消えた二人と、企み
「ロザリーはまだ戻らぬのか!」
ザクレスの森近くに張った野営地に、ディノワール将軍の怒声が響いた。ロザリーが失踪したという知らせが将軍の耳に入ったのは、盗賊の討伐を済ませ、アジトでの撤収作業に追われる最中のことだった。無事であるはずのロザリーが副官と共にこつ然と姿を消し、まる1日だ。将軍は苛立った様子で、ロザリー達の捜索をしていた部下らに怒声を浴びせていた。
「確かに見たのだろうな?ロザリーの姿を」
「は…はい!確かに、隊長はご無事でおられました!数名の騎士がお姿を確認しております。バシュレー副官と共にアジトの中におられた所を」
「だとしたら、なぜ二人とも消えたのだ!」
騎士たちも皆、困惑していた。確かに無事だったはずだ。副官が彼女を救いだし、いつものように側にベッタリ張り付いている姿を何名もの騎士が確認している。残党どもがいたとして、あの伝説の騎士が側にいながら何かあったとは考えにくい。だとしたら、いったいどうして二人揃って消えてしまったのか。まるで神隠しにあったかのようだ。
困り果てていた将軍の元に、アーロン・グランツが駆け付けたのはそれからすぐのことだった。
「将軍、ロザリーがいなくなったというのは本当ですか!」
「おお…アーロン。どうか手を貸してくれ。私も何が何だかさっぱりわからぬのだ」
「何かあったのかもしれません。私も周辺を捜して参ります」
アーロンはすぐさま馬に跨り、森を駆けた。胸騒ぎがした。ロザリーが、あの男と共に突然いなくなったのだ。二人の間に何かあったとしか思えない。姿を消したのは彼女の意思なのか。あるいは、あの男が一方的に彼女を連れ去ったのか?
さまざまに考えれば考えるほどに、恐ろしくなる。アーロンは必死に彼女の名を呼びながら、森の中を彷徨った。
と、そんな時だった。
森を流れる小川のそばに、黒い馬が見えた。不審に思い、アーロンは馬を下りて近付いた。木の影から気配を窺っていると、黒い外套を纏った大柄の男が川の水で顔を洗っているところだった。一瞬、盗賊の残党かと体を強張らせたが、小奇麗な身なりをしている。軍の者だろうかと、足を踏み出したその時だった。男の素顔が見えたのは。見たことのない男だった。しかし、なぜかどこかで会ったような気がする。
「あっ…」
そうだ。この男、イリオスの側近の…!――ハッと思い出したのは、男が鉄の仮面でその顔を隠したその瞬間を、確かにアーロンがその目で見た瞬間だった。エミール家の側近の男が、鉄の仮面を付けていることは有名な話だ。しかし、確かそれは彼が顔に火傷を負った痕が残っているからだったはずだが…。この男の顔には、どこにも痕などなかった。いったい、なぜ…?
「誰だ!」
その声とともに、自分に向かって短剣が飛んできたのはほんの一瞬の出来事だった。幸い木が盾になり、アーロンの身は無事だった。しかし、クシャリクシャリと落ち葉を踏み鳴らす音が、男の接近を知らせている。アーロンは身の危険を感じ、息を殺した。背を伝う冷や汗を感じながら、姿を見せるべきなのかどうかと必死に考えを巡らせる。しかし、答えを出す間もなく、木の影にしゃがみこんだアーロンに刃が突き付けられていた。
「これは…グランツ家の、アーロン殿ではございませんか」
鉄仮面の男は、剣を向けたまま静かにアーロンを見下ろしていた。アーロンは息を飲んだ。なぜエミール家の家令であるはずの男が、自分に剣など向けているのだろうか。それに、不自然だ。エミール家の家令には何度か会っているのだが、こんな雰囲気の男だっただろうか。仮面を付けていてもわかるほどの殺気と、凍てついた視線。何かがおかしい。しかも、自分がアーロンだということをわかってなお、剣を収めようとしないのだ。アーロンは只ならぬこの男の気配に、嫌な感覚が頭を過ぎった。
「私の素顔をご覧になりましたね」
「え…?」
問いに答える間もなく、自分の頭を目がけて剣が振り下ろされようとしている。いったいどういうことなのか。それを考える間も与えられず、とっさに身構えたその時だった。
「待て!シオン!」
その声が聞こえたと同時にこちらに駆け寄ってきたのは、イリオスだった。滅多に慌てた様子を見せないイリオスが、血相を変えてこちらに向かってきている。そして男が握りしめる剣をその手で制し、鞘に収めるよう目だけで指示をした。男は静かに剣を収め、そしてイリオスの前に膝を付いた。これは一体どういう状況なのだろうか。未だ呑み込めずにいながら、とりあえず自分が助かったことだけは確かなようだと、アーロンは安心したように深く息を吐いた。
「イリオス様。素顔を見られてしまったので、つい」
「案ずることはない。この男は私の親友だ」
「しかし…」
「大丈夫だ。私に考えがある」
そう言って薄い笑みをこちらに向けたイリオスに、アーロンは困惑していた。この男のみならず、イリオスもどこか様子がおかしいのだ。イリオスは何もなかったようにアーロンへと手を差し伸べる。その手を取り、身を起こしたアーロンは、静かにイリオスのそばに佇むこの大柄の男をじっと見つめていた。
「この者が無礼な振舞いをして悪かった、アーロン」
「どういう…ことなの?イリオス」
「ここで見たことを全部忘れてくれ。……って言っても、無理そうだね、君には」
ため息を吐くイリオスに、アーロンは首を傾げる。全部忘れてくれ、だって?自分はそんなにも見てはならないものを見てしまったのかと、アーロンは眉をひそめた。
「君には本当のことを教えるしかないようだね」
「イリオス様」
「心配ない、シオン。ちょうどいい機会だ。私はね、グランツ家とこれからもずっと仲良く出来ればと考えているんだ」
いつも通りの穏やかな口調だ。しかし、アーロンに向けた彼の視線は、明らかにいつもとは違っていた。
「……アーロン、この男はエミール家が抱える暗殺者なのだよ。君は暗殺者の素顔を見てしまった」
後戻りはできないのだよ、と穏やかな顔で言ったイリオスに、アーロンは口の中がカラカラに渇いていく思いがした。
そしてアーロンは聞かされたのだ。エミール家の、誰にも知られてはならない真実を。
「……だから、なのか。どんなに試みようとも手掛かりが掴めなかった。まるでベールに隠されたかのように、ある一点から調べることができなかったんだ。ジルダ・バシュレーについて」
全てを知って、あらゆる謎が解けた気がした。まさかエミール家がこんな黒幕を抱えていたなんて。そして、ジルダ・バシュレーの存在そのものが、あの<黒薔薇>の真の姿だったなんて…。
しかし、アーロンは同時に怖くもなった。自分は、本来知ってはならないはずの、とんでもない真実を知ってしまったのではないかと。
「アーロン、これは私と君との間だけの秘密だ。決して他には漏らさないように頼むよ」
「そ、それは…もちろん、分かってるよ」
「ありがとう。これで我がエミールとグランツ家と絆はより強固なものになる。この先もずっとね」
微笑んだイリオスの背後から、シオンの鋭い視線がこちらを威嚇するように捉えていた。イリオスは穏やかな口調だが、恐らく自分を暗に脅しているのだろう。この秘密には、グランツ家の命運も懸っている。漏らせば命はない。エミールの力によって、一家はたちまち没落するだろう。影の王家だと言われるエミール家がこれほどまでに強い力を持っているのかと、アーロンは内心穏やかではいられなかった。
「それはそうと、アーロン。今回のロザリー殿の失踪についてだが」
口数の少なくなってしまったアーロンに、イリオスは唐突に切り出した。
「困ったものだね。あの副官には」
「……え?」
「アーロンもそうは思わないかい?」
一瞬、イリオスはこんな顔をする男だっただろうかと、アーロンは自分の目を疑った。一見いつもの優しさ溢れる表情に思えるが、今のイリオスの瞳の中には、何かとてつもない威圧感が存在するのだ。
「近衛連隊が色恋沙汰なんて、困ったものだよ」
「色恋沙汰…?」
「そう。事の原因は全て副官にある」
何かを企んだように含みをもたせたイリオスの笑みに、アーロンは恐怖を覚えずにはいられなかった。この男はいったい、何を考えているのだろうか。戸惑うアーロンに迫る、まるで作り物のように美しい顔。念を押すように、イリオスはアーロンの耳元で低く掠れた声で囁いた。
「身分違いの恋に正気を失くし、上官をさらってしまった憐れな副官のご乱心だ」
アーロンは初めて、このイリオス・エミールという男が怖いと感じた。




