イリオスの迷い
「シオン、どこに行っていた?」
エミール家の城に戻ったシオンは、普段誰も使わない城の裏口から部屋へ戻ろうとしていた。誰もが寝静まった真夜中。廊下を忍び足で歩いていたシオンは、背後から歩み寄ってきた主の声に振り返った。誰にも気付かれないようにと、夜中に城を抜け出したというのに。侮れない次期当主の鋭さに思わず苦笑した。
「イリオス様、起きておいででしたか」
「問いに答えてくれ、シオン。私を欺こうとしてもそうはいかない」
「……さすがは私の主。すべてお見通しということですか」
シオンはしぶしぶ自室のドアを開き、イリオスを中へ招き入れた。
「で、あの男の元へ何をしに?」
「見抜かれていましたか。…しかし、まだ何もしてはおりません。ただ、少し警告を」
「警告?」
「ええ…。やはり、このままにしてはおけないのです。あの暗殺者を育ててしまったのは他ならぬ私。始末はこの手で付けなければ」
シオンは黒い手袋に覆われた自分の手をグッと握りしめた。
「先日の舞踏会の夜、バシュレーと顔を合わせました。王都にいる以上、会わないとは限らない。だから、潔く私の身元を明かしたのです」
「では、黒幕が我がエミール家だということも?」
「ええ、知られました。しかし、あの者を手放した時、私の算段ではいつか後継者にと考えていたのです。やがて世の中の道理がわかるだろう、叶えようのない野心など捨ててくれる。そう考えていたが間違いでした」
「後継者にするのを諦めていたわけじゃなかったんだな…?」
「ええ、少なくとも舞踏会の夜までは…。しかし、望みは全て打ち砕かれました。このまま生かしておくのは危険です」
「それは…殺すということか?」
低い声で問いかけたイリオスの瞳の中に、悲しみの色が宿った。才能に溢れた次期当主は、それでもやはりまだ若い。誰かの命を奪うということに、抵抗があるのは当然だ。無論、情けだけでは宰相も当主もやっていけない。感情と自分が為すべき使命は別物として考え、決断せねばならないのだ。しかし、非情なばかりの人間であるのも困る。上に立つ者には、そのバランスが大切なのだ。イリオスならばきっと時間が解決してくれるだろうと、シオンは思っていた。
「イリオス様、私はあなたの命令によってのみ任務を遂行します。どうかお命じください」
「待て、シオン。他に方法はないのか?」
「あるとすれば、やはりエミール家に仕え、暗殺者として生きることのみ。しかしあの男はそれを良しとしないのです」
「少しも望みはないのか?」
「残念ですが」
イリオスは肩を落とした。頭の中をふと、ロザリーの顔がよぎる。彼女が心を寄せる相手は紛れもなくあのジルダ・バシュレーだ。あの男の命を奪ってしまえば、彼女を悲しませることになる。そう思うと、どんなに危険だとわかっていても憚られるのだ。
だが…彼女は恐らくは知らない。あのバシュレーがどんな男か。どんな過去を背負ってきたか。それを思うと、彼女を憐れにも思う。到底結ばれることなどあり得ないのだから、彼女があの男を思えば思うほど、幸せには程遠い人生を歩むことになるだろう。
「……シオン。少し考えさせてはくれないか?」
「しかし、イリオス様」
「たとえおまえに命令を下したとして、必ず成功するという保証はあるのか?相手は最強の騎士だ。おまえは確実にあの男をやれるのか?」
シオンは押し黙った。あの男を殺せるとすれば、自分以外にはいない。しかし、あくまで殺せたらの話だ。並みの強さではないことは、誰よりもわかっている。もしかしたらこちらがやられるかもしれない。まさにそれは自分でも危惧していたことだったのだ。
「シオン。当主になる前に、おまえを失ってしまうのは私としても困る。早まらないでくれ」
もっともだと思った。後継者の目処が立っていない今、慎重にならざるをえない。自分よりもずっと冷静な主の判断に、シオンは何も言えなかった。
頭脳明晰なイリオスでさえ、さすがに容易には決断などできなかった。ジルダ・バシュレーをこちら側に取り込むことができれば、エミール家にとってそれは大きな力になるだろう。しかし、彼は簡単に手懐けられる相手ではない。それに、シオンがどれほど腕が立つかも自分にはわからない。誤った判断をしてシオンを失うわけにはいかないのだ。それに…。
ロザリーのことが絡むと、正直、正しい判断ができるかどうか自信がなかったのだ。あの男と共に、これからどう生きていくつもりなのだろうか。ディノワール将軍家の娘がまさか、地方の子爵家に嫁ぐなど現実的には考えにくい。結婚は諦める他ないだろう。他人の幸せを自分のものさしで推し量る気はないが、彼女がそれでもバシュレーを選ぶとすれば、もう伯爵令嬢としての真っ当な人生を歩むことはできない。何より、愛する相手が暗殺者だという真実は、あまりに惨すぎる。
イリオスは自分の中に醜い欲望が生まれるのを感じていた。ジルダ・バシュレーを葬り去れば、ロザリーを手に入れることができるかもしれない。人間とは浅はかな生き物だ。自分の欲望のために、何もかも正当化しようとする。幼い頃から優秀だ人格者だと褒めそやされてきた自分とて、自らの欲望のために汚い画策をしようとしているのだ。イリオスは必死になって、そんな自分を押し込めようとしていた。一番に考えるべきは、エミール家の繁栄とこの国の安寧。それを間違えてはいけないのだ。
思い悩み、答えを出せないイリオスだったが、さらに大きな問題が襲っていたことを彼が知ったのは、その翌日のことだった。
「何…!?王女誘拐予告が出された!?それは誠ですか!」
珍しく声を張り上げたイリオスに、父であるマルクスもまた沈痛な面持ちで頷いた。それは、王女が隣国の王子との婚約を発表したと同時の事であった。
アストラス王国はかつてから北方の盗賊の存在に悩まされ続けてきた。それが勢力を拡大していく今、彼らが近隣の他国と手を結び、この国を本格的に侵略するという可能性がないわけではなかった。それを未然に防ぐべく、北に隣接する国との友好関係を結ぶことが急がれていたのだ。フローラ王女とその国の王子との結婚は、アストラス王国にとって防波堤となるものだった。
しかし、正式な婚約が発表され、近々王女がお披露目を兼ねた顔合わせのために北の国へ向かうことが決まった頃だった。ザクレスの盗賊の一派が、王女に対する誘拐予告を出したのは。それは他ならぬ、レジーヌでの一件への報復を意味するものだった。
「王室宛てに文書が届いたのだ。皆殺しにされた仲間のための報復だと」
「先に仕掛けたのは向こうではないですか。何と浅はかな…」
「報復とはいえ、恐らくは金目当てだろう。どちらにせよ、これでは王女殿下のご訪問も中止せざるを得ない。殿下の身に何かあれば、せっかく私が苦労してまとめた縁談も水の泡だ」
王女の縁談は宰相であるマルクスの外交努力の賜だった。それゆえ、何としてでも無事に王女を妃として迎えて貰わなくてはならない。しかし、このままでは砦となるべき施策が意味をなさない。もしかしたらそれよりも先に手を打たなければならない時が来たのかもしれない。
「王女殿下のお輿入れまでに、奴らを討つべきかもしれぬ」
「そのようですね。悠長にはしていられません」
今やるべきことが何か、イリオスにはわかっていた。この国の平穏も、エミール家の運命も、全て引き受ける覚悟はもうできていた。
「父上、私にお任せいただけないでしょうか。早急に軍との協議の上、策を練ります。今度こそ奴らを根絶やしにしてみせましょう」
明瞭な声でそう言い切った息子の顔が、父には頼もしく思えた。もう全て任せても、イリオスならばしっかりとやり遂げることができるだろう。きっと自分らしく、良い国を作ってくれるはずだ――マルクスはこの危機的状況でさえ楽しみに思えるほど、息子の頼もしさに感服していた。




