船
鋭い船。神話の造船所で造られて、明滅する海をバイパスに乗って瞬きのあいだにわたって来たのだ。プリズムの色合いで、見る人、見る時間、見る場所によってとどまらず变化した。大きさも定まってはいなかった。時には銀河を手玉に取るほど巨大になり、そうかと思えば、つつましげな昆虫を楽しませるのにちょうどよい矮小さにもなった。しかし、この船は乗るためのものではなく、操るためのものであった。そしてそれは、意思ひとつあるならば、だれにでも可能だった。呼吸の数が億を越えない童にも、日常が死に迫りつつある老人にも、心境の鍵を差し込むことができた。舵を取れば、それがやって来たように、自身もあの電光の海へ漕ぎ出し、瞬間と刹那の航海へ。
現実の海がそうであるように、線上の海もまた危険に満ちていた。たいていは、それとわかるような海流で、露骨なほどの渦巻で、醜悪なセイレーンの石像で、示されていることが多かった。それ自体を回避することはたやすい。柔軟な船は、手くずねひく業の張った罠をかいくぐることができた。火が吹き風が燃える修羅場から、一瞬も退屈させずに、華麗に逃げおおせることができた。きわめてすぐれた機能を備えていることに、だれも異論は唱えなかった。ただ、そればかりを頼みとすることはできない、さらに見えにくく深い傷をえぐる、そんな危機もまた海にはあった。
それは知らずしらずのうちにからだをむしばむ、毒とも疫病とも言えるものだった。いかなる風に乗せられてやって来るのか、どこで含んだ食物によるのか、患者が気づかぬうちにその回路を侵し、致命的な海域へ舵をからめ取るのだ。犠牲者はたいてい、治癒しがたい傷を負わされ、血の履歴を遺した。手荒な斬撃と刺突、または砲撃、銃撃の音は、彼らの夢にあらわれ、懇願の声をあざ笑った。いびつな切断面からは、地を腐らせ水を汚す、おどろおどろしい色彩の、タールのような悪徳がしたたり落ちた。それを見るものは恐れるけれど、明日は我が身と考えることはなかった。被害の数は、財宝を手にしたものの数を比較すると、実に少なかったからだ。一時は緊張へ振れた感情も、数分後には中央へ戻り、数限りない経験が上から降ってくるので、おおい隠され、やがては完全に消失した。
空は、海とほとんど同じだった。その気になれば、船は上空を泳ぐことすらできた。大地と空、大地と海。それらと比べれば、空と海は、同様であると言ってよかった。心ときめかす秘宝も、注意からは打ち消したい危機も、ほぼ等しく存在していた。
そのふたつはどの場所にもあり、つまり万象をつなげていたから、すなわちこれとも接触していた。基礎であり、基本であった。だから海はこれに満ち、航海図に記されている記号もそれだった。ありふれたものではあるが、だからこそ重視する船乗りは多かった。値千金のものが、まれに見つかるからだ。金になるという意味でもあるが、それ以上に、消えない一行を歴史に残すものとしての価値があった。
その頃地上では錬金術が流行っていて、くだらぬものを、そのように非常な価値あるものに変換できると、みな浮ついた気分を共有していた。あちこちの街の、あらゆる家の、すべての煙突から、種種の煙が立ちのぼった。その中には明らかに火事と思われるものも混じっていて、対応に追われることもしばしばだった。当然、錬金術にも火は使われていたのである。
そのやり方はいろいろあった。共通するのは、鍋を火にかけ、そこに雑多な材料を放り込むことだった。調合の材料が正しければ、たちまちへどろだった混合物が金色の光を放ち、鍋底をかたどった黄金が生成されるらしいが、真相はわからなかった。というのも、だれも成功したものはなかったからだ。とはいえ、ほとんど成功と言っていいようなものは、すでに幾人かが生み出していた。成功者として名を馳せ、名声は生まれた街にとどまらず、大陸を越え、世界中に広まった。その評判を聞いた他の錬金術師は、自分もそうなりたいと、より熱心に鍋の火加減を見るのだった。
船は材料を運ぶのに役立った。大きさを調節できるし、積荷を置く場所がたくさんあるからだ。港で単色のコンテナを積み込まれては、光すら置き去りにする速度で、次元を越えて輸送していった。船そのものを視界に捉えることはだれにもできず、ただあとに残った波紋を見ることでしか、それが確かに存在していたのだと納得するすべはなかった。流線型の舳先に裂かれた極彩色の海は、空白となった中心を埋めようと、必死で身をよじるようであった。幾多もの無名の貝殻が、その亡き骸をうずめる砂浜からそれを見ていると、言い知れない感動が胸に迫ったものだ。微妙に形の違う水が、それでも遠くから見れば同じなのだろうとたかをくくる、そんな人の耳を驚愕させる、不思議な音を奏でた。夕日は沈みかけ、水平線を火で染めた。細かな光がいくつも生まれては消え、一様でない現象は、今日が昨日とは違うのだと感じさせた。
着港したとたん、焦げた臭いが船員の鼻をついた。だれか(それも相当な数のだれか)が、錬金術を失敗したのに違いなかった。しかし、船員は鼻にしわひとつ寄せなかった。最近はどこの港にもこのような臭いが満ちているため、早々に感覚を閉じていたのであった。みすぼらしい家が立ち並んいでいるのに一瞥をくれると、慣れた手つきでコンテナを積み始めた。
コンテナは大量にあった。いつもなら積み終わる時間になってもまだ港を埋めるのに足るほどコンテナが残っているのを見た時、船員はそのことに気がついた。コンテナの中身は例の、あの錬金の材料になるとかいう、廃棄物であるはずだった。それ自体は珍しいことでもなく、ひとつ前に寄った港で積んだのもそれであった。だが、ここまでたくさんの廃棄物を目にするのは初めてであった。どれほど失敗を繰り返したのかと、船員はあきれたが、一体どんなやつが生産者なのか、気になりもした。彼は知る由もないが、それは港から自動車で十分ほどのところ、毎朝鳥たちが受け取りきれないほどの落とし物をその屋根にしでかしていく、南の壁だけがやけに真新しい家に住むひとりの男だった。
彼はいままでに溜めてきた廃棄物を、まとめて異国のある街に送りつけようとしていた。そこは世界でもっとも錬金術が発達しているとうわさされる街であった。自分がこしらえてしまったごみを、限りなく黄金に近いものに転生させた人物の評判は、彼の耳にも届いていた。そして取るに足らない他のひとびとと同じく、彼もまたそれに望みを託そうとしていた。
博物館の、分厚いケースの向こう側に鎮座されているような、世々にわたって褒めたたえられるべき品を、自分も手にしたいと欲した。それは一見すると、自分にも可能なように思えたものだ。しかし、まるでそうではなかった。何気ない一動作は、どんなに研鑽を重ねても、決して到達し得ぬ域のその向こう側に輝くものであったのだ。凡夫の発想と見まがった段差は、完全に統制された法則のもと、積み上げられたそれを崩さぬように繰り出されたものであったのだ。それを悟るまでに、ずいぶん彼は時間を費やしてしまった。もう動かない壁掛け時計は、それ自体で壁を作り上げられるほどに増えていた。髪は白くなり、最も老いが進んでいた指先と同じくらい、顔にもしわが刻まれていた。しかし、試みをやめようとはしなかった。幾度も繰り返された物語を、もう一度繰り返そうとしていた。そしてそれを、彼はずっと続けていたのだった
精巧なレプリカが、家の半分をおおう棚には詰まっていた。彼の家でもっとも価値がないのは、彼自身であった。というのも、彼より価値がなかった廃棄物は、もう家の中になかったからだ。それはもうコンテナを満たし、いまついに最後のひとつが船に乗せられた。くすんだガラス窓から、波止場を立つ船の姿が見えた、かと思うと、もう消えていた。あまりの速度に、最初からいなかったのではないかとさえ思われた。しかし、母なる煙突に取り残され呆然としたようすでたたずむ煙と、果てしなく続く軌跡のような水紋とは、彼の生んだごみを運んだ船の存在を、ずっと窓際を離れない彼自身に示すのであった。
取るに足らないものを積み、船は海を進む。夕に素早く、夜に迅速に。抵抗のない海の上、滑るように船は進んだ。海面ではじけた無数の泡は、どこかでだれかが考えたバグ。コンセントをのぞくと広がるここは、七対三を鼻で笑う。もはや十だと。陸地は消えたと。白日夢は夜寝の予告。白昼夢は明日の確定。からまりあうほど数は増え、はや平坦でない界となり。
船は速度を上げた。これは時代がそうだから。求めの先にも後ろにも、決して見えない桃源郷。始めの三つが潮時かと、先達の声も墓の中。廃棄は望みと彼は言ったが、望みが廃棄ではないかと、言ってやらないのは優しさか。盛んな火炎に炙られる鍋の、軽率な液体の中で、どれほどの値はつくのだろう。内側のそのさらに中。二重に重ねて差し出す札の、表の願いを叶えよう。
とはいえとはいえ! 悲観すべきことばかりではない。確かに希望はあり、その小さな輝きはあちこちに見ることができる。それは土の隙間からいたずらっぽく覗くに過ぎない。それを掘るなら、いまだかつてだれも見ぬ、認識することすらできないサイズ、グレードで、通販も扱わないしろもの。運んでいくのに飛行機が必要で、それをするのに届け先は狭すぎた。滑空の余裕すらもないそうで。
とんだ発明だ。とんでもなく富んで。飛ぶ跳んだ人の背を。ははは。それ逆。逆の形式。ならばよし、触媒を背に乗せて水たまりを祈ろう。どこまでも。その由縁は雨にあり、さらに系統樹を遡ると、やっぱりぶち当たるのは海。たいていは海から生じるというのは、だいたい捨てられた教科書の目次の注釈。だれにでも知られていることを意味するから、知らない誰は誰でなし。まわりの景色とか、半分でもわかるなら、あなたは天才に違いない。




