彼女が選んだ道
夜が更けると、エミール家の城の大広間はさらに熱気を増していた。踊る人の波を掻きわけ、ロザリーはバルコニーに出た。新鮮な外の空気を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ心が落ちつく。冷静になった頭で自分のしたことを考えると、なんだか憂鬱な気分になった。
「断ってしまった……」
きっと父上も母上もがっかりするだろうな、とロザリーは思った。あろうことか侯爵家の縁談を断ったのだ。勿論、イリオスのことは良い男だと思っている。だが、どうしようもなかったのだ。自分の心が赴く先に、イリオスはいない。常にこの心をかき乱し、憎いくらいに欲しいと思うのは、あの男以外にいなかった。それが正直なロザリーの気持ちだった。
しかし、後悔が全くないというわけでもなかった。未だに迷っているのだ。このまま近衛連隊の隊長を続けていていいものなのか。ロザリーはその身を包む美しいドレスを見下ろし、ため息を吐いた。
と、その時だった。
「隊長…?」
賑わう会場とは正反対に静まり返ったバルコニーに、聞き慣れた声が響く。ハッと振り返った先にいたのは、燕尾服に身を包んだジルダの姿だった。
「おまえ…来ていたのか?」
「ええ、私も招待を受けましたので」
ジルダは静かに言って、ロザリーのドレス姿を間近に見つめた。真っすぐに向けられたその視線に、ロザリーは思わず目を背けた。まさかこんな姿をジルダに見られるとは思っていなかったのだ。気恥しさと気まずさに俯き、不貞腐れたように言う。
「あまり見ないでくれ。こんな姿」
「どうしてですか?」
「似合わないのは分かっている」
「どこが似合わないと言うんです?相変わらず天の邪鬼ですね」
嘲るようなジルダの口調にカッとなり、ロザリーは顔を上げた。しかし、なぜだろうか。言い返そうとしたのに、目が合ったジルダの雰囲気がどこかいつもと違っていたのだ。
「バシュレー?おまえ…体調が悪いのか?顔が真っ青だ」
「いえ…そんなことはありません」
「でも……」
ロザリーはたまらず手を伸ばし、ジルダの額に触れた。熱はないが、心なしか元気がない。声色だって、いつもより弱々しい感じがする。一体どうしたんだろうとロザリーは眉をひそめる。しかし、至近距離に迫られたジルダはとっさに、自分の額に手の平を当てる彼女を引きはがした。
「お…おやめください」
目の前に迫ったロザリーの顔を、ジルダはまともに見ることができなかった。きめ細かな肌と、透き通ったエメラルドの瞳。極めつけには大きく胸元の開いたドレス。いつもと違う女性としての彼女の姿が妙に艶めかしく、自分でも不思議なほどに体が疼いた。
全く、勘弁してほしい。いくら何でも無防備すぎる。他の男に心を決めたのなら、こんな風に気安く近付くな。諦めようという必死な努力が、全部無駄になってしまう。
「バシュレー。やっぱりおかしいぞ?」
「いいえ、大丈夫ですから。私に近付かないでください」
「えっ…?」
とっさに口をついて出た言葉が思いのほか冷たかったことに、ジルダは自分でも驚きながらロザリーの顔を覗き込んだ。案の定、戸惑ったように手を引っ込める彼女に、たまらず息を吐いた。こうして一度突き放したなら、それを貫かなければならない。それなのに、傷ついたように悲しげな顔をする彼女を目にすると、決心が揺らぐ。本当はこんな風に冷たくなどしたくはないのだ。
「あ…あなたは、イリオス様に求婚された身でしょう?安易に私に近付くのはおやめになった方がいい」
「なぜそれを知ってるんだ?」
「それは……」
ばつ悪そうに頭を垂れ、ジルダは素直に謝った。
「申し訳ありません。見てしまったのです」
「……バシュレー」
「しかし、心配には及びません。誰かのものになってしまったあなたにこれ以上、手を出すほど私は馬鹿ではない。ですから、これからはむやみに私に近付くのはおやめ下さい。要らぬ誤解をイリオス様に与えてはあなたが困るでしょう?」
「……いや。断ったんだ」
「……は?」
思いもしないロザリーの告白に、ジルダは大きく目を見開いた。
断っただと…?イリオスからの求婚を?まさか…!
「御冗談を」
「冗談などではない。私はイリオス殿を尊敬しているし、好きだとも思う。けれど、それは友としての感情だ。だから、断った」
「そんな…!あなたは侯爵家を一体どのようにお考えなのですか?」
「わかっている。大変なことをしてしまったって。でも、仕方ないだろう?イリオス殿の妻になる自分なんて、想像もできなかったんだ。それに…」
ロザリーは凛とした美しさをそのままに、ジルダをまっすぐに見つめて言った。
「おまえのそばを、離れたくないと思った」
「……は?」
「私を不用意に甘やかすのが悪い。おまえがいたなら、こんな頼りない隊長でも続けられる気がするんだ。バシュレー…。こんな浅はかな考えでは、ダメだろうか?」
頼りなく揺れるエメラルドの瞳が、わずかに潤んでいた。いったいこの人は何を考えているのだろう。つくづく馬鹿な人だと思う。わざと苦労の多い道を選ぼうとしているようにさえ思えてならない。しかし、同時に不思議な人だとジルダは思った。強さと弱さを兼ね備え、まるで少年のようでもあり、立派な淑女のようにも思える。一時の迷いに流されているように見えるが、本当はきっとそうじゃない。どんな波にさらされても、彼女には確固たる芯がある。それは、あらゆる価値観を覆してでも、自分の心の赴くままに生きることを選ぶ強さだ。
「本当は色々迷った。弱い自分に流されそうにもなった。正直、あのレジーヌでの一件にはさすがの私もこたえたし、このまま隊長としてやっていけるのか、自信も失くしていた。けれど、私にはおまえがいる。命懸けで私を守ってくれる存在が、ここにいる。この国の役に立つ人間になりたい、それが幼い頃からの私の望みだ。正直言うと、まだ自信はないけれど。それでも、おまえがいるなら大丈夫な気がするんだ。……なぁ、バシュレー。誰かに頼るような私は、ずるい人間だろうか。こんな私じゃ、隊長など務まらないだろうか」
美しいドレスに包まれた彼女の瞳は、凛とした強さと美しさを放っていた。ずるくなどない。頼りなくなどない。むしろ、強い女性だとジルダは思ったのだ。心に巣食う己の弱さや不安も全てを受け止めた彼女は、誰よりも強い人間だと思う。
“おまえがいるなら大丈夫な気がするんだ”――その言葉に、ジルダはひどく胸が熱くなった。自分を頼ってくれるのなら、全てを懸けて守りたいと思う。この方を襲う全てのものからこの身を以て庇い、盾になる覚悟だ。そのためなら、喜んでこの命を差し出そう。
「あなたは本当に、馬鹿な人ですね」
ジルダは目の前にいるロザリーの存在が、たまらなく愛しく感じた。これほどに自分を欲してくれていることに、喜ばない男がどこにいるだろう。できることなら掻っ攫って、自分のものにしてしまいたい。そんな衝動を抱いてしまうほど、俺はこの方に溺れているのだ。側にいてほしいというなら、絶対に離れない覚悟だ――ジルダはたまらず、ロザリーの細い腕を引き寄せた。
「バシュレー…?」
わずかな抵抗も戸惑いも、無視して抱き寄せる。そしてこの腕の中に閉じ込め、強く抱き締めた。首筋から漂う甘い薔薇の香りにクラクラしながら、ジルダは彼女の体の柔らかさと温かさを全身で感じていた。
「この背に圧し掛かる荷物は、この私が全て背負いましょう。あなたが望むならば、いつでもこの命を捧げましょう。私を必要とするなら、そばにいます。この国のために生きることを決めたあなたを、決してずるい人間などとは思いません。私が証明致します。誰よりもあなたこそが、近衛連隊の隊長にふさわしいお方だと」
「バシュレー…」
たとえ全部嘘でもいいと思った。この男がふさわしいと言ってくれるなら、それで十分。それだけで迷いも不安も断ち切れる。不思議と怖さは吹き飛んでいた。今度こそ迷わず、自分が決めた道を突き進もう――ロザリーは心に決め、ジルダの胸に顔を埋めた。
「おかしいな。おまえのことをあんなにも疎ましく思っていたのに。今はこうしているだけで、安心する」
「そんな可愛いことをおっしゃらないでください。このまま唇を奪ってしまいますよ?」
「……止めろって言ったって、聞かないんだろう?」
「よくわかっておいでですね。でも、そう素直になられると調子が狂って、なかなか手も出せませんよ」
ジルダはロザリーを胸の中に囲い込んだまま、彼女の頬を手の甲で撫でた。淡く色づいた頬が妙に色っぽい。半開きの唇は、まるでこちらを誘っているかのように思えて仕方がない。一体いつの間にこんな仕草を覚えたのだろう。このまま甘い声で誘われれば、全部忘れてこの場で抱いてしまいそうだ。
「ありがとう、バシュレー。おまえのおかげで自信を取り戻せた。自分らしさを失わずに済んだ」
「礼など要りません。そんなものより、目の前の美しい女性を口説く勇気さえない憐れな男に、どうか情けのキスを」
「やはりおまえは色狂いだな」
ムッとしながらも、ロザリーは仕方なく目を閉じた。赤い果実のような唇に誘われるがまま、ジルダはそっと彼女の唇に口付ける。重ね合わせられた二つの唇は、待ちかねていたかのようにすでに熱を上げていた。
「ドレス姿のあなたは、本当に綺麗だ」
「お世辞ならいらないぞ」
「お世辞ではありませんよ。あなたの美しさを前にすれば、きっとどんな男でもひれ伏すことでしょう」
「な…何をっ…」
「口を開けて」
「んっ…あ、ン……」
「そう、いい子ですね」
唇の隙間から侵入してくる熱い舌が、彼女の口内を容赦なく撫でまわす。その度に跳ね上がりそうな自分の体が、恥ずかしくてならない。けれど、不思議と嫌じゃなかった。激しさの中に、優しさが感じられる。それは今までにないことだった。
必死にしがみ付いたジルダの腕は、驚くほど筋肉質で逞しい。この腕にもう何度命を救われ、助けらたことだろう。この男の群を抜いた強さに驚かされ、疑いもしたけれど。もう今となってはどうでもいい。全身全力で自分を守ってくれる存在だということだけは、確かな事実なのだ。その存在にいつしか安心感さえ抱いてしまっている。今では自分が女であることを、素直に受け入れられる気がした。
「んっ…バシュ、レ―…」
「ロザリー様。どうか二人の時だけは、ジルダとお呼びください」
「そ…それ、は……あっ…」
「どうか、ジルダと」
吐息が入り混じった甘い声色が、耳をくすぐる。鼻先の触れ合うほどの距離で、しきりに懇願する切なげな顔を見てしまうと、ロザリーはどうしようもなくなった。
私はどうも、この男には弱いようだ。悔しいけれど、全部この男の思うようになっている気がしてならない。
「ジル…ダ……」
頬を赤らめながら、彼女は細い声を奏でた。濡れた唇から紡がれた自分の名の響きが、これほどに心地よく感じたことが今まであっただろうか。もっと、その声で呼んでほしい。何度でも聞いていたい。そんな思いを口にも出せず、再び柔らかなその唇の感触を堪能する。そして思い知ったのだ。この狂おしいほどの愛の深みに一度はまれば、二度とはもう戻れないと。抜け出すことなど、できないのだと。
ジルダは思い出していた。この王都に初めて足を踏み入れた日を。あの時は誰も信用できず、出会う人間全てが敵だと思っていた。矛盾と欺瞞だらけの不公平なこの社会に対する怒りと、全てを打ち壊すための野心。それだけが自分の原動力。どんな罪に手を染めてでも、欲しいものは全部手に入れてやろうと思っていた。そのために王都へ来たのだ。そうすれば何でも手に入る。自分の人生が変わる、そう思っていた。
けれど、違ったのだ。一番欲しいものは、すでにこんなにも近くにあった。しかしそれは同時に、どんなに足掻いても決して手に入らないものだった。とんだ皮肉だ。けれど、ジルダはそれでもいいとさえ思っていた。今この瞬間さえあればいい。この先なんて考えない。ただ、目の前の愛しい人を守りたい。それだけが今の自分の全てなのだから。
そう、すぐそばに迫る危機を感じ取りながら、気付かないふりをしてわざと避けていたのかもしれない。頭の片隅に残っていた忌まわしい過去の残像が、今にもジルダを追い詰めようとしていた。




