本編
宇宙の彼方でインドラが、地球に向けて矢を放った。
矢、と言ってもその大きさは人が認識できる限界をはるかに越えている。具体的に言うと、恐竜を滅ぼしたと伝えられる石っころと同じ巨大さであった。ちなみにこの石っころは今日、一般的には隕石と言われている。しかし、どちらの名で呼んでもかまわなかった。
というのも、どちらにせよ地球は破壊されるからである。
それは一瞬の出来事で、あらゆる生物は何が起きたのか把握できないまま、有史以来の大渋滞となった天国へのエスカレーターにぽかんとして佇んでいた。また、地球の破滅は宇宙の破滅をも意味していた。宇宙を観測していたのは、そのだだっ広い領域の中でただ一つ地球のみであったのだ。誰にも見られなくなってしまった宇宙は、悲しくなって自殺した。死因は窒息死である。言うまでもなく、宇宙には酸素が不足していた。
どんなに不眠症をわずらっていようと数え疲れて眠ってしまうほどの年数を生き延びた宇宙と星々、そして地球とは、ハチドリが一回羽ばたくほどの時間で無に帰した。インドラがどうしてこういうことをしたのか、今となっては誰にもわからない。誰もがもう死に絶えてしまったからだ。無窮の光、悠久の闇、その間に無限の物質をたたえた宇宙は、またただの暗闇に戻ってしまった。
とはいえ、歴史は繰り返すというのが定説である。
しばらく(だいたい数兆年)すると、無はただの無ではなくなっていた。元素が誕生したのだ。それがどのようにして生まれたのか、その過程については数千億年後を誕生日とする学者たちに考えてもらうとしよう。だんだんと、屋上に溜まる水のように、宇宙(だった場所)には原子が増えていった。その後も色々な段階があったのだが、それらは非常に複雑で、いちいち書いてもつまらないため、結論だけ述べると、また地球は誕生した。
新しい地球は古い地球とまったく同じ軌跡をたどり、風の速度すら変わらない有様だった。あまりにも変化がないため、本当は地球など滅亡していないのではないかと唱える学者さえいるしまつだった。しかし、地球に死をもたらした矢を石っころと呼ぶか隕石と呼ぶか議論を戦わせるのと同じで、それはどうでもよいことだった。どちらにせよ、地球はこうして存在しているのだから。
それはべつとして、その頃日本にひとりの男がいた。
戸籍を持つ彼には当然名前があるが、別に物語に関わりがあるわけでもないので明かさないことにする。最近は、空想の人物にすらプライバシーが叫ばれるようになっているからだ。けれども、それは必ずしも冷ややかに見るべき運動というわけではなかった。インドラの悲劇を踏まえた善後策であったからだ。
彼は借家に住まい、大学に通っていた。何でもないことのように思えるかもしれないが、これはけっこう大変なことだった。その頃日本では各地で奇天烈な事件が頻発しており、その「各地」には彼の住んでいる借家周辺も含まれていたためだ。
その日、彼はいつものように大学へ向かおうと家を出た。歩いて駅へ行き、そこから電車に乗るつもりだった。電車で行ける場所になら徒歩ででも行けるはずだが、彼はそういう考えに価値を見出すような性格ではなかった。
ぬるい春の日差しを受けて大通りを歩いていると、前を歩いていた人がブロッコリーになってしまった。「えっ……!」彼のこの驚きようも無理はない。人がブロッコリーに姿を変える可能性について少しでも考えを巡らせたものは、少なくとも新しい地球にはまだ存在しなかったからである。
彼は歩みを中断しようか迷った。このまま歩き続ければ、やがてブロッコリーがある地点に到達してしまう。今まで下を見ていて、前を歩く人なんて知りもしなければ、あれはただのブロッコリーとして認識できて、そそっかしい買い物客が落としたのかななんて呑気な憶測をしていられたのに。
だが彼ははっきりと見ていた。その証拠に、数秒前の光景が網膜に焼き付いて現在の視野にまで影響を及ぼしていた。前を歩く人の残像が見えていた。けれどその人はもういない。いるのはブロッコリーだけだ。「いる」とは彼があのブロッコリーを人として扱いたい気持ちの現れかもしれない。たとえ野菜になったとしても、人間としての意識はまだあるはずだろうと思っているからなのかもしれない。やはり、彼はブロッコリーに近づかずにはおれなかった。
点字ブロックの脇に、そのまま天空から落下したごとくブロッコリーは佇んでいた。ちょっと見事な構図であり、彼にカメラの心得があったなら、一枚味わい深い写真を撮影できたかもしれなかった。彼はおずおずと身をかがめ、恐る恐るブロッコリーに手を伸ばした。
深緑の粒子や、たくましい茎に触れてみるも、まったく反応はなかった。ブロッコリーなのだから、当然といえば当然である。それでも彼は、その緑色野菜がヒト科の化身だと頑なに信じ、汚れた道からその身をすくい上げて背負っていたリュックサックに入れた。そしてそれを見ていた警官に拾得物横領罪の現行犯で逮捕された。奇天烈な事件と通常の事件とは区別されるべきだと、その警官は思っていた。
もちろん、その警官にも名前はあった。しかし、やはり物語にはまったく関係がないため、明かさないことにする。
彼が警官を目指したのは十年前のことであった。そのとき付き合っていた女の子と映画に行って、一時間もすると映画を選んだことをひどく後悔し始めた。せき。こほん。くしゃみ。はくしょん。しゃっくり。ひっく――ああ! 咀嚼。くちゃくちゃ。話し声。ぺちゃくちゃ。せき。こほん。くしゃみ……
最悪の体験を共有したふたりは、だからどうということもなく、二日後には別れた。あの時間、あの映画館の、あの映画で、周りの人間がやかましくしていたから、だから彼女に嫌われてしまったのだと、彼はそう思い込んでいた。ちなみに、彼女が離れていった理由は彼が映画を見ている間ずっと歯ぎしりをしていたことだったが、彼は十年が経過した今でも気づいていなかった。
彼は顧客名簿を映画館から盗み出し、同じ映画を見ていた全員の名前を控えた。何としてでも復讐してやりたかった。足を一寸刻みにし、指を関節ごとに切り分け、全身の皮膚をピーラーで剥いてやろうと決意した。しかし、それはどう考えても違法行為であり、逮捕されるかもしれないとも思った。そこで、警官になることを思いついたのだ。そのときの彼はこう考えていた――警官は人を逮捕するのであり、逮捕されることはない。鬼ごっこの鬼が鬼に捕まるなんてこと、一度たりとてあり得ただろうか?
立派な動機があれば夢が叶うわけでもないし、おぞましい動機が夢を遠ざけるわけでもない。ということで、彼の夢は叶ってしまった。今はこの街の警邏をしているが、地位向上の機会は常に窺っている。どうせ映画館であんなに騒いでいた連中だ。犯罪行為の一つや二つ、やっていて当たり前じゃないか。今の身分では無理だが、いつか、データバンクにアクセスできるようになれば……
そんなことを考えていた最中、彼がブロッコリーを置き引きする現場を目撃したのだ。すかさず肩を叩き、「これは人間なんです! このブロッコリーは野菜ではなく人間なんです!」という狂言には耳を貸さずにしょっぴく。地道な積み重ねだ。下らない事件だが、この繰り返しが地位に結びつくんだ。警官はそんな考えに夢中になり、うっかり赤信号を見落とした。そしてこの街の自動車は、信号無視にそこまで優しくはないのだった。
救急車を呼んだ彼は、面倒ごとに巻き込まれる前にその場を離れた。右手にはめられ、片方は強い力で引きちぎられた手錠が気になるが、そのままにしておくしかなかった。どう見ても破壊には時間がかかり、一限目はそこまで猶予をくれないからだ。彼とすれ違うすべての人が、先端が引きちぎられた上に血がしたたっている手錠にぎょっとしたが、面倒ごとに巻き込まれたくもないので無視した。道を歩くだいたいの人には行き先があり、そこに向かう以外のことを道中でするのはあまり気が進まないものなのだ。
「どうしたの」血が乾燥し、ますます禍々しい錆つきのようになった手錠を見て彼女は目をむいた。「ははあ。親子喧嘩か」
「私の親はどっちかって言うと逮捕されるほうなんだよね」手錠を見咎められないよう、むしろ不審な動きで周囲を見張りながら彼はいった。「たぶん、スピード違反とかで」
彼は大学の教室にいて、彼女も大学の教室にいた。教室というのは大学の二号館の二階の教室のことで、彼女というのは彼の知り合いのことであった。例によって、彼女の名前は別に重要ではないので明かさない。どうせ記号なのだ。
彼は彼女に事情を話してやった。朝から処理能力を必要とされる出来事が多すぎ、彼はめまいを覚えていた。「……そこでさ、トラックが突っ込んできたんだよ。そのあとは、ああ、言わなくてもわかるよね。言ってもいいんだけどさ。言うとこの話が十八禁になっちゃうんだよね。特にこういうやかましい場所だと、誰がこの話を聞いてるかわからないし。誰が話を聞いているかわからないのに、誰にでも聞かせるわけにはいかない話をするのは、よくない気がするな」
「えーっ、教えてよ」彼女はスプラッタの内容を聞きたがった。「うちら十八歳ですぜ」ここは大学であるため、その指摘はもっともだった。
「それはそうだけどさ……」しかし彼は話したがらなかった。思い出すたびに、朝食が喉元までこみ上げてくるからだ。ちなみに献立はラクトアイスであった。「うっ。えっ。ごほん。まあとにかく、十八禁だからといって十八歳以上なら良いってことではないのだ」
「うるせえ死ね」
「えっ。今の声は誰? ……まあいいけど。あのね、ここに橋があったとして(無理ある仮定)、橋には重量制限があって、それが百キログラムだとして、もし君が百キロだったらどうする?」
「うわ。セクハラじゃないすか」彼女は身を引いた。「時代の流れにそぐわぬ説話」
「いいから」
「まっ、そうね。ぎりぎりだし、ちょっと渡りたくないかな」深く考え込むしぐさをして、その実まったく考えていないように見せかけ、本当のところは少し考えて彼女は答えた。
「でしょ。だからさ、十八禁っていうのは、十八歳未満禁止ってことで、つまり十八歳以上なら良いってことなんだけど、だからといって、十八歳というすれすれの人々が耐えられるのかっていうと、そんなことはない」彼は今朝の光景を忘れようと努めていた。「うえっ……だから、この話は聞かないほうが身のためだ。わかったかい?」
「うるせえ死ね」
また響いた暴言に、彼の繊細(と自分では思い込んでいる)心は少なからず傷ついた。そこから血が流れ出し、その流動性は彼の頭の歯車を潤滑にし、ひとつの考えをはじき出した。
ブロッコリーだ。




