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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第四章
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生きる世界の違い

私は自分のことを特別な存在だなんて、考えたこともなかった。祝福されながら生まれてきて、大切に育てられ、大した苦労もせずに今まで生きてきた。欲しいものは何だって手に入るし、死ぬほど苦しい思いなどしたこともない。それが普通だと思ってた。人生は光に満ちたものだと本気で思っていた。だから、日の当らない場所に生きる人間のことなど、考えたこともなかったんだ。


人は生まれた場所でこうも違うのかと、初めて思い知った瞬間だった。



「そんな顔を、しないでください」


知らずに頬を流れていた一筋の涙を、冷えた指先が拭う。ロザリーが初めて目にしたジルダの素肌は、今も消えない痣や傷跡で埋め尽くされていた。


「どうしてあなたが泣くんです?」

「だって…これは……」

「何てことはないですよ。もう、随分昔のこと。今さら痛むこともありませんし」


そうは言うけれど、ジルダの背中は鞭に打たれた痣や火傷の痕がくっきりと残っている。小さな体でどんなに苦しく痛かったかと思うと、ロザリーはたまらず嗚咽した。ジルダはそんな彼女に向き直り、そっと手を伸ばす。けれど、その手をはたと止めた。一瞬ロザリーがピクリと動いたのを、彼の目が見逃さなかったからだ。


「私が怖いですか?」


エメラルドの瞳が、少しだけ揺れ動く。無理もない。数えきれないほどの人の命を殺めてきた手だ。怖くないわけがない。それは十分にわかっている。けれど、少しだけ胸が痛んだ。どこかで期待していたからだ。彼女ならば、全部そのまま受け入れてくれると。


「そうじゃない。けれど…未だに、信じられなくて」


ロザリーは戸惑っていた。大丈夫だと思っていたのだ。何を聞かされても、きっと大丈夫だと。けれど、自分に向かって伸ばされたその手は、たくさんの人を悲しませ、不幸にしてきたのだろう。それを考えると、自然と体が反応した。無意識に避けようとしていたのだ。


「おまえが…本当に、あの<黒薔薇>だったなんて…」


わずか12で、親戚の夫婦を殺した。主であった子爵を陥れ、その手にかけた。どんな理由があったとしても、それは紛れもない罪だ。恐ろしい殺人者なのだ。だからこそ、ロザリーは複雑な思いを抱いていた。

きっとああする他なかったんだ。ジルダに罪がないとは言えないけれど、それでも、生きていくためには仕方がなかった。それはちゃんと、頭ではわかるんだが……。


「言い訳はしません。私は罪人。地獄に堕ちるべき人間です」

「ジルダ…。おまえは、後悔してる?今まで…たくさんの人を殺してきたことを」

「……後悔なんて、するはずがない。そう思っていました。けれど、あなたに出会って、初めて考えた。もしかしたら、違う生き方もできたのではないだろうかと。しかし、もし違う生き方をしていたって、こうしてあなたに出会えたかどうかはわからない。結局、こうやって生きてきたからこそここまで来れたのです。過去なんて変えられやしない。私の血塗られた運命は、変えることなどできないのです」


ジルダの横顔が悲しく歪んだ。その心に抱えた闇はどれほど深いのだろうか。ロザリーはそれを思うと、どうしようもなく胸が痛んだ。


「今でも思い出すんですよ。この手で殺めた者たちの、最期の顔を。脳に焼き付いて離れないんです。苦しそうに、恨めしそうに、最後にこちらを睨んで死んでいくたくさんの顔。何も感じないはずなのに、時々それでうなされることもありました。けれど、次の朝にはまた平気で人を殺した。そんな毎日を送ってきた。今でもそうです。私は平気で人を殺すことができる。殺人者であるという性分は変えられない。無情だと言われても仕方がない。憐れんだり悼んだりする心など、とうにどこかに忘れてきたのです」

「ジルダ……」


救いようがない殺人者でしょう、とジルダは笑った。ロザリーは返す言葉を持ち合わせていなかった。何と声をかければいいのか、見当も付かない。想像以上に、ジルダは自分とはかけ離れた壮絶な人生を歩んできたのだ。憐れむことも同情することも、ロザリーにはできなかった。けれど、ロザリーは怒りに震えていた。自分に対する怒りだ。ジルダの生い立ちを聞かされ、自分の無知さを呪った。


「ジルダ…。私は、私が恥ずかしい」


同情なんて止してくれと言うように背を向けるジルダに、ロザリーはそっと手を伸ばした。その首に両手を絡ませ、ぎゅっと背後から抱き締める。そして柔らかな髪に、鼻先を埋めた。


「私は無知だ。おまえがこんなにも苦しい思いをしていることすら、知らずに」

「あなたが心を痛めることではありませんよ。…けれど、私のような境遇の子供などごまんといる。この世はひどく理不尽で不公平です。きっと私の原動力は、そんな世界の構造への怒りと憤りだったんですよ」


この世界には不幸が溢れている。その一方で、何も知らずにわずかな富を貪っている人間だっているんだ。それを思うと、ロザリーは恥ずかしかった。分かったような気になっていた。いや、きっとどこかで気付かぬふりをしていたんだ。自分はなんて傲慢で身勝手な人間なのだろうと思う。一番愛しい人が、一番苦しんでいるのに。何も理解してあげられていなかったのだ。


「私…何ができる?おまえのために、何が…」


抱き締める手の力を強めたロザリー。だが、ジルダはそんなロザリーの手をそっと解き、静かに首を横に振った。


「ジルダ…?」

「運命など簡単には変えられない。私にはそれがよくわかった」

「そ、それは…」

「あなたは美しく咲き誇ればいい。私にとって、ずっと高嶺の花であり続けてください。それがあなたの宿命だ」


一緒に逃げようと、差し出したその手を彼女が取った瞬間からわかっていた。いずれ彼女はこの手を振りほどき、自分の生きるべき世界へ戻ることだろう、と。共に生きることなどできない。生きる世界が違うのだ。たとえ立っている場所は同じでも、その目に映る世界はきっと、自分のそれとは全く違うものだろう。強引に我がものにしたって、何も変わらないのだ。一生手に入ることのない、高嶺の花。ならば彼女の幸せを願い、下僕であり続けるのが己の宿命。ジルダはそんな自らの運命を静かに受け入れようとしていた。


「隊長、どうかお戻りください」


ジルダはそう言って、ロザリーの肩に外套を掛けた。目を伏せてどこか突き放すような態度を取ったジルダに、彼女はたまらず眉を寄せた。


「ジルダ…?どうして?言っただろう?私は、おまえのことが…」

「あなたもよくわかったでしょう。私がどんな人間か。生まれ持っての人殺しです。死神です。血に汚れたこの手で、あなたに触れることなど私にはできない」

「だから、私は構わないと言っただろう?」

「だったら」


ジルダの手がロザリーの首に伸びた。彼女の体を再び押し倒し、長い指先が首に食い込む。抵抗など考える余地のない速さだった。突き刺すような温度の無い眼差しが彼女を見下ろす。このまま力を入れられれば、簡単に息の根を止められるだろう。ロザリーの体は硬直し、迫り来る恐怖に唇を震わせていた。


「なぜ恐れる?俺を心底愛しているなら、そのような目で見るな」

「ジル…ダ……」

「過去も罪も全て受け入れられる人間などいない。あなたもそうだ。あなたも、俺を愚かな殺人者としてしか見れないんだ」


吐き捨てるように言ったジルダの言葉を否定しなかったのは、それが事実だったからなのかもしれない。ロザリーはジルダを見つめながら、その仄暗い眼差しの中に彼の殺人者としての顔を探していた。無意識なのかもしれない。けれど、ジルダの持つ凶器のような眼差しに、少しだけ動揺していた。

怖かったのかもしれない。もしかしたら今も、彼は冷徹な殺人者なのかもしれないと。躊躇なく人を殺せるのかもしれない。信じているのに、どこかで疑ってしまっている。あんなに愛しいと感じたその直後に、こんな薄情な気持ちになってしまうなんて。自分がこうも残酷でずるい人間だったのかと、ロザリーは自らの人間性を呪った。


「ごめん…なさい……」

「どうして謝るんです?それが普通の人間の反応ですよ。あなただけじゃない」

「違う…私、私は…こんなこと望んでないのに…!」

「仕方のないことです。けれど、わかっていたこと。これでも少し気持ちが楽になった。だから、私は十分ですよ。所詮私とあなたとでは、生きる世界が違うのだから」


違う。どうしてそんなことを言うの?そんなことを言わせたいんじゃない。こんな形で気持ちを違えたくなどないのに――ロザリーは涙を流しながら、必死に頭を振る。けれど、ジルダは悲しげな笑みを浮かべるばかりだった。


生きる世界が違う。そう言われると、何もかも拒絶された気持ちになった。整理が付かない頭の中で、ロザリーは必死に言葉を探していた。けれど、どんな言葉も思いつかない。どう言えばいいのかわからない。全て間違っているとは言えないし、ジルダの言葉を否定することもできない。ただ、確かに彼を大切に思っているのに。誰より愛しく思っているのに。それだけは事実なのに。どんな言葉も今は無力な気がした。どんな言葉も、今は薄っぺらく思えて仕方がなかった。


「さぁ、お戻りください。あなたの生きる世界へ」


なんて自分は無力なのだろうと思う。その手を取り、逃げることすら覚悟したはずなのに。愛しい人を救う言葉ひとつ、見つからないなんて。


捨てられないんだ。一人の男を愛する、ただの一人の女として生きることを選べないんだ。ロザリー・ディノワールとしての人生を、私は結局捨てきれなかったんだ…。


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