過去(4)野心
――欲しいものなんていくらでも手に入る。怖いものなど何もない。そう。強くさえあれば、何だってできるのだ。面白いほどに。
バシュレー家の養子となったジルダは、堪え切れず腹の底から笑った。
王都から遠く離れた、小さくて何もない町だ。およそ城とは言えないほど、古びれた陳腐な屋敷。しかし、それでも子爵家なのだ。町を歩けば誰もが頭を垂れ、自分にひれ伏す。爵位があるだけでこうも違うのかと、まるで羽根でも生えたかのような感覚になった。
この不可解な養子縁組に異を唱える者もいたが、それは子爵がさまざまに理由を付けて抑えつけた。しかし、何よりジルダにとって都合が良かったのは、妹となったマリアーヌが新しい兄の存在を大変喜んだことだった。
年頃の純朴な娘の扱いなど、ジルダには慣れたものだった。自分がどれほどに抜きんでた美麗な容姿をしているかなど、とうに理解している。女の味だって、すでに12の頃にはシオンに連れられて入った娼館で覚えた。最初はジルダを養子として迎えるのを猛反対していた子爵夫人でさえ、簡単に彼に陥落した。バシュレー家はすでに、ジルダの意のままだった。まるでジルダこそが本来のバシュレー家の当主のようだ――そんな噂がどこからともなく立ったころ、ジルダは再び剣を突き付けた。己の父に向かって。
「もう用無しだ」
親子で狩りへ行くと言って、子爵を森の奥へと連れ出した。そして人気のない場所を選び、形だけの父親に膝立ちをさせる。無残な斬首の恰好で頭を垂れる男の首へ、ジルダの冷たい剣が突きつけられていた。
「きっ…貴様!初めからこうするつもりだったのか!」
「無能な当主にはさっさとその座を明け渡してもらわねば、俺が実力を行使できないだろう?それに、もう誰もあんたに期待しちゃいない」
「くそっ…!こんなことなら、おまえをさっさと始末すべきだったっ…!」
「誰が、誰を始末するというんだ?」
一段と低い声が響き、うなじに食い込む刃がより一層深くなる。何と恐ろしい男だろう。自らの主であるはずの者を強請り、養子にすることを強要し、そして命まで奪おうとは…。子爵は声にならぬ声を上げ、体を震わせた。
「安心しろ。マリアーヌも俺に懐いている。いい所へ嫁がせてやるさ。幼い弟だって、ちゃんと可愛がってやる」
「くっ…ううっ…!」
「ああ、それから。あんたの奥方はなかなかいい声で啼くじゃないか。これからも楽しませてもらうよ」
「お…おまえ!まさか…ッ…」
絶望と憎悪が入り混じった目が、こちらを見つめる。その眼差しにジルダはほくそ笑んだ。
そうだ。その目だ。そうじゃなきゃ面白くない。最大の屈辱と苦しみの中、死んでいくがいい――ジルダは最後に子爵の表情を見届け、剣を振りおろした。それはまるで死刑執行人のように、淡々とした所作だった。
「父さんも、母さんも、もっと苦しかったんだ…」
ふいに出た呟きは、風と共に消えていく。ジルダは思い出していた。人生で最も幸せで、人間らしい時を過ごしていたあの日々を。もう二度とは戻らない。そして、歩き出した現在も、もう決して引き返せはしないのだ。足元に転がる子爵の亡骸。ふと両の手の平を見れば、返り血で真っ赤に染まっていた。握りしめた剣から、ポタリポタリと深紅の雫が伝って土や葉を汚していく。その様子を、ジルダは茫然と見つめていた。
穏やかな夏の昼下がりには似合わぬ、それは無残な光景だった。
子爵の死は、昨今この地を悩ます盗賊の仕業として広められた。バシュレー家の者もアレーヌの町の者も、皆その死を悼み、その悲しみを背負ってジルダは新しい当主となった。そうしてバシュレー家の家督を継いだのは、ジルダが16になったばかりの頃だった。
それからのバシュレー家の躍進は凄まじいものだった。ジルダは自ら先頭に立ち、自家の騎士団の強化に取り組む。そして、アレーヌの町周辺を脅かす盗賊の討伐にも積極的に乗り出した。また、今まで何の特色もなかったアレーヌの町に、廃れてしまっていた毛織物産業を復興させた。バシュレー家が仕える北方全体の領主である、カルディア伯爵家の協力を仰ぎ、北の国々との貿易でアレーヌの町に富をもたらしたのだ。これは間違いなくジルダの手腕であり、紛れもない功績だった。前当主に騎士として仕えていた間も必死に勉学に励んだ結果だ。ただの騎士として過ごしていたわけではなかったのだ。
表向きはそのように華々しく活躍しながら、ジルダは裏でシオンからの仕事を請け負っていた。多い時で月に数回。少なくとも1年に1回。バシュレー家の城の当主の寝室に、黒い薔薇の刻印が押された封書が届く。それはジルダは暗殺者としての殺人の知らせだった。バシュレー家当主でありながら、ジルダは暗殺者としての仕事を淡々とこなしていた。それがシオンとの次の取引の条件だったのだ。
「何…?おまえ、俺に出世の後押しをしろと言うのか?」
誰もいない森の奥の湖の畔。シオンは少し鼻で笑いながらそう問いかけた。しかし、ジルダはやはりこの時も真剣そのものだった。
「子爵になっただけでは飽き足らないのか?」
「俺が目指すのは王都だ。こんなちっぽけな田舎町で何ができる?俺は自分の手でこの国を動かすんだよ」
この男は、国まで食ってしまおうと思っているのだろうか。自らの手で育てておきながら、恐ろしい男だとシオンは思った。しかし、現実的に叶わぬことではない。頭も切れる男だ。王都にさえ送り込めば、どんな手を使ってでものし上がる力はあるだろう。ただの暗殺者として使い捨てるには惜しい男だ。
「シオン、あんたには俺を王都に送り込むだけの力があるはずだ。そうだろう?」
何もかもお見通しだと言う目だった。ジルダが今まで殺してきたのは、反王家・反国家を掲げる勢力の重要な人物ばかりだ。シオンが王家に限りなく近い人物だということは、すでにジルダはわかっていたのだ。
「いいだろう。バシュレー家の功績を以てすれば、王都への召集も叶わぬことではない。ただし、残りの仕事を全て片付けてからだ。いいな?」
シオンはそうして、ジルダに道標を提示してやった。無論、シオンにはわかっていた。いくら子爵の地位を手に入れたとはいえ、王都は毛並みの違う貴族ばかりだ。抱いていた野心もいつか打ち砕かれる日が来るだろう。所詮この世は生まれと育ちがものをいう。格好だけ高貴な人間を装っても、この国を動かす人間にはなれない。そんなものなのだ。いつか思い知る。その時に、教えてやればいいのだ。おまえは血塗られた運命から抜け出せやしないのだと。
そんなシオンの胸の内など知らず、ジルダはただひたすら殺人をした。何人殺したか知れない。もはや殺すことに何の抵抗もなくなっていた。なぜこの者たちが死なねばならないのか、そんなことはどうでもいい。自分には関係ない。己の野望を実現するためならば、死神にも鬼にもなれた。
そうしてジルダ・バシュレーは、この国一の騎士として王都に召集された。衛兵隊の特別部隊に配属されればすぐに、盗賊の討伐の任務で功績を上げた。それから数年を危険な前線での任務に当たり、ようやく由緒正しき近衛連隊の副官の地位を得た。もうシオンとは会っていない。暗殺者としての仕事にも終止符を打った。これから上れるところまで上りつめ、国を動かす力を手に入れるのだと、ジルダは自らの野心の赴くままに生きていくつもりだった。
血塗られた運命も、不条理な世の中も、全部自分の手で変えてやる。苦しんで死んでいった父と母を救えなかった、あの頃の弱い自分はもういない。毎日屈辱と暴力に怯えていた、あの頃の情けない自分はもういないのだ。
この世界への怒りなのか。憎しみなのか。何が自分をこうまで残酷にし、突き動かしているのかもわからずにいた。
そんな時だった。あの女性に出会ったのは。
彼女は一瞬にして、無色だった自分の人生に色を与えた。一瞬にして、自分の全てを支配し、奪っていったのだ。




