彼の正体
「何ですと?あのロザリー嬢が、結婚を断られたと…!?」
控え室で茶を飲みながら、すっかり気を落としてしまった様子のイリオスを前に、シオンは思わず声を上げた。微笑みの貴公子とまで言われる美貌と、あらゆる才能を兼ね備えたこのエミール家の次期当主が、まさか結婚を断られるなどと考えもしなかった。苦笑いを浮かべる主の姿に、シオンはただただ茫然としていた。
「まさか侯爵家との縁談を断るとは…」
「シオン、彼女は相手を家柄などで見る人間ではないのだよ」
「し、しかし…」
「私が至らなかったのだ。それに、そんな彼女だからこそ心惹かれたのかもしれない」
相変わらずよく出来たお人だと、シオンは思った。高貴なお生まれでありながら、決してそれをひけらかすことをしない。こんなお方の申し出を断る女性がいるなんて信じがたいことだ。
「まぁ、それにね。彼女の心にはすでに、別の男性がいるんだよ」
「何と…もうすでに結婚を決めた相手がおられたのですか?」
「いや、はっきり結婚だとは聞いていないが…。でも、もしかしたらその相手との結婚は難しいかもしれないな。世間一般の常識でいうとね」
「それは、どういう意味ですか?」
「悲しい事だが、家柄の釣り合いというものも、我々貴族の結婚にはある程度必要なものだ。どんなに愛する相手でも、特に嫁ぐ方の女性にとっては大きな問題なのだから」
「ということは…ロザリー嬢が心に決めたお相手は、身分が低い者だと?」
「まぁ、そうだな…。だからこそ、私もまだ望みを捨てられないでいる。そういうことを踏まえて、まだ彼女の心の隙間に私が入りこむ余地があるんじゃないかと算段しているんだ。そんな私は、ひどくずるい人間なのかもしれないが」
イリオスの言葉に、シオンはハッとした。まさか…と思ったのだが。あのロザリー嬢の側にいる者で、しかもそれほど高貴な身分でない男と言えば、一人しかいない。しかも、女性の心を射止めるには十分過ぎるほどの色男だ。
「もしや、そのお相手の男性とは、副官ジルダ・バシュレーでは?」
見事に言い当てたシオンの勘の良さに、さすがにイリオスは驚きを隠せなかった。
「よくわかったね、シオン。もしかして知っていたのかい?」
「いえ、そういうわけでは…」
「だったら話が早い。おまえに調べてほしいことがある」
イリオスは手にしていたティーカップを置き、シオンをまっすぐに見つめた。
「彼を…ジルダ・バシュレーの生い立ちを、おまえに調べてほしい」
「……ジルダ・バシュレーを、ですか?」
予想もしないイリオスの言葉に、シオンはしばし沈黙した。どう答えればいいのだろう。この方はまだ、このエミール家の真実を知ったばかりだ。未だ把握していないこともたくさんある。シオンはイリオスの出方を伺うように、黙ったまま彼の話を聞いた。
「最初に彼の出自を疑ったのは、私の友であるアーロン・グランツだ。彼はロザリー殿の幼馴染みでね。それはそれは彼女を可愛がっている。だからこそ、バシュレー副官が妙に彼女へ執心していることを気にかけずにはいられないんだ」
「執心している、と…?」
「そうだ。片時も彼女の側から離れず、常に行動を共にしている。少しでも他の人間、とりわけ男が近寄ろうものならば、鋭い目で監視さながら見張っているようだ。伝説の騎士ともあろう男が、いくら何でも女隊長相手にそこまで陶酔するとは不自然だろう?ロザリー殿は魅力的な方だから、アーロンいわく、“悪い虫が付くのを恐れている”そうだ。まぁ、私が疑っているのはそれだけではないけれどね」
「…と、申しますと?」
「レジーヌでの一件をおまえにも話しただろう?バシュレー副官がいなければ、確実にロザリー殿や王女殿下は無事でなかった。私たちがあの場に駆けつける間に、彼は数十の盗賊を一人で全て討伐してしまったのだよ。驚くほど並外れた身体能力だ。大人数を相手にする戦い方を知っているからこそだろう。間違いなく一介の騎士ではない。昨今のこの平和な国では珍しい。彼は間違いなく、“殺し方”を熟知している。多くの人間を殺めてきた男だろうと感じたんだ」
シオンは押し黙った。イリオスはすでに気付いていたのだ。あのジルダ・バシュレーがただの騎士でも、単なる子爵家の子息でもないことを。穏やかな顔をしながらも鋭い人だと、シオンは感心した。
「しかし、シオン。アーロンが彼の身辺調査を進めていたんだが、ある一点から一向に進まないそうだ。どうやら何らかの圧力がかかっているらしい」
「左様でございますか…」
「確かアレーヌを治めるバシュレー子爵家は、元々我がエミールの分家であるカルディア伯爵家の配下にあるはずだが…。だとすれば妙だな、情報を得られないなんて。圧力がかかっているということは、カルディア家が何か関係しているのか?」
「………」
当然のことだと、シオンは思った。カルディア家はエミール家の分家なのだ。全てにエミール家の息がかかっている。配下にあるバシュレー家の情報などいくらでも操作できるのだ。あの男についての情報が出てこないのはそのためだ。グランツ家の力を以てしても不可能。それこそが、この国随一の侯爵家の力。他の者には決して崩せない牙城なのだ。
「恐れながら、イリオス様。あなたのおっしゃった通り、あの男は普通の騎士ではありません。それどころか、伝説の騎士でも何でもない」
「シオン、それは一体…?」
「あのジルダという男の正体こそ、数年前に<黒薔薇>と恐れられた真の人物。私がこの手で育て上げた、最強の暗殺者なのでございます」
シオンの告げた言葉に、イリオスは思わず立ち上がった。
「最強の、暗殺者…?あのバシュレー副官が…!?」
あまりの驚きに、イリオスは珍しく声を上げた。しかし、信じられないというよりは、やはり…という気持ちの方が強かった。シオンが<黒薔薇>として暗殺を遂行していたという、エミール家の真実を聞かされた時、何となくピンときたのだ。レジーヌでのあの副官の活躍。どうしても腑に落ちなかった。伝説の騎士とはいえ、あれだけの人を殺した直後に、あんなにも平然としていられるものだろうか、と。情けの欠片も迷いさえも感じさせない彼の戦い方は、さながら暗殺者だった。これで全てが繋がった気がした。
「シオン。後継者に相応しい者はもう死んだと、おまえは言っていただろう?それは彼のことではないのか?」
「おっしゃる通りでございます」
「ではなぜ死んだなどと?」
「あの男はもう、私の手の中にはおりませぬゆえ。後継者でも何でもない。死んだも同然なのです」
「なぜだ?なぜ後継者でなくなったんだ?おまえが最強の暗殺者だと言うならば、なぜ…」
「あの男には、私の後継者たる最も大切な資質が欠落していたため、手放す他なかったのです」
「最も大切な、資質?」
語るシオンの目は、どこか遠くを見つめていた。何を思い出しているのだろうか。その目に宿る冷たい何かに、イリオスは胸が痛くなった。何か不穏なことを考えているのでないかと、疑ってしまう。
「忠誠心にございます」
「忠誠心…?」
「はい。主であるエミール家を敬い、命懸けでお仕えするという使命感。それがあの男には致命的に欠けていた。あの男の強さを支えているのは、己の野心と怒りのみ。殺伐とした砂漠のようなあの者の心は、どうしても私のそれと合いいれなかったのです」
野心と怒り…。なぜあの男は、そのような感情を強さの支えとしているのだろうか。そもそも、シオンの手を離れた後、なぜ近衛連隊などへ入ることができたのだろうか?それは決して容易なことではない。それに、彼は子爵家の養子だったはず。なぜ子爵家の当主たる者が、暗殺者などになったのだろうか?
湧き出る疑問は山ほどあったが、しかし、イリオスは聞けなかった。シオンの瞳がより一層暗みを増し、そこに燃える青い炎がひどく冷たく揺らめいていたのだ。寡黙で落ち着いた男の内なる感情が、今にも爆発しそうな気がした。
「しかし、それが私の失敗でした。今となっては、そのような人物を野放しにしていること自体、危険な事なのです。何より我が主たるあなた様の悩みの種となるとは、大いなる誤算。あの男を生かしておいた私の甘さが、悔やまれてなりません」
いつもより低い声でそう言ったシオンの横顔が、一瞬、イリオスには死神のように恐ろしく思えたのだった。




