序文
物語はだいたい、世界の上で展開される。そうでない物語があるかもしれないが、哀れなほど蒙昧なる私の知るところではないため、ないことにしておく。世界が物語には欠かせない。そしておおかた小説も物語を展開していくものだから、当然この世界を必要とする。世界観と言い換えてもよい。私にはその二つの違いがはっきりしない。もし世界を明確にしないまま話を進めていくと、それは砂上に石を積むことと同義であるため、いずれ崩壊する。がらがら、がらがらと。かなりやかましい音を立てて。だが城が破れたとしても、それで全てが消滅してしまうわけではない。いつの間にやら浴槽の水が減少していても、その水は蒸気となってあたりをさまよっているのである。つまり瓦礫や埃が、崩れ去った楼閣の後に残るのだ。現在のこの作品の状態は、だいたいそんな情景に似る。
だから今更かもしれないが、この小説がどういう世界の元で綴られているのか、それを明らかにしたいと思う。このタイミングでそれを行うのは、何か意図があるかもしれないし、ないかもしれない。私は当然そのどちらであるか知っているので、こっそり教えてあげよう――後者である。
一言で述べてしまうなら、これは十万文字のための世界である。これだけでは説明にならないので、もう少し言うと、十万文字を叶えるためなら、どんな事象でも起こりうる世界である。こうするとだいぶわかりやすく、未就学児にも言わんとするところが理解できるだろう。説明は簡潔に明瞭に瞭然と行えというのは、私がいままでの人生で得た数少ない教訓の一つなのだ。
顔が引きつけを起こすほど、何度も何度も言ったことだが、文字を書く、つまり小説を進めるためには、題材という燃料が必要だ。これは百年ほど前から枯渇の心配がされていて、私もその将来を憂えるものの一人である。というのも、私の土地ではとっくに枯れてしまっているからだ。自動車や飛行機にぶち込む燃料のように、これにも多くの種類が存在しているが、ここで取り上げるのは最も一般的な形態で、レギュラーほどに定番の種類。それは事象である。前の段落になんとかかんとかとほざいていたのも、これを紹介するためだった。
事象は出来事とも呼ばれ、多くの人々はそう呼称する。私がそう呼ばなかったのは、察してくれ、気取りのためだ。それはさておき、なぜこれが最も一般的な燃料であるのかを説明する。とはいえ、わざわざ説明するほどのことでもない。多く手に入り、稼働にとって最良の効率を誇る、それが事象なのだ。早い話、何かへんてこな出来事を発生させ、それにまつわる嘘八百を並べ立てれば、あっという間に行数を稼げる。事象は、物語を進める上で非常に便利で利便で都合がよい。
この小説の舞台たる世界では、あらゆる事象が起こり得る。どういうことかというと、何の脈絡もなく、次の瞬間には主人公がブロッコリーに変わっていてもおかしくはないのだ。主人公がブロッコリーに変われば、作者はそれについて何かしら書かざるを得ないだろう。するとほら! また文字数はかさみ、行数が増えていく。増殖した行はやがて段落となり、分裂した段落は章となる。まるで細胞と個体の関係のように、文章は際限なく肥大化していくのだ。
ここまで引きずってきてから言うのもなんだが、実のところ、上記は世界観に対する説明としては、まったくふさわしくないのだ。世界観というのはつまり、どういう土地、どういう文化、どういう風? などを示すものであり、「十万文字のために何でも起こり得る世界」という愚劣な文句に尽きるものではない。しかし、それについて話すのだって困難だ。考えを整理するまでの時間稼ぎとして、いままでにこの物語で起こった頓狂について振り返ってみよう。
最初の数話は、ひたすら文句ばっかりを垂れていた。十万文字は長い。十万文字は大変。十万文字も書くことがない。その不満そのものを題材として、一歩の拠り所としていた。その次には突飛な出来事を次々と起こしていた。取るに足らない連想と、貧相な妄想により、ぞっとしない展開が延々と繰り返されていた。場当たり的で、何も考えついていないことがありありと文章に滲んでいた。そしてどういうわけか刑務所に入れられた。あれが現実の出来事なのか、いまいちはっきりしない。というか、はっきりしていないことしかない。そんな中で唯一明瞭なのが、十万文字というわけでした。
面倒なのでさっさと列挙してしまう。舞台……現実。場所……地球。登場人物……誰。目的……十万文字。以上。一応、これに基づいて展開は展開されている。これが正しい日本語なのかは知らないが、これが正しくない物語なのは確かだ。物語における間違いとは、ただつまらないことのみであり、その条件をこの小説は十分に満たしているので、晴れて正しくないことが証明されるのである。外来語に頼るまでもなく、以上は完璧に成立した。
言葉尻に虚しさはつきまとい、重ねた回が朽ちて風にさらわれるさまを見るのは慣れた。あれや、あれは、どんなに言葉を重ねても、そのほんの一片すら表現できない。言葉少なに。音は豊富に。数分で完結する世界。かなうものがどこにいる? まして私など? それが数百もあるのだ。再生のたびに始まり終わる。繰り返すことは可能。むしろ、たいていのものがそうする。そして幾万の星が空に浮かんだ。
詩を熟語のうちに孕んでいるのは、まったく異論の余地もない。だから多くで無理やり解釈しようとするのが誤りで、至る道を逆さに歩くごとき妄動。もしも無力が浸透し、なお祈ろうとするのなら、口数を減らすしかない。量で語るものではないからだ。それは、本物がそうであるため。その背景、もしくは前景にそびえる無量を無視するわけではないが、模倣から始まる真理もあろう。
絞り出すような一つ一つが、宇宙を背後にひそめかす、極大の質量を持つ滴なのだ。宇宙にはすべてが記されているから、それを含んだその滴も、必然的に万象を語ることになる。今はバイトの文字が、たとえこの先認識できないほど微かになっても、全てを表すことはできないだろう。口を極める無意味さは、物言わぬ暗黒すら示唆するところ。
母は麦。夕日が照らす麦畑。意味なくまわる風車の小屋と、畑を区切る木の柵。身の軽いかかしが烏を見張り、聞こえる音はさざ波のよう。目に見える風が麦穂を誘い、思索の揺れが一面を支配する。空気は黄金色で、空も高く同じ色。最低限の舗装がなされた、黄色い道を歩いていると、いずこからか葉が飛来した。枯れている。時節の秋季は明白であった。
冷気が清廉であるのは、製氷機の成果が透明なことからも理解できる。それが渦巻く極地の日。時刻は夜。夜でなくてはならなかった。光はあらゆるものを映すが、ただひとつ、光そのものを見せることはない。だから望む光を見るためにはあたりが暗くある必要があった。凍土の凍てつく大気と、上空で開花する絢爛の花。それすら見いだせた。確かに流れていた。自分の吐息が白いことさえ実感した。ひとりとして寄り付かぬ場所であったから、にぎやかな音は期待できないはずだったが、身を幸福に包む壮大が、荘厳が、耳元で響いていた。凍れぬ涙を流すほど胸を打った。致命傷。そのあと一生、それを背負わずには生きていけなかった。
たとえば森。暗い森。常世の夜に生き延びた地区。由来不明の靄が立ち込め、辺りを囲う木々はすべて古い。踏むたびに音を立てるのは、湿気を含んだ苔の褥。前方。居並ぶ影。そこから竜が顔を覗かせる。退化した翼のために飛行できず、地で生きていくことをいつからか運命付けられた。森に棲む人ならぬものたち、精霊のたぐいや足の生えた茸。胃はまったく衰えてはいないので、飽食にはほど遠い。久方ぶりの赤い肉、朱の血の予感に、早々と胃酸が流れ出る。口から滴り、その下にあった葉や草は色を溶かしていく。
とまあ、こんなふうなことを世界観と呼ぶのではなかろうか? 残念ながらどれもこの作品にはないものだ。また、登場人物の少なさも欠点というか致命的な箇所として指摘できると思う。掛け合いの圧倒的な不足。銀河に類似しているのは人の心くらいのものであり、それをなるべく多く登場させることは、世界に厚みと深みをもたらす。しかし、この物語に出てくるのはよくわからないやつが一人。これでは世界もくそもあったものではない。一般的な作品を飾り立てるものがないのに、どうして一般並みの完成度を望むことができようか。いやできない。不足と欠点で構築された文章が、東や西から差し込む日の祝福に与ることは叶わない。光合成のサボタージュ。葉緑体の分布を見たか。大きな一葉もここにはなく、植生のしたたかさも見られない。不動に負ける文。運動の甲斐もなし。
油を塗った器のように、海流を縫った鰻のように、物語は手を抜け出して勝手気ままに動いていく。少しでも思い通りになることはなく、鬱血の症状を確認する。寄り固まって動く小説の、そのすべてを決められず、つまらないの言いなりで完成されていく。まだまだ脳漿は滞り、シナプスは部屋で遊んでいる。超自然を操ると謳われた領域も、これでは人工物すらままならぬ。自身の手から奪い返すべく、出立の準備は整えられた。
また散らかった家の中。結局マーケットでは何も買えず、彼はコンビニで食糧を調達した。店内に入ると巧妙な配置で秘境へと誘導され、今なら安い炭水化物を買えと勧められた。マーケットほどではないにしろ冷房が効いた店内で彼は悩んだが、そこまで炭水化物が好きなわけでもなかったので、別の物を買ってそこを出た。酷暑の道を家へと帰り、見ると購入した食品は溶けていた。それは氷菓子だったのだ。悲しみを胸に閉じ込めた彼は、八つ当たりのため、自分を倒しに行くことを決意した。これもまた気まぐれかとも思われたが、そうではないだろうとも考えていた。なにせ、別の展開はもう何も思いつかなかったのだ。




