流刑
休暇を終えて近衛連隊の任務に戻ったロザリーは、誰もいない執務室で一人、机に突っ伏していた。いつもと同じ席に座れば、いつもと同じ風景がそこにある。けれど、いない。側にいたはずのジルダが、今ここにはいないのだ。しつこいくらいに世話をやき、どんな時も離れずにいてくれたのに。
あれからジルダには一度も会うことができずにいた。アーロンの忠告を考えれば、イリオスに頼ることはできないだろう。父も今やイリオスの言いなりだ。このままではジルダは罪人のままだ。どうにか助け出したいのに、何もできない自分が歯痒くて仕方なかった。
いなくなって初めて実感した。最初は憎らしくて仕方のなかったあの男が、今はもうただそばにいないだけでこんなにも胸が苦しい。空気みたいだと思った。そう、あの男は自分にとって空気のような存在だった。そこにあるのが当たり前で、いなければ息さえできぬほどに苦しくてたまらない。彼の存在がなければ、自分はたちまち死んでしまうのだろう。そんな気にさえなるほどに、ジルダの存在を心が欲していた。恋い焦がれていたのだ。
「隊長、本日の訓練ですが…――」
隣で報告書を読み上げる男を、ロザリーはぼうっと見つめていた。ジルダの代わりに、副官として急きょ任命された中年の男だという。けれど、新しい副官を迎え入れる気などロザリーには毛頭なかった。副官はジルダだ。ジルダしかいないのだ。それなのに、どうして。すでに怒りなど通り越し、もう何をする気にもなれなかった。
休んでいた間に貯まった仕事がどっさりと机に積み上げられ、新しい副官は執務室を後にした。いつも芳しい紅茶の香りが漂っていたはずのこの部屋も、ただ侘しさだけが存在している。完璧に補佐をし、身の回りの世話さえもこなしていたあの副官の姿は、もうここにはない。
『思い知ればいい。あなたは私がいなければ何もできない、無力で世間知らずなお姫様だ』
ふと蘇った、いつかジルダが放った言葉。本当にその通りだと、ロザリーは苦笑した。
「今さらになって…おまえがいなくなってしまってから、思い知るなんてな…」
会いたい。触れたい。せめて一目だけでも、あの男の顔が見たい。どうにか無事でいてほしい――そんなロザリーの切なる願いを打ち砕くような残酷な知らせが届いたのは、ジルダが捕えられてからひと月が経とうとしていた頃だった。
ジルダ・バシュレーを、パレス島へ追放する――その刑は何の前触れもなく宣告された。パレス島。それはアストラス王国の所有する離島で、古くから鉱山開発が行われていた。そこで鉱夫として働くのはほとんどが囚人で、毎日厳しい労働を強いられている。言わば流罪だ。王都から永久に追放されることを意味する。一度送り込まれたら、二度と出ることはできない。そこで一生を終えることとなるのだ。
「そんな、…なぜ、そんな重い刑が…!?」
アーロンの口からそれを知らされたロザリーは、力を失ったように執務室の床に座り込んだ。アーロンはそんな彼女を見下ろし、大きく息を吐く。このひと月の間に、ロザリーはすっかり元気を失っていた。あれほど溌剌として輝いていたはずの彼女が、あの男がいないだけでこうまで落ち込むなんて。アーロンは悲痛な思いでうずくまるロザリーの肩に手を置いた。
「君にとっては惨い仕打ちだとは思うけれど…。仕方ないよ。憲兵隊と議会が下した判断なんだ。僕にはどうしようもなかった」
「だからといって、どうして何の罪もないバシュレーが流刑になどなる!?」
「耐えてくれ、ロザリー。軍に女性がいること自体、風紀が乱れる原因だとさえ言う者もいる。これ以上事を荒立てない方がロザリーのためでもあるんだよ」
「だったら私も同罪だ!私は逃げも隠れもしない。非難したいなら、上官である私を標的にすればいい!」
「ロザリー…。気持ちはわかるけど、もうどうしようもないよ。私情をはさむと余計に君の立場が危うくなる。ましてや、君は将軍家の娘なんだから…」
「私情…?」
私情と言われたら、そうかもしれない。ジルダを愛している。何としてでも救いたいと思っている。けれど、それが全てじゃない。それ以前に、義務があるのだ。ジルダを守ることは、自分の義務なのだ。
「違う、アーロン。全然違うよ。私は近衛連隊の隊長だ。そしてバシュレーは私の部下だ。あの男との関係以前に、私には部下を守る義務がある。部下一人守れずに、何が隊長だ!私は絶対に、バシュレーを手放したりしない!」
そうだ。何があっても、永遠に自分に仕えると誓ってくれたのだ。ならば私だって、決して手放しはしない。永遠に守り抜く。何があっても――ロザリーは固くそう心に誓い、立ち上がった。
凛とした強さの滲み出るロザリーの横顔は、恐ろしいほどに美しかった。勇ましさとともに、いつの間にか身に纏っていた女性としての美しさ。アーロンは息を飲み、そんなロザリーを見つめていた。
「ロザリー?どこへ行くつもり?」
「決まってるだろう。この決定を覆せるのは、この国でたった一人だけ」
「…まさか、国王陛下の所へ!?ダメだよ!そんなこと…」
「無礼は承知だ。けれど、私にはもう後が無い。命を懸けてでも、あの男を守りたいんだ」
全てを心に決めたロザリーの表情に、アーロンはもう何も言えなかった。きっと何を言ったって無駄だろう。一度心に決めたことを簡単に曲げたりしない。他人が何を言おうと、己の心に正直に突き進むのがロザリーの強さだ。
静かに執務室を後にするロザリーの背中を、アーロンはただ祈るような思いで見守っていた。
――ちょうどその頃、宮殿の広間では国の要人を集めて会議が開かれていた。国王に宰相マルクス・エミール、そして息子のイリオス、さらにはディノワール将軍も席についている。そんな最中のことだった。ロザリーが憮然とした態度で突然、姿を現したのは。
「ディノワール隊長!お待ちください!何人たりとも無断で会議の場には…」
「取り急ぎ国王陛下に謁見をお願いしたい!お取次いただけないなら、力づくでもここを通していただく」
その怒声は広間のすぐ外から聞こえた。突然の出来事に、当然その場にいた誰もが目を丸くした。
「一体何事か?」
「はっ、陛下。近衛連隊のディノワール隊長殿が突然、陛下にお目通りを願いたいと」
「今は会議中だが?」
「しかし、私どもの制止も聞かずに、こちらに向かってきているようで…」
眉をひそめた国王に、父であるディノワール将軍は慌てて立ち上がった。いったいどういうことだろうか。会議が行われている最中に、突然乱入してくるなど。何という無礼極まりない行為だろうか。
「も…申し訳ございませぬ。陛下、今すぐ私が諌めに…」
「いや、構わん。ロザリーがそこまで慌てた様子というのは珍しい。何かあったのかもしれん。通せ」
国王の威厳ある声が、他の者の動揺を抑えつけた。側近はすぐさま扉を開け、その前で騒がしく声を上げていたロザリーを通す。誰もが険しい表情で視線を送る中、ロザリーは怯むことなく玉座の前へと進んだ。
「陛下、失礼な行為だと承知致しておりますが、どうか今すぐにお聞き入れいただきたいことがございます」
膝を折り、顔を伏せたまま声を発するロザリーを静かに見つめ、国王は頷いた。いつもと違う、切羽詰まったロザリーに、国王は彼女の只ならぬ何かを感じていた。
「良い。申してみよ」
「はい。我が近衛連隊、副官ジルダ・バシュレーの処遇についてでございます」
「バシュレーか…。そなたを連れ去った罪で、パレス島へと連行されると決まったはずだが?」
「陛下。それは大きな誤解でございます。バシュレーには何の罪もございません」
「何…?」
「私はバシュレーに誘拐されたのではありません。被害者であるはずの私がこうして申し上げているのです」
ロザリーの言葉に、広間が一斉にざわついた。国王まで顔をしかめる中、そんな彼女へ冷ややかな言葉を投げかけたのは、イリオスだった。
「ロザリー殿、いったいどういうことです?彼の処分はすでに決まったはずです」
「ですから、陛下にその決定を取り消していただきたく申し上げているのです。誘拐など事実無根。何の罪もないバシュレーが流罪になるなど、許されることではない」
「では、ロザリー殿。どうして二人は任務の途中で姿を消したのです?まさか、あなたが自分からバシュレー副官を連れて行方をくらましたわけではないでしょう?」
投げかけるイリオスの視線は、今までにないほど冷ややかで挑戦的だった。その瞬間、ロザリーは確信した。この強引とも取れるジルダへの刑を推し進めたのは、おそらくイリオスに他ならないだろう。しかし、どうしてだろう。あんなにも真摯で思いやりに長けた人格者であるはずのイリオスが、なぜこれほどまで頑なにジルダを陥れようとしているのか。ロザリーにはそれでも信じ難かった。
「イリオスの申す通りだ。誘拐されたわけでないなら、いったい何があったのだ?申してみよ」
国王の問いかけに、もはやロザリーは全てを覚悟した。ジルダの冤罪を証明するためには、真実を明かすしかない。下手に話を作ってもボロが出る。ジルダを助けたければ、事実を話す他ないのだ。しかし、そうすれば非難の的が自分に移ることは間違いない。ただ処分を受けるだけならいくらでも耐えられる。けれど、ディノワール家は間違いなく後ろ指を指される。将軍家としての誇りはズタズタに切り裂かれるだろう。自分の行いのせいで。
ロザリーはチラリと父を見た。いつになく厳しい父の目が、自分に注がれているのは明らかだ。きっと父の顔に泥を塗ってしまうことだろう。それは悪く思うが、こうする他ないのだ。迷いはない。たとえディノワール家を捨ててでも、ジルダを助けたい。ロザリーは全て覚悟して、口を開いた。
「私は…自分の意思で、バシュレーと共にあの場から逃げました。任務中にも関わらず、全てを投げ出して彼と共に逃げようとしていたのです」
「……逃げる、だと?」
「はい…。私は彼を愛しています。だから、全部忘れて二人で逃げようとしたのです。バシュレーは何も悪くない。悪いのは、連隊長としての責務を忘れ、欲望に流された上官である私です。全ての責任は私にございます」
迷いのないロザリーの言葉に、広間が一瞬にしてどよめいた。




