離さず言った。「ねえ、これが件の元人間?」
「そう。私の目の前で人間がブロッコリーに変わったんだ」一言付け加えた。「口の悪いブロッコリーにね」
「何たる侮辱!」ブロッコリーは憤激のあまり、色が若干黄色っぽくなった。「愚者どもめ! 今すぐ首を吊るか手首を切るかして死んでしまえ!」
「うわっ。ひどい」彼は胸に手を当てた。一般的に、それは自分の気持ちが傷つけられたことを示すしぐさだった。「少子化の時代だぞ。もっと若者をいたわってくれよ」
「少子化だと? ふん」ブロッコリーは鼻で笑った。鼻がないにも関わらず。「そんなものはでっちあげだ。動画共有サイトのコメント欄を見てみろ。子供しかいないことがよくわかるぞ」
「あっ。そうかも」彼はブロッコリーの叡智に畏怖を抱いた。
「何であなたはブロッコリーになったの?」彼女が尋ねた。
「ふむ。私もそれについて考えてみた」ブロッコリーは言った。「しかし、まったく心当たりがないのだ。最近は世界中で奇妙な事件が起こっている。おそらく、わたしもそれに巻き込まれてしまったのだろう」
「私がとってた授業の教授が、奥さんを殺して捕まったけど」彼は思い出しながら言った。「それも奇妙な事件?」
「それは違うだろう。よくある話ではないか」
「あっ。そっか」
「あなたにも家族がいるでしょう。私達が送り届けましょうか?」と、彼女。「郵送で」
「着払いでもいいですか?」彼も聞いた。
「なるほど。私よりお前達のほうが茹でられるに値するようだ」ブロッコリーは呟いた。
そのとき、教室の中に茶色い牛が現れた。牛と検索すると一番上に出てくる画像、それがそのまま飛び出したかのような牛であった。ステレオタイプの牛であった。これ以上ないほどに牛であった。
「うわ。牛だ」彼は席から立ち上がった。
「言われんでもわかるわ」ブロッコリーは落ち着き払っていた。というのもブロッコリーには血が流れていないため、脳に血が上るということもなかったからである。「始まったようだな」
「始まった? 何が?」彼女は牛を被写体としていた。「主語がないんですよね。小学校は卒業されましたか?」
「君、そんな性格だったっけ?」彼は呆れて言った。
「大学という多数の人間が集まる場所。多数の人間はそれに輪をかけた思想を持ち、大学はそれを内包する。数限りない空想が打ちっぱなしのコンクリートに染み込み、現実から離れた場として作用する」ブロッコリーは朗々と語る。「その場に非現実の牛が現れた。ということはだな。あー。つまりそういうことだ」
「どういうこと?」彼、彼女が聞いた。
「やばいということだ」
「なあんだ」彼は晴れやかに笑った。「それならそうと、始めから言ってくれればよかったのに」
教室は非常にやかましくなっていた。牛がいなくたってうるさいのに、牛がいたからなおさらだった。牛はゆっくりと首をまわし、せわしなく口を動かす学生どもを眺めた。そして、そのうちの一人に目を止めた。
「えっ。わたし?」彼は目を丸くした。言い忘れていたが、彼が着用していたのは真っ赤なカーディガンだった。
牛はもはや首を動かさず、四本の力強い足を動かしていた。彼の元へ突進するためだ。
「ぎゃあああ……」彼は机を乗り越え、教室の後方へ逃げ始めた。その後方には牛がいたため、教室はことさらパニックに陥った。
「これは……やばいね」彼女はブロッコリーを抱え、机の下に隠れていた。机の下に牛は入れないだろうと、素早く計算していたのだ。「あの、どうしたらいいかな」
「動物は火を怖がる」ブロッコリーは威厳を帯びた声で、だいたいの人間が知っている事実を述べた。「教室に火でも放てばよかろう」
「私が捕まっちゃいます」
「彼が牛に捕まるよりはいいだろう」
「……はあ」仕方なく、彼女は持っていたニトログリセリンに導火線をくくりつけ、教室の外にまでそれを導いてから、メタルマッチで火を付けた。導火線を炭にしながら火は高速度で進み、ついに引火した。どかん。と大きな音がして、校内地図から大教室がひとつ消えた。
「……いや、爆発させろとは言っていないのだが」ブロッコリーは唖然として呟いた。「私は知らないぞ」
「私も知らないわよ」
「裁判ではお前がやったと言うからな」
「ブロッコリーにやれ、って言われましたって言います」
「うん。二人とも有罪だと思うな」彼は炭化した大教室から脱出して言った。
「えっ。あっ。よかった。生きていたんだね」彼女はあわてて笑みを浮かべた。
「他の人も生きていることを祈ってろよ」彼もにやけた。「二人とも縛り首になりたくないなら」
「私には首がないから」ブロッコリーは言った。「厳密には一人だな」
爆風で空いた穴から外に出ると、混沌が目の前に広がっていた。
「わあ」彼は目を見張った。「薬をやった覚えはないんだけどな」
ハンバーガーが空を飛び、雲は蜘蛛だった。ロケット鉛筆が月を目指して発射され、それに出資していたのはイルカ用石鹸だった。なぜそんなことがわかるのかと言うと、彼らの目の前に落ちたパンフレットにそう書いてあったためだ。それを配布しているのはモダンスタイルのマネキンだった。高層ビルは腕相撲で遊び、有料道路は海水浴へ出かけていた。しかし海自体は北極への弾丸ツアーに出発していたため、目的を果たせなかった腹いせに、有料道路は料金を無許可で千倍にした。
「ちんちくりんだね」彼女は空から降ってきた三リットル缶ジュースを振りながら言った。「あ、これおいしい」
「いよいよ現実が失われ始めた」ブロッコリーは深刻そうだ。「このままでは、全人類がツナ缶になってしまう」
「わたしはぜひそうなってほしいな」彼は目をつぶって言った。確かに、見るに堪えない光景だ。「そうすりゃ、奨学金を返さなくても済むし」
「いや、ツナ缶になっても文明は続くから借金は返さなくちゃならないぞ」ブロッコリーはたしなめた。「おそらく、スケトウダラでな」
「なんだって。それはまずいな」彼は目を見開いた。スケトウダラはどこにいるんだかわからない。通貨のほうが、まだ在り処がわかるぶんましだ。この事件を解決しなければならない。強くそう感じた。
「でも、どうすればいいのかな」彼はブロッコリーに聞いた。現在まわりにいる人語を話す存在の中で、一番賢そうなのがブロッコリーしかいなかったのだ。
「やりようはいろいろあるな。しかし、多くの方法は金がかかる」
「よし、みんなで腎臓を一つずつ売ろう」彼女の提案に、残念ながら賛同者は現れなかった。「あれ、肝臓のほうがいい?」
「……もしくは」ブロッコリーは咳払いして言った。「武器を手に取り戦うか」
「何と戦うのかな?」彼は顔のまわりを飛びまわる月を手で払っていた。「ミニ衛星?」
「この現実とだ」
「ああ、それはいいね」彼女は笑った。「そろそろ夢にも飽きてたんだ」
「戦う……って言われても」次に彼を襲来したのは冥王星だった。「どうすりゃいいのさ」
「難しいことではない」ブロッコリーは冷静だった。「例えるなら、対症療法に似ているな」
「片っ端からやっつけるってことでしょ」彼女はうんざりして言った。三リットルのジュースはさすがに多すぎたのだ。「すごく時間がかかりそう」
「我々三人だけ、ならな」ブロッコリーは笑った。口はどこにあるのだろう? 「味方は他にもいるぞ」
「ええっ。こんな▼&に協力してくれる人がいるの?」彼はいつの間にか、どぎついピンク色の三角帽を被っていた。おそらく火を防御するためのものであろう。「申し訳ないけど、そういう人とはあんまり関わりたくないな」
「そう言われてもな」ブロッコリーは空を見ていた。「もう来てしまったぞ」
「えっ?」彼彼女も上を見た。
百万の天使が、完璧な円を描きながら舞い降りた。純白の衣と翼、目をつぶすほどの光を放つ光輪。まったき神話が彼らの目の前に現れた。
「すげー」興奮して彼女は言った。「ほんとに飛んでる」
「後ろめたい気持ちになるね」彼は未だに光景を信じられない。「いや、べつに何もしてないけれど」
「彼らがついている」ブロッコリーは大声を上げた。その声色には、聞くものの心を奮い立たせる効果があるようだった。「絶対に現実を取り戻すぞ」
道に落ちていた翼を付け、彼彼女も天使と共に飛翔した。ブロッコリーは彼のリュックサックの中にあった。
「おい、このバッグは大丈夫なんだろうな」心配そうな声が彼の背中から発された。「どう見ても口が開いているぞ」
「安心しなさいよ。大丈夫だから」彼は言った。「万が一落ちたとしても、ブロッコリーがブロッコリーサラダになるだけだから」
「そのふたつはまったくの別物だと思うがな」ブロッコリーはつぶやいたが、それ以上は言わなかった。彼の冗談は、これから先の戦いに怯える心を励まそうとしているものだとわかったためだ。
「あのさあ。今更かもしれないけど」彼女が横から言った。「私達、どこに向っているの?」
「どこ、ということもない。ただ巨大な異変が現れるのを待っているのだ」ブロッコリーが答える。「上空からだと、その兆候がよくわかるだろう」
「確かに」彼は下を見ていた。「冷蔵庫が人を凍らせようと暴れているね」
「それくらいのものではダメなのだ。もっと。もっと巨大で、へんてこで、奇妙で、ありえないような異変を見つけなければ」
「へえ。それってさ、たとえば」彼女は前方を指差した。「あれとか?」
ブドウとオレンジで武装したトウモロコシが、こちらに向かってクリームパイを発射していた。
「その通り!」ブロッコリーがバッグの中で叫んだ。「さあ、現実のために!」




