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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第四章
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最初で最後の契り

穏やかな執務室の空気が急速に熱を宿し始め、いつもと違う雰囲気を醸し出していた。華奢な体をそっとソファに横たえ、ジルダは柔らかなブロンドを優しく撫でた。まるで壊れ物を扱うかのように恐々と自分に触れるジルダに、ロザリーはやや緊張した様子で彼を見上げていた。


「震えていますね。怖いですか?」

「うん…少しだけ、緊張してる」


鼻先が触れ合うくらいの距離で顔を覗きこまれ、ロザリーは頬を赤く染めた。相変わらず、人間味さえ感じさせぬほどの完璧な美貌だ。いつも無表情なせいで一見すれば冷徹な印象を持たれる男だが、今のロザリーにはわかっていた。何も映さぬ殺伐とした灰色の瞳の奥にも、ちゃんと人間らしい優しさがあるということを。今この瞬間に自分に向けられている眼差しは、まるで木漏れ日のような穏やかな光に満ちていた。


「できるだけ、優しくします」

「できるだけって…どういう意味?」

「理性が保てる限りです。あなたの煽り方次第ではわかりませんが」

「はぁ!?私は煽ったりなどしない!」

「そうでしょうか。私が触れるたびに乱れ、喘いでいたのはどこのどなたでしょう?」

「なっ…そ、そんなこと思い出すな!」


すぐにかっとなって顔を真っ赤に染めるロザリーは、この上なく可愛らしい。隊長としての大人びた姿とは打って変わって、こういう子供っぽい所を見せられると嬉しくなってしまう。ジルダはフッと笑って、ロザリーの口元に人差し指を押し当てた。


「もう黙って」


膝立ちで覆いかぶさりながら、ジルダは性急な様子でロザリーの唇を奪った。啄ばむような優しいキスが、次第に激しさを増し官能を呼び覚ます。何も考えられずに必死で彼のキスに応じているロザリーだが、油断した隙に赤い唇をそっと割って侵入してきたのは柔らかな舌先。途端に咥内は甚振られ、されるがままにロザリーは目を潤ませた。


「キスも随分と上手になられた」


温かな掌がロザリーの頭を撫でる。まるで子供にするような扱いに、ロザリーは心の中で文句を言った。こんなの、嫌だ。許せない。男に夢中になって、いつの間にか言いなりになって。こんなにも翻弄されて、理性さえ揺さぶられて。この男が愛しいと同時に、腹立たしくてたまらない。そんなロザリーの心の内など手に取るようにわかっているのか、ジルダは薄い笑みを浮かべながら彼女を静かに見下ろしていた。


「強情な所も結構ですが、従順なあなたもたまらなくイイですね」


勝ち誇ったように満足気なジルダの眼差し。悔しさにたまらず唇を噛みしめるが、ジルダはやけに慣れた手つきで彼女の服を取っ払い、あっという間に生まれたままの姿にさせた。


少しだけ強張るロザリーの表情に、ジルダは苦笑いを浮かべながら身を起こした。そして身に付けていた軍服を脱ぎ捨て、逞しく鍛えられた上半身を惜しげもなく晒す。男らしく隆起した筋肉の美しさに目を奪われたロザリーは、もう壊れそうに打ち続ける鼓動を感じながら、少しだけ緊張に体を震わせた。


「私が怖いですか?」

「怖い…というか、は…初めてだから…その…」


初めての時は、ひどく痛むらしいということはロザリーも知っていた。それを思うとやはり、少し怖い。そして誰にも晒したことのない場所をジルダに貫かれることが、たまらなく恥ずかしかった。


「心配ありませんよ。気が狂うくらいの快楽を与えてさしあげます」


全くこの男は。こんな時さえ傲慢だ、とロザリーはムッと顔をしかめた。あれだけ浮いた噂だらけの男なのだから、女の体など知り尽くしているのだろう。それを思うとやはり気に食わないが、色気を纏った甘ったるい微笑に少しだけ期待もしてしまう。散々教え込まれた快楽を、ロザリーの体は無意識に覚えていた。それを承知しているジルダはニヤリと黒い笑みを浮かべ、彼女を官能の世界へ誘(いざな)った。


ジルダに触れられた所が、どこもかしこも燃えるように熱い。まるで痛めつけるように激しく攻めたかと思えば、労るような優しさを与える。その合間の絶妙な感覚が嫌というほどロザリーを包み込み、気付けば夢中でジルダにしがみついていた。


余裕の表情で自分を見下ろしながら、クスクスと笑う美しい男。あまりの憎らしさに涙目で睨みながら、ロザリーは真っ赤になった顔をブンブンと左右に振った。恥ずかしくてたまらない。それなのに、求める快感は追えば追うほど逃げていく。足りない。まだ、全然足りない。もっと深い場所で、この男と繋がりあいたい――隠しきれない欲望に、思わず甘い吐息が零れた。


「ロザリー様?どうかしましたか?」


ロザリーが何を求めているのかなんて、百戦錬磨の色男は百も承知だ。わかっていながら問う。そんな悪い男の口の端に浮かべた黒い笑みにさえ、ロザリーには気付く余裕などなかった。


「欲しいなら言葉にしてください。どうか、その口で紡いで。私が欲しいと」


極悪でいながら、極上に甘い。残酷なくらいに意地悪く笑うジルダの宣告に、悔しさいっぱいに濡れた瞳で睨むロザリー。けれど、ジルダにとってはそれさえ加虐心を煽る材料だった。夢にまで見た愛しい女性(ひと)を、こうして組み敷いているという現実。死にたいほどの羞恥に晒し、理性さえ奪い取ってしまいたい。気が狂うほど甘い感覚を植え付け、泣きながら自分の名を呼ばせたい。いっそ壊してしまいたい――今にも爆発しそうな欲望を、もう抑えつける余裕がなかった。心が崩壊するくらいまで焦らすつもりだったのに、もう我慢ができない。先に壊れるのは自分の方かもしれないと、ジルダは苦笑した。


「少し苛めすぎましたか…。けれど、いつも強く気高く、美しいあなたをこうして組み敷いているだけで、たまらなく興奮するんです」


そう言ってジルダはロザリーの手を取り、その甲に濡れた唇を落とす。切なげに顔を歪めて与えられるキスの優しさに、ロザリーは胸の奥がじわりと温かくなった。

初めて知った、愛される喜び。時々この男の狂気染みた執着心が恐ろしくなるけれど、それと同時に嬉しくもある。女として欲される喜びが、こんなにも自分の心を満たすなんて。認めざるを得ない。この男の前でだけ、私は女でいられる。強さも弱さも何もかも曝け出した、本当の自分でいられる。他の誰でも代わりはきかない。ジルダでなければ、ダメなのだ。


「愛していますよ。もう、苦しいくらいに。憎らしくて、壊したくて。全て奪い、何もかも俺のものにしたい。ねぇ、分かりますか?私がどれほど、あなたを欲しているか」

「…っ…ジル、ダ……」

「でも、確かめたいのです。あなたも同じ気持ちだと。俺を欲しているのだと」

「えっ…ちょ、待っ……ジル、ダ…あ…ッ!?」

「言ってください、その口で。あなたの声で。憐れなくらい泣き叫んで、俺が欲しいと懇願して」


耳元で囁く声は、どこか物悲しげで切ない。ロザリーは胸をギュッと掴まれたような思いで、ジルダを見上げた。


「……欲しい。ジルダ、おまえが欲しいよ。私もおまえと同じだ。おまえの何もかもを、私のものにしたい」


鈴が鳴るように美しい音色。それが紡がれた唇をうっとりとしながらなぞると、ジルダは笑顔を浮かべた。至極、優しい笑顔だった。ジルダのこんな顔を見たのは、初めてかもしれない。じわりと胸に広がっていく柔らかな温もりに、もう純潔を散らす恐怖など消え去っていた。


ずっと欲しくて、たまらなかった。この瞬間を夢にまで見たのだ。ジルダは恍惚とした表情で、溢れだすロザリーの涙を拭った。


「泣き顔も綺麗ですね」

「う…っ…く、あぁ…ッ!ジル…ダ…」

「けれど、逆効果だ。嫌がり泣き叫ぶほどに、奪いたくなる。頭の中全部、俺でいっぱいにしたくなる」


痛みと快楽が混在する中、滲んだ視界を覆うのは愛しい男。何かに耐えるように顔を歪め、凄まじい色香を醸し出しながら微笑んで何度もその言葉を紡いだ。




「俺がいる。どんな時も、必ずあなたのそばにいるから」




薄れる意識に壊れそうな恐怖を抱きながら、ロザリーは甘く囁かれるジルダの言葉に耳を傾けていた。不思議とそれだけで恐怖が薄れた。ジルダがそばにいる。それだけで安心して、ロザリーはただひたすらに愛する男にしがみ付いていた。

ジルダの声、ジルダの匂い、ジルダの感触、ジルダの何もかも全部が自分の五感を支配している。そこには隔たりも何もない。二人を引き裂く余計なものは、何もないのだ。ジルダの存在が、これ以上ないくらいに近くに感じた。重なり合った場所が、薄い膜を通して溶けあうみたいに。二人の体が、ひとつになる。そんな不思議な感覚に包まれ、激しい快感と共に溢れだす幸福感と共に、ロザリーはゆっくりと目を閉じた。



――ああ…このまま、一つになりたい。一緒に溶けてなくなってしまいたい。そうすればきっと、あなたを失うことなどないのに――



二つの体が離れていく寂しさに、自分でも不思議なくらい孤独を感じた。閉じられた目の際に残る涙の痕を拭い、そっと額に口付ける。それだけで、堪え切れぬ愛しさが自分の中から溢れだしそうだった。未だ紅潮した頬、神々しいブロンドの髪、赤く色付いた唇…全てが愛しくてたまらず、嵐のようにキスを落とした。まだ男を知ったばかりの純真であどけなさが残る体は、きっとこれから花開きさらに美しく変貌していくだろう。満たされた顔で眠る彼女は、まるで女神のように美しい。その心から滲み出る純真さは、眩いほどに光り輝いている。ジルダはまるでひれ伏すかのように、白い手の甲に優しいキスを落とした。


愛だの恋だの、くだらない。この世は悪意に満ちている。そんな世界に生きる人間など、信用するに値しない。そう、どんなに苦しくても誰も助けてはくれなかった。本当の優しさを持って手を差し伸べてくれる人間などいなかった。頼れるのは己だけ――そんな世界に生きてきた。

己が生き抜くためだけに、人を殺し続けてきたのだ。ろくな人生じゃない。これからだって、きっとそうだろう。人を殺め、陥れて手に入れた今の自分だ。幸せなどはなから考えちゃいないし、生きていることに喜びなど感じたことはなかった。


そんな俺のちっぽけな人生を、変えてくれたのはあなただった。


あなたに出会い、本当の優しさと強さの意味を知った。こうしてあなたに触れて、あなたと一つになって、初めて知った。ただそばにいるという喜びを。初めて願った。ささやかな幸せを。初めて怖いと感じた。あなたを失うのが。初めて感謝した。あなたがこの世に生まれてきてくれたことを。こうして出会えたことを。

きっとこの先も、こんな穏やかで満ち足りた幸せな気持ちになることはないだろう。今こうしてあなたを一番近くに感じた瞬間は、俺の人生において一番光り輝いた瞬間であり続けるだろう。もうそれだけで生きていけると思った。


「どうか幸せな夢を。俺の眠り姫」


たった一度の契り。そこに何の証も残せなくても、永遠にあなたの記憶の中に刻み込まれればそれでいい。何を失っても、記憶だけは失われることがないのだから。

だからこそ、願う。次に目を開けた瞬間。そのエメラルドが映す世界が、幸福に満ちた世界であることを。



――夕闇に染まる執務室に、たった一人。熱気を失った孤独な空間は、まるで一時の甘い夢から覚めたような感覚だった。汚れは消され、衣服は整えられ、何事もなかったかのようにただソファに横たえられた自分の体を見つめる。夢を見ていたのだろうかと、一瞬疑った。甘い甘い、幸せな夢を。けれど、重だるい下半身と微かに残る痛みが、確かに現実だったのだと証明してくれている。しっかりと彼を抱き締めたこの手の感覚も、ちゃんと残っている。

それでも、ロザリーにはわかった。何の確信もなくとも、直感だった。この身を包んでくれていたぬくもりは、もう二度とは戻ってこないのだと。きっと、最初で最後の契りだったということを。



ジルダ・バシュレーが近衛連隊を辞したという知らせが彼女の耳に届いたのは、その夜のことだった。


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