死神の宣告
僕はこのアレーヌの町が大好きだ。夏は近くの湖で泳いで、冬は家の裏にある丘で雪遊びをする。自然がいつも近くにあって、毎日飽きることなく遊ぶことができる。近所に住む人たちはみんな素朴で温かい人ばかりで、家族もとても仲が良かった。
「あなたは本当に剣が好きなのねぇ。練習熱心で、お父さんと一緒だわ」
「よーし。それなら父さんが稽古を付けてやろう」
優しくて綺麗なお母さんと、強くてかっこいいお父さん。僕は大人になったら、お父さんのような騎士になりたいと思ってたんだ。お父さんみたいに領主さまにお仕えして、この町に住むみんなを守るのが僕の夢だった。
「いいかい、この国は今は平和だけれど、またいつ戦争になるかわからない。でも、どんな時でも自分と愛する者を守ることができるように、男は強くならなければいけないんだよ」
「うん、わかったよ。お父さん。僕はお父さんみたいに強くなる」
「よし、いい子だ。けれど、間違えちゃいけない。強い男というのは、優しい男でもある。騎士になって、もし人を傷つけたり殺めたりしてしまった時、たとえどんな相手だとしても、誰にも必ず愛する人や家族がいる。そのことを忘れちゃいけないよ。おまえは人の命の重みをちゃんと理解できる騎士になるんだよ」
それがお父さんの口癖だった。幼かった僕は、その言葉の意味がまだあまりよくわからなかった。けれど、大好きなお父さんとお母さんと過ごした日々は、とても穏やかで幸せで。そんな二人を喜ばせるために、早く騎士になりたくて、毎日毎日剣の稽古を頑張った。
けれど、現実は残酷だった。幼い僕から容赦なく、幸せな日常を奪っていく。まだ5歳だった僕は、その惨い現実をちゃんと受け入れるにはあまりに幼すぎた。
――ハッと目を覚ましたジルダは、ベッドに横たわったまま窓の方へ視線を向けた。まだ夜中のようだ。部屋には月明かりの僅かな淡い光のみが射しこんでいる。夜風に揺れるカーテンと、外でざわめく木の葉の音。一瞬何かの気配を感じた気がしたが、気のせいだったか…と、胸を撫で下ろしたと同時に、ひどい寝汗をかいてしまっていることに気付いた。
久しぶりだ。こんなにうなされるなんて。しかも、ひどく懐かしい夢を見てしまった。今はもう思い出したくもない、遠い過去の記憶。なぜ今更、と苦笑しながら、再び眠りにつこうと目を閉じたその時だった。
やはり、何者かの気配がする――ジルダはとっさに枕元の短剣を手に取った。昔からの癖で、寝る時でさえも肌身離さず護身用の剣を保持している。それは、自分の命がいつ誰に狙われても不思議でないという懸念があったからだ。それほどに自分が危ない橋を渡ってきたということを、ちゃんと自覚していた。
「誰だ?」
低い声で問いかけた。窓際に確かに感じる人の気配。研ぎ澄まされた五感が彼に危険を知らせていた。
ジルダはそっと身を起こし、ベッドを下りる。そして少しずつ窓辺に歩み寄った。しかし、そこにはもう誰の姿もない。逃げられたかと、緊張を解いたその時だ。窓辺に置かれた黒い封書を見つけたのは。
「これは……」
封書の中に入っていたのは、墨で真っ黒に塗りつぶされた薔薇の押し花だった。美しいはずの花の無残な姿。その不気味さに、一瞬息を飲んだ。しかし、ジルダは知っている。この封書が何を意味するか。かつて彼がシオンの下にいた時、“指令”は黒い薔薇の押し花と共にターゲットの名前が記されていた。こうして夜中に窓辺にひっそりと置かれたそれを受け取り、仕事を遂行する。そうして“暗殺”という任務が完了するのだ。だが、ここには誰の名も書かれていない。それはいったいどういうことを意味するのか。なぜ今さらになってこんなものが送られてくるのか。ジルダはそれを考え、唇を噛みしめた。
「次に殺すのは、俺ということか」
もう終わったことだと、完全に過去のことだと思いたかった。もう何の関係もないのだと、忘れ去ろうとしていた。けれど、どこかでこうなることを予想していたのかもしれない。剣を握るたびに、今でも自然と思い出すのだ。自分が殺めてきた人々の最期の表情を。
人の道を外れた自分が、真っ当に今を生きることなど最初からできるわけがなかったんだ――ジルダは黒い封書を破り捨て、諦めにも似た笑みを浮かべた。
シオン――もう二度と会うことはないと思っていた男に再会したのは、あの舞踏会の夜だった。
まだ幼かった俺に人を殺す方法を教えこみ、最強の暗殺者に育て上げた師。しかし、俺は最後までその男の正体を知らなかった。当然、教えるはずなどなかったのだ。この国にとって、最大のタブーとなる真実など。
しかし、そんな男が今更になって自分の前に現れ、真実を明かした。それはただの偶然ではない。ちゃんと理由があったのだ。正体を明かさねばならない理由が。
「噂はよく聞いているが、まだ腕は鈍っていないようだな、ジルダ」
「……ああ。あんたに鍛えられたおかげで、まだこうして生き延びている」
「それは良かった。俺もまだおまえに死なれては計画が狂うからな」
「計画…?」
戸惑うジルダを前に、シオンは不気味な笑みを浮かべた。口元は笑っていながら、しかし、目だけは少しも笑ってはいない。この男の眼光の鋭さは昔と少しも変わっていなかった。
「ジルダ。王都へ来ておまえの望みは叶ったか?」
「……何が言いたい?」
「あの時おまえの意思を尊重し、おまえを自由にした。しかし、血塗られたおまえの運命はそう簡単には変わらない。そうだろう?ジルダ。おまえは近衛連隊の副官という地位を得て、何が変わった?つまらぬ野心など捨て、俺に恩返しをする気にはならないか?」
「シオン…。あの時断ったはずだが、まだ諦めていなかったんだな?」
「俺は気長に待つ性質なんだよ。いつかおまえもわかるだろうと思っていた。この世はどこまでも不条理で、どこまでいっても不平等だということを。そのことを思い知ったおまえに、もう一度あの時言った言葉を言おうとずっと思っていたのだ。なぁ、ジルダ。もう一度俺の下で働き、俺の後継者になれ」
同じ言葉をあの時も聞いた。それは暗殺者として一生を終えろという宣告。しかし、あの時の俺には受け入れられなかった。まだ自分の望みを何一つ叶えていなかったし。手に入れたいものもまだまだたくさんあったからだ。今の自分で終わる気などさらさらない。だから、差し出された手を振り払ったんだ。
だが、今。再びシオンの提案を拒絶するのは、また違う理由があるのだ。
「暗殺者の人生ってやつを考えなかったわけじゃない、あの時はな。でも、今こうして真実を知った以上、尚更受け入れられないと確信した。俺はエミール家に尽くす気などないし、王家の犬になどなる気もない。笑えることだな。この国の平穏がエミール家の良いように仕組まれていたなど。いや、国の平穏を保つなど大義名分もいい所だ。本当の所はあんたたちにとって都合が悪い人間を抹殺し、己の権力を振るっているだけの独裁制だ。あんたは権力に飼われた憐れな犬だ」
嘲るように放ったジルダの言葉を、シオンは表情ひとつ変えずに静かに聞いていた。これだけ罵られても少しも動じない。やはり屈強な男だとジルダは笑った。
「心変わりはしないということか?」
「ああ、天地がひっくり返ってもな。俺はエミール家に膝を屈する気など毛頭ない。たとえエミール家にとって敵になったとしても、最後まで抗うつもりだ。誰の指図も受けない。それが俺という人間だ」
そう、誰の前にも跪くつもりはない。心に決めたたった一人の人間以外には。
「そうか…。それは本当に残念だな」
シオンは大きくため息をひとつ吐いた。やはり、この男には先天的に欠落している。使命感や忠誠心の欠片も持ち合わせちゃいない。その胸に抱いた野心と怒りは、未だ消えることはないようだ。いや、むしろ大きくなっている。最強であるという称号が、誰にも屈しない傲慢さへと繋がっている気がしてならない。だとしたら、自分が招いた結果だ。
いつかは後継者にすることを考え泳がせていたが、やはりあの時殺しておくべきだった。もうこの男の力をこちらに取り込む余地がないとわかった以上、危険人物以外の何者でもない。自分と同等、いや、それ以上の力を持つ男をこのまま野放しにしては、いつかエミール家にとっても脅威となる日が来るやもしれぬ。もうエミール家の真実まで知ってしまったのだ。このまま生かしてはおけない――シオンは覚悟した。
「おまえの言い分はよくわかった。それなら仕方がないな。どちらにせよ、今夜は舞踏会だ。我が主人であるイリオス様のお顔を立てるためにも、楽しんでいってくれ。またの機会にゆっくりと話そう、ジルダ」
そう言ってジルダの肩をポンと叩いたシオン。無機質な鉄仮面の隙間から覗く殺気立った視線が、ジルダの体に纏わりつくようだった。通り過ぎ、離れていくシオンの黒い背中は、どこまでも気味が悪い。ジルダは覚悟した。悪魔との契約など、始めから真っ当なものなどではないことはわかっていたが。今さらになってこうもわが身を追い詰めるとは…。
死神の宣告は、もう目前に迫っていたのだ。




