ジルダの嫉妬
宴も終わり、離宮の広い浴室で汗を流したロザリーは、与えられた客室の窓辺でぼんやりと月を眺めていた。
今夜は何だか気分がいい。イリオスという貴重な友人を得たからかもしれない。嬉しさのあまり少し飲み過ぎたようで、まだ体の火照りが鎮まらない。
何か冷たい物が飲みたい――そう考えたちょうどその時。部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「隊長、明日の予定について確認したいことがございます。よろしいですか?」
ジルダの声だった。入室を許可すると、ジルダはグラスとポットを手にして中へ入ってきた。
何とタイミングのいいことだろう。喉が渇いたと言わずして、こうして持ってきてくれるなんて。さすがは優秀な副官だ――ロザリーは気分が良くなり、ぎくしゃくしていたことなど忘れて、急ぎ足でソファに腰をかけた。
「今宵は少し寝苦しそうですね。冷たいハーブティーはいかがですか?」
「ちょうど飲みたいと思っていたところだ。ありがとう」
ジルダは慣れた手つきで茶を用意し、グラスに冷えたそれを注いだ。
「王女殿下が明朝、レジーヌの市街地へ行って商店を巡りたいと仰せです。いかがいたしましょう?」
「市街地か…。今のところ治安はどうだ?」
「問題ありません。なるべく腕の立つものを護衛に付け、短時間にしていただければ」
「わかった。そうしよう」
返事をしながら、冷たいハーブティーを喉に流し込む。火照った体にこの冷たさが何ともいえず心地がいい。ソファの背もたれに体を預け、好物の茶を堪能していたロザリーだが、その様子をただ黙ってじっと見ているジルダに気付き、首を傾げた。
「どうした?バシュレー」
「……隊長、随分と酔っておいでですね」
「酔ってなどいない。これくらの酒は何とも――……」
言葉も途中に、突然手の平からグラスが奪われた。ハッと見上げれば、そこには取りあげたグラスを手に仁王立ちをしてこちらを見下ろすジルダがいた。その目はなぜかひどく冷たく、ロザリーは恐怖に背筋が凍っていくのを感じた。
「バシュレー?何を…」
「楽しそうに話しておいででしたね。あのイリオス様と」
「は…?楽しそうにって…」
「あんなふうに楽しげな笑顔をされたあなたを見たのは、初めてかもしれません」
まるで感情を持たない人形のように、生気を失った目だった。凍てついたその視線を向けられるだけで、息を止められてしまいそうな気にさえなる。しかし、怖いのになぜか、ロザリーは目が離せなかった。まるで金縛りにあったかのように、呼吸さえ忘れて見入ってしまったのだ。ジルダの恐ろしいほどの形相に。
「もしかして、絆されてしまいましたか?」
そう言ってジルダは身を屈め、ソファの前に膝立ちになった。正面に迫った灰色の瞳が、じっとロザリーのエメラルドを覗き込む。とっさに目をそらすが、今度はジルダの手がそっとロザリーの頬へ伸びてきた。
「あれだけの美しい男ですからね。心を惑わされるのも無理ない」
冷たい手の感触が、頬を這うように撫で上げる。途端にロザリーの体に走ったのは、あの甘い感覚だった。
「バシュレー…?何を……」
「怖がる必要はありません。体の火照りを鎮めて差し上げるだけです」
そう言ってジルダは、舐めるようにロザリーの体を見回した。途端に色を孕んだジルダの眼差しに、ドクンと大きく鼓動が高鳴る。服を着ているというのに、まるで裸を見られているような気さえした。
そんなロザリーの心の中を見透かしたかのように、ジルダは視線を合わせたままグラスに口を付ける。露わになった喉仏が、やけに艶めかしい。そんなことをぼんやりと思っていたら、突然乱暴に顎を掴まれ、唇を奪われた。
「……ッ……!?」
頭の中が真っ白になった。重ね合わせられた唇が無理矢理にこじ開けられ、生温かい液体が流し込まれる。口内に広がったハーブティーの風味にハッと我に返ったが、もう遅かった。
「美味しいでしょう?隊長」
「なっ…おまえは、いったい何を…!」
「あなたのお気に入りのハーブティーじゃないですか。ちゃんと味わってください」
そう言ってまたロザリーの後頭部を掴み、唇を塞いだジルダ。抵抗を試みるロザリーの腕を抑え込み、無理矢理に口付ける。角度を変えて何度も重ね合わせた唇の間に、今度はジルダの舌が捻じ込まれた。
「ふっ…あ、ァ…や、っ…」
生温かい舌の感触に、思わず体が震えた。差し入れられた舌は縦横無尽に動き回り、歯列を丁寧になぞる。その感覚が気持ち悪く、何度もジルダの胸を押す。しかし、そんな自分の意志とは正反対に、重ね合わせた唇からじわりと体の奥へと広がっていくのは、痺れるように甘い感覚だった。
「隊長、よく覚えておいてくださいね。私の味を」
味などとうにわからなくなっていた。部下であるはずの男にこんな辱めを受けているのかと思うと、ゾッとする。それなのに、どうしてだろう。ふわふわと体が浮いているような気分だ。極上の甘い毒が体中に回ってしまったような感覚に、どうしていいのかわからなくなる。嫌なのに。逃げたいのに。なぜか体は動かない。このまま身を委ねて、真っ白になってしまいたいとさえ思ってしまう自分がいる。
必死に抗おうと、震える手でジルダの上着を掴む。けれど、そんなロザリーの目に飛び込んできたのは、思いのほか切なげな顔をした男の表情だった。
「いい加減、わかってください。私だって余裕がないのです」
いつもと違う、どこか切羽詰まった声色に、ロザリーはハッと抵抗を止めた。見つめた先に、いつものポーカーフェイスはどこにもなかった。
「バシュレー…?」
こんなに辛そうなジルダの顔を見るのは初めてだった。長い睫毛が下を向き、うつろな瞳がユラユラと頼りなく揺れている。どんな時だって無表情で感情表現の少ない男だから。こんなにも弱々しく、今にも泣きそうなくらいに苦しそうな顔をしているジルダを見るのは珍しいことだった。まるで幼子が母にすがるような顔で、なぜだか居たたまれなくなる。しかし、次の瞬間。動揺したロザリーの隙を狙ったかのように、ジルダはロザリーのズボンに手をかけた。
「やっ…バシュレー!?何を…!?」
力づくで両腕を抑えつけ、ロザリーのズボンを手早く脱がせる。そして、露わになった下着さえも剥ぎ取り、たちまちロザリーは上半身にブラウスを羽織っただけの情けない姿にされてしまった。
「バシュレー、やめろ!人を呼ぶぞ!」
「お呼びになればいい。それで私が止められるのなら」
そう言ってこちらに向けられた視線に、ロザリーは声を失った。先ほどの表情とは打って変わって、凍てつくような恐ろしい目だった。言うならば、ただ見ただけで人を殺しかねない。きっとその視線を向けられただけで、並みの人間ならば足がすくんでしまうだろう。殺気立ったその眼差しに、脳内が警鐘を鳴らしている。今の状態では、この男は何をしでかすかわからない。他の人間を巻き込むことはできない。ロザリーは何もできず、頬を赤らめながら唇を噛みしめるしかなかった。
いい気味だと、組み敷いた女を見下ろしながらジルダは思った。上官と言えど、やはり女だ。覚え始めた女の悦びを、自分の手で如何様にも操れる。思いのままに乱れさせることができるのだ。そう、自分の手で。この女性をこんな表情にさせられるのは、自分だけ。そう思うと優越感が湧いてくる。しかし同時に、悲しくもあった。イリオスに向けられていたあの純粋な笑顔は、きっと永遠に自分には向けてくれないのだと思うと、たまらなかった。
あのイリオスという男はきっと、自分とは正反対だ。出自も育ちも恵まれ、人格も能力も容姿でさえも、圧倒的に他を凌ぐ。まるで生まれながら神々に愛された特別な存在だ。卑しい自分とは違う。その気になれば、あらゆる意味でロザリーを自分のものにできるのだ。何の後ろめたさもなく、堂々と彼女を自分のものにできるのだ。そう考えると、絶望に目の前が真っ暗になった。
「どうしたのです?さぁ、人をお呼びください。でなければこのまま私に辱めを受けてしまいますよ。それとも、続けてほしいですか?あのクリスティーナ嬢のように」
「なっ…何を…!?」
「覗き見ておられたことくらいわかっていますよ。私が彼女にしたことを、同じようにあなたにしてさしあげましょうか?気が遠くなるくらいに濃厚な快感を、与えてさしあげましょうか?」
ジルダはわざと屈辱的な言葉を選び、挑発的に言った。そう、きっとプライドの高いロザリーのことだ。どれほど悔しく惨めな思いをするか、想像に容易い。腹を立てて、拒絶してくれ。この腕の中から逃れ、自分を追い出してくれ。顔も見たくないと罵り、憎んでくれ。いっそ殺されてもいい。このままでは止められない自分を、無理矢理に奪ってしまいそうになる自分を、あなたの手で止めてくれ――ジルダは切に願い、唇を震わせるロザリーを見下ろした。涙目でこちらを睨むその顔が、明らかに歪んでいく。それでいい。たとえ自分に向けられるのが負の感情であれ、彼女の唯一であれば満足だ。
いっそ清々しい気分のジルダに、しかし、返ってきた言葉。
「私に誓った忠誠は、全部嘘なのか?」
「え……?」
「許さない…。私以外の女に、その手が触るなど…絶対に許さない…」
それは、予想さえしないものだった。




