愛し、卑怯者
「バシュレーはどこだ!どこにいる!?」
息を切らしながら兵舎に駆けこんできた上官の姿に、誰もが目を見張った。慌てて襟を正し、敬礼する騎士たち。ロザリーは血相を変え、彼らに走り寄った。
「先ほどバシュレーが釈放されたはずだ!ここには戻っていないのか!」
「お…恐れながら、隊長。バシュレー副官は戻られてからすぐにまた出て行かれました」
「出て行った…?いったいどこへ!」
「いや、我々もそこまではっ……」
髪を振り乱し、人目もはばからず取り乱すロザリーの姿に、誰もが困惑していた。彼女のこんな姿は見たことがなかった。いつもの覇気に溢れた隊長の姿はどこにもない。不安げに視線を落としたロザリーの顔は、まるでいつもと別人のようだった。
「そうか…。すまなかった……」
肩を落とし、兵舎を後にしたロザリー。少しでも早くジルダの無事を確認したいという思いだけが、彼女を突き動かしていた。ジルダの無実の罪は晴れ、すぐに釈放されたはずだった。しかし、兵舎に戻っているはずのジルダの姿はどこにもない。いったいどこへ行ってしまったのか…。今すぐ顔を見なければ、ちゃんと安心もできない。
未だ不安に胸が押しつぶされそうなロザリーだが、ハッと思い当たる場所があった。もしかしたらと、考えた瞬間には動き出していた。
そう、彼はあそこにいるかもしれない。いつものように、ごく自然に。きっと今までと変わらず、あの場所に。
脇目も振らず駆け、そして行きついたのは執務室だった。ロザリーは勢いよく扉を開け放ち、そして中に飛び込んだ。夜も眠れぬほどに不安で、ただひたすらに会いたかった。だから、いつもと変わらぬ彼の姿を確認した時には、ロザリーはそのエメラルドの瞳から大粒の涙を溢れさせていた。部屋に充満するハーブティーと、大好きな焼き菓子の甘い香り。当たり前の光景が当たり前にここにある。そのことにこれほどまでに感謝する日が来るとは思わなかった。
ジルダの視線がゆっくりとこちらに注がれ、一瞬その表情が驚きに満ちる。けれど、すぐに穏やかな微笑を浮かべたジルダは、動じる様子もなく再びハーブティーを淹れる作業を再開した。
「ジル…ダ……」
この男は、どうしてこうなんだろう。こんな時でさえ、何を考えているのかもわからない。その余裕たっぷりの表情に、取り乱して涙を浮かべる自分が情けなく滑稽に思えてきた。けれど、同時に安堵した。表情も仕草も、普段と何一つ変わらない。無事だった。それだけのことがこんなにも嬉しくて、ほっとして。なぜだか頬を伝う涙が止まらなかった。
「何て顔をしておられるのですか。隊長ともあろう方が、みっともない」
「うるさいっ…!おまえは、馬鹿か!どうして抵抗しなかった!無実の罪を着せられて、どうして黙ってたんだ!おまえだったら、その気になれば逃げられたはずなのに…」
「そんなことをしたら、一生あなたに会えなくなるでしょう?」
「けれどっ…下手したら流刑だったんだぞ!」
「大したことはありません。あなたに会うためならば、島一つくらい滅ぼしてみせましょう」
「……馬鹿か、おまえは」
涙に濡れたロザリーの目尻を、ジルダの指がそっと拭った。いつも冷たく感情を表さないジルダの瞳が、今は驚くほど穏やかな優しさを宿してこちらを見つめている。今にも溢れだしそうなジルダへの思いに、せきを切ったように流れる涙は止まることを知らなかった。
「あなたの方が馬鹿ですよ。どうして国王陛下の前であのようなことを言ったのです?ご自分の立場が危うくなるだけなのに」
「ああしなければ救えなかっただろう?」
「私のことよりも、少しはご自分の立場を自覚してください。言ったはずでしょう、あなたはあなたの生きる世界があると。だからこそ私はあなたを送り届けたというのに。これから一体どうなるか…」
「うるさい!私は私の部下を守った。ただそれだけのこと。後悔なんてしてない!」
激しいロザリーの剣幕に押され、ジルダは思わず口を閉ざした。涙を拭い、歯を食いしばる。感情を剥き出しにしたロザリーの表情は、幼い少女のように飾らず素直だ。そんな彼女がたまらなく愛おしくなり、ジルダは目を細めて思わず手を伸ばした。
「……全く、あなたって人は。玉座の前で公開告白なんて、とんでもなく可愛いことをしてくれますね」
後頭部に手を回し、そっと引き寄せる。驚いたように目を見開いた彼女に微笑み、ジルダは細い体を抱き寄せた。
「感謝しています、心から」
恥も罪も恐れず、どこまでも正直で潔い。そんなロザリーの芯の強さは、ただ眩い。愛しさを堪え切れずに抱き締めると、なぜかロザリーは戸惑ったように目を伏せた。
「ごめん……」
突然謝罪を口にしたロザリーに、何を謝るのだろうかとジルダは眉をひそめる。覗き込めば、彼女の表情はどこか曇っていた。
「覚悟が足りなかったんだ。全部捨てて、おまえと共に逃げる勇気がなかった…」
「隊長……」
「おまえが言う通りだよ。本当はまだ怖いし、どこかで疑ってる。おまえのありのままを受け入れる自信をまだ持てない」
それが正直な気持ちだった。どんなに愛しいと感じたって、ただそれだけで全て乗り越えられるわけじゃない。綺麗事だけでこの思いを遂げられるはずもない。そんなロザリーの心の内など、ジルダは全てわかっていた。だから突き放したのだ。彼女が本来生きるべき場所へ帰した。殺人者と共に生きることなど、できるはずがないと思ったからだ。
「あなたが悪いんじゃない。だから、そんな顔をしないでください」
そっと伸びてきた手が、白く柔らかな頬を撫でる。その手から感じる優しさに、ロザリーは泣きそうになった。なんてザマだろう。この男の前ではいつだって、強くありたいと思っていたのに。弱み一つさえ見せたくなくて、誰の前でも強い隊長を演じてきた。そんな自分が今は、どうしてこうも情けない顔しか見せられないのだろう。今の自分は一人じゃ何もできない、ただのか弱い女だ。けれど、それはきっとこの男の前だけだと思う。こんなふうにありのまま、強がることなく素顔のままの自分でいられるのは、ジルダの前でだけ。他の誰かでは、ダメなのだ。
「ジルダ……」
その名を呼ぶだけで胸が苦しい。こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。これが恋だというのなら、なんて苦しく切ない感情を神様は人間に与えたのだろうと思う。報われないとわかっていても止められない。この気持ちをコントロールすることなどできない。どうしようもない。好きなのだ。この男が、たまらなく。
けれど、人間の心は脆く移ろいやすい。どんなに好きだと言ったって、所詮は口約束。明日にはわからない。何があっても変わらぬ思いを持ち続けられるほど、人間の心は強くできていない。それでも、諦められなかった。この行き場のない思いをこのまま封じ込めてしまうなんてできない。覚悟はできていなくても、迷いばかりでも、それでも捨てられない。今は、今だけは自分の心に素直でありたい。そして伝えたい。この溢れだしそうな思いを。
「好きだ…。ジルダ、おまえが好きなんだっ…」
俯いたまま、ロザリーはたまらず悲痛な思いを心の底から放った。顔も上げられない。目さえ合わすこともできない。ただ思いを口にするだけで胸がいっぱい。そんな、純朴で真っ白な初恋だ。それなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。どうしてこんなにも、切なくてたまらないのだろう。
「殺人者でもいい。おまえがどんな非道な男でも、死神でも鬼でも構わない。それでも私には、おまえが必要なんだ」
「ロザリー様……」
溢れだす涙を拭いもせず、ロザリーはジルダの胸の中に飛び込んだ。やり場のない思いをありのままぶつけるその姿は、幼くそして純朴だ。強さと逞しさの中に共存する彼女の弱さや無邪気さに、ジルダは気の遠くなりそうな愛しさを覚えた。
もう、諦める他ないのかもしれない。どんなに遠ざけても、自分の心に蓋をしても無駄だ。向う見ずなままに自分の胸に飛び込んでくるこの娘を、結局はこうして抱きとめてしまう。突き放すべきだと頭の中ではわかっていても、離したくないと本能が訴える。ジルダはたまらず腕の中の愛しい女性をかき抱き、その額に口付けた。
「いけません。言ったでしょう?本当の覚悟などあなたにはできていないのだと。私のことは忘れ、あなたはご自分が生きるべき世界で生きたほうがいいと」
「だったら…どうして、またこうして私を甘やかす?どうして拒絶しない?おまえは卑怯だ」
ロザリーの言う通りだ。こんなに優しいキスの雨を降らせながら、思ってもないことを言う。我ながらどれほど説得力がないことだろうと、ジルダは苦笑した。
「そうですね…。あなたのおっしゃる通り、私は卑怯者です。こうして私に夢中になるあなたを目にして、極上の喜びを感じているのだから」
申し訳なさそうに微笑みながら、ジルダはロザリーの唇に指を這わせた。片手で抱き締めながら、もう片方の手で彼女の唇の形を辿る。その柔らかさに目眩さえ覚えながら、ジルダの瞳がロザリーを捉える。至近距離で見つめ合う二人の間には、甘く優しい時間が流れていた。
このまま時が止まってしまえばいいのに。ロザリーはそんなことを考えながら、目の前の愛する男を見つめた。今、何より怖いのは、この愛を失うこと。失うことや信じることを恐れるからこそ、人間は確かめたがるのだろうか。この愛の深さを。
「きっと、私も同じだ。いや、おまえ以上に私は、卑怯なのかもしれない」
「ロザリー様…?」
「ジルダ。私を抱け」
ジルダの顔が、一瞬強張った。いつになく戸惑ったように揺れる瞳が、ロザリーを見つめる。だけど、彼女の表情は変わらなかった。全て心に決めていた。何も怖がることも恥じることもない。たった一人の愛しい男に、全部捧げる覚悟だった。
「ロザリー様…!それ、は……」
「私は本気だ。私の全部を、おまえに捧げたい」
「ですがっ…そんなこと……」
「こんなことを何度も言わせるな。私の精いっぱいの覚悟を無駄にする気か?」
凛としたエメラルドの瞳が、こちらを見つめている。ゾクリとするほど美しいその瞳の深い緑に、何もかも見透かされているような気がした。
「おまえができないと言うなら、これは命令だ。ジルダ。私を抱け」
“命令”――そう言われると、反論する余地などない。自分はこの方の下僕だ。永遠の忠誠を誓った唯一の女性。彼女の言うがままに行動する。彼女が死ねと言えば、きっと自分は死ねるだろう。それほどまでの忠誠心をわかっていて、ロザリーはこの言葉を放ったのだ。その悲痛なまでの決心を思うと、ジルダは胸がチクリと痛んだ。
「あなたは本当に、ひどい人ですね…」
逆らえないとわかっているはずなのに、こんな命令をするなんて。この体も心も、全部あなたのものだというのに。己の全てを捧げたというのに。ただ触れるだけでもこの胸は燃えるように熱い。自分のものにするなんて、夢のまた夢だと思っていた。けれど、今はこんなにも近くにいる。体だけじゃない。心まで、こんな近くにいるのだ。
「ならば全てあなたの望むままに。ロザリー様」
華奢な手を取り、その甲に口付けた。捧げるのだ。永遠の忠誠の証を。そして永遠の愛の証を。




