予期せぬ再会
口付けをされた手の甲が、燃えるように熱かった。手袋越しでもわかる、イリオスの唇の感触。こちらを見上げる優しい瞳は、頑なな自分の心を溶かしてしまいそうに温かい。こんな風に真っすぐに「愛してる」と言われたのは生まれて初めてだった。結婚なんて考えもしなかった。偏屈で男勝りな私を、愛してくれる人がいるなんて思いもしない。戸惑うというよりは、なぜだか心から嬉しく思えた。
きっと、このタイミングだからなのかもしれない。レジーヌから帰って来て、幾度となく自分の人生について考えた。あのような失態を起こした自分が、どうしても許せなかったのだ。全ては隊長である自分の責任。もしも隊長が自分でなくジルダであれば、結果は違っていたのかもしれない。もう潮時なのではないか。無理をして隊長という地位にしがみ付いて生きていても、誰かを危険に晒すだけなのではないか…。
ロザリーはもう自信を失いかけていた。いっそこのまま誰かのものになってしまおうかと、考えるくらいに。
「イリオス殿、私は……」
優しく包み込まれるような穏やかな眼差しに、危うく流されそうになったその時だった。
「ロザリー殿。この心も、体も、あなたに捧げます。だからどうか、私の妻に」
イリオスの言葉に、ロザリーはハッと目を見開いた。なぜか脳裏に浮かんだのは、あの男の苦痛に歪んだ顔だった。
『この心も、体も、全てあなたに捧げます。だからこそ、奪えない。私にはとても…』
ジルダの苦しげな掠れ声が、耳から離れない。……ずるい男だ。あんなふうに私を無茶苦茶にしておいて、こちらが手を伸ばせば途端に背を向ける。まるで自分が被害者かのように苦しげな顔をして、私から逃げたのだ。腹立たしくてならない。けれど、私にとっては絶対的に信頼が置ける唯一の男なのだ。この私のために命までもを投げ出す、忠実な下僕。自分で言った通り、あの男はこれからもずっと私に尽くし続けてくれるだろう。
そう考えると、ロザリーは想像できなくなった。隊長を辞し、騎士である人生を捨て、このイリオスの元へ嫁ぐなどと。自分が隊長である以上は、あの男は自分に仕え続ける。どんな形であれ、自分の側にいるのだ。だったら、もう答えは決まっている。
「イリオス殿、私はやはり……」
「他に愛する男性がおられるのですね?」
「……え?」
「あなたの顔に、そう書いてありますよ」
イリオスはそう言って、悲しげな顔で微笑んだ。
――そんなやりとりがなされていることも知らないまま、ジルダは二人の後をつけていた。
花々が咲き誇る中庭を舞台に、繰り広げられる男女の恋。男は跪き、女に愛を請う。そんな二人の姿はまるで絵画から抜け出たように美しく、ジルダは直視さえできずにいた。
天はニ物を与えずなどと、誰が言ったのだろうか。あの美しい男は自分の持たない全てを手にし、堂々と彼女の隣にいられるのだ。お似合いの男女だ。容姿も家柄も、すべてがバランス良く釣り合っている。誰も文句など付けようがない。きっとあの男ならば、彼女に何不自由ない暮らしと幸せを与えられるのだろう。
そんな二人を前にすると、こうしてひっそりと見守る自分が滑稽に思えて仕方がなかった。自分はいったい何をしているのだろう。付け入る隙などどこにあるというのだろうか。自分は忠実な部下としてでなければ、あのお方の側にはいられないのだ。それ以上、何を望む?最初からそんな叶わぬことを、考えたりするべきでなかったのに。
そうだ。彼女を思うなら、このまま見守ってやるのが最善だろう。あの男ならばきっと、誠実に彼女を愛し続ける。間違いなく、彼女を幸せにできる男なのだ――ジルダは何度もそう自分に言い聞かせ、二人に背を向けた。これ以上、寄りそう二人を目の前にすると、気が狂いそうになる。ともすれば奪い去ってしまいそうになる衝動を何とか抑え、二人から離れた。ロザリーの幸せだけを切に願って。
中庭を後にし、回廊に差し掛かったその時だった。正面にこちらに向かって歩いてくる一人の男が目に入った。長い黒髪を後ろに結い、黒い外套を纏う大柄な男だ。全身が黒に覆われていながら、顔を覆う鉄の仮面が異様なまでに存在感を放っている。ジルダはじっと目を凝らした。外套の上からでも十分に分かる、筋肉質な体格と恵まれた長身。どこかで会っただろうか。なぜか妙な既視感を覚えるのだ。素顔が見れないのがもどかしく、少しだけ歩を速めた。だんだんと距離を詰めていくに連れ、その妙な既視感がだんだんと大きくなっていく。
と、いよいよすれ違おうとしたその時だった。すれ違ったのはほんの一瞬のことだった。しかし、ジルダの目ははっきりと捉えていた。あの鉄仮面の隙間から、鋭く眼光を放つ二つの眼。まるで見る者全てを射るかのような尖鋭な眼差しに、ハッと思わず足を止めた。
「…っ……」
言葉も出ず、ゴクリと唾を呑み込んだ。一瞬にして蘇ったあの忌々しい日々の記憶に、背筋が凍るような思いがした。
まさか…。いや、そんなこと有り得ない。だが、確かに今の男は…――ジルダは途端に胸を襲う激しい動悸に、とっさに息を深く吸い込んだ。しかし、速さを増す鼓動が大きく胸を打ち、再び呼吸が苦しくなる。
もう二度と会うことなどないと思っていた。そんな男が、なぜここに…!?
思わず体を捻じり、振り返ったジルダ。だが、それより先に男の手がジルダの胸元に向かって伸びていた。抵抗する僅かな間さえ無かった。胸元を掴まれたまま、あっという間にそばの小部屋へと連れ込まれる。それはほんの一瞬のことだった。抗う間すら与えられないくらいに。
扉が閉まる音と共に背中を壁に押し当てられ、ハッと目を見開けば、あの射るような鋭い瞳の鉄仮面が至近距離からこちらを見つめていた。
「……久しぶりだな、ジルダ」
懐かしささえ覚えるその声に、背がひやりと冷えるのを感じた。やはりそうだった。素顔がわからずとも、人並み外れた体格と鋭い目だけで思い出させる。こんな一瞬の間に自分を部屋に押し込めることができる者が、いるとすればこの世にたった一人だろう。この男以外に、有り得ない。
「なぜ、あんたがここに…?」
怪訝な様子で尋ねたジルダに、男は鉄仮面をそっと外した。薄気味悪い笑みを浮かべるその男に、押し込めていた記憶が次第に蘇っていく。自然と体が強張り、全身の血が逆流していくような感覚がした。
「出世したなぁ、ジルダ。片田舎のガキだった頃とは全く違う」
「………」
「泣き虫小僧が、今や天下の近衛連隊の副官様とはな」
「……あんたこそ、何でここに?」
顔を歪めたジルダに、男はククッと低く笑った。
「そうだな。同じ王都にいれば、いつかは知れてしまうことだ。俺の正体も、何もかも」
「あんたは一体、何者なんだ?」
「俺は本来、このエミール家に家令として仕える者。そして同時に、エミール家当主の命令を遂行する者。そこまで言えば、わかるだろう?ジルダ」
「……何、だと?」
ジルダは目を見張った。……そうだったのか。そういうことだったのか。これでやっと、点と点が繋がった気がする。この男の正体が、宰相家であるエミール侯爵家の家令…?ここで顔を仮面で隠すのも、そういうことか。俺が今までしてきたことも、歩んできた道も。全てがわかった気がした。
「シオン。そういうことだったんだな…」
久しぶりに口にしたその名の響きは、なぜだか冷淡としていた。
そう、この男こそ俺を救い、ここまで導いた恩人であり。同時に、俺の人生を奪い、狂わせた男。幼き日、この男と契約を交わしたその日から、俺は悪魔になった。血塗られた人生の始まりだったのだ。
この男こそ、俺に人を殺す術の全てを教え、この世を生き抜く術を教えた、唯一の師なのだ――……




