友情の杯
本格的な夏が来たと同時に、フローラ王女はレジーヌに出立した。ロザリーが率いる近衛連隊の騎士たちが王女の馬車を常に取り囲み、見通しのきく広い道を選んで通るなど厳重な警備を引いていたが、思いのほかトラブルもなく一行は順調に進んでいた。長い旅もようやく折り返し地点。日没までにはレジーヌの離宮に着くだろう。少し安堵し、次の休憩地点への道筋を頭の中で考えていたロザリーの隣に、ジルダの乗った馬が近付いてきた。
「隊長、なぜ我々と共にイリオス・エミール様が付いていらっしゃるのです?」
「ああ…イリオス殿は北の領地の視察に向かうようで、そのついでにご一緒することになったんだ。行程も同じだからな」
「ですが、あのような仰々しい私設部隊を引き連れてくるのは不思議ですね。たかが視察だというのに」
「まぁ…確かに」
ジルダの言う通りだ、とロザリーは思った。視察に行くぐらいでこんな大勢の部隊を引き連れていくのは珍しい。それとも、王女殿下と同行するためだろうか。だとすれば、まるで近衛連隊が頼りないと言われているようだ。
「今夜はイリオス様も離宮で休まれるのですか?」
「そうする予定だと聞いている。フローラ様がどうしても泊まって行けとおっしゃったらしい。イリオス殿は王女殿下のお気に入りのようだからな。あの方はたいそうな美丈夫好きでいらっしゃるから」
ロザリーは嫌みたっぷりにジルダを睨みつける。そんな上官の意地悪い視線をサラリと交わしながら苦笑したジルダは、しかし、未だ違和感を拭えなかった。
普通ならそこまで深刻に考える必要はないだろうが、なぜだか変な感じがする。何が、と言われると困るが、敢えて言うなら“勘”だろう。たくさんの修羅場を潜り抜けてきた剣豪だ。経験で培った危険に対する嗅覚が働いているのかもしれない。何も起こらなければいいが、心づもりはしておくべきかもしれない――ジルダはそう考え、後方に連なるエミール家の部隊を遠目に見つめていた。
やがて日没を迎える頃、王女の一行は無事に離宮に到着した。腹を空かせた騎士たちのために、離宮の使用人たちがすでにご馳走を用意してくれている。近衛連隊とエミール家の騎士たち一行は、そろって宴の準備がされた広間へと通された。
「皆、お疲れさまでした。今夜はどうぞごゆるりと寛がれるように」
フローラ王女はにこやかに微笑み、杯を掲げた。
「無事に到着して良かったですね、ロザリー殿」
そう言ってロザリーの隣に腰掛けたのはイリオスだった。さすがは“微笑みの貴公子”だ。相変わらずの美しい笑顔に、ついこちらまで頬が緩む。しかも、とてもよく気が利く。「どうぞ」と、ロザリーの手にした杯に、使用人よりも先に酒を注いでくれるものだから、慌ててこちらも酒の瓶を手にしたが。にっこりと微笑まれ、その手を制された。
「ロザリー殿はいつまでこちらに?」
「しばらく滞在したら、一旦王都へ戻る予定です。フローラ様のことは心配ですが、執務も立てこんでいるので。留守中は部下に任せます。イリオス殿は?」
「私はこの近くの町で用がありますので、しばらくは王都には戻りませんが。時折この離宮には足を運ばせていただきます。その方が、あなたの心配も和らぐでしょう?」
全く気の抜けない男だと、ロザリーは思った。これほどの美丈夫で気立てまでいいとなると、女も放っておかないだろう。まだ独身だということが不思議なくらいだ。
「イリオス殿は、なぜ結婚されないのですか?」
つい出てしまった言葉に、ロザリーは慌てて自分の口を塞いだ。何と失礼なことを言ってしまったのだろう。思ったことをすぐ口にしてしまう自分の性格が憎い。
「も…申し訳ありません。プライベートなことを」
「いいえ、構いませんよ。よく言われるのです。嫁いで来てくれる女性が未だ見つからず、婚期を逃した寂しい男です」
「そんなことはないでしょう!イリオス殿ほどの方ならば、いくらでも女性が寄ってくるはずです」
「そうだとすれば、今頃とっくに結婚していますよ。そうおっしゃるロザリー殿は?」
「えっ?私?」
「結婚をお考えではないのですか?」
ロザリーは目を丸くした。結婚など、考えたこともない。そんなこと聞かれたこともない。当然、諦めているものだと皆思っているはずなのだから。
「け…結婚など、私は全然…」
「では、心に決めた男性も?」
「いるわけないでしょう。私は騎士になった日から、女であることを捨てた身です」
「なぜです?なぜ女であることを捨てる必要があるのですか?」
「えっ…?」
首を傾げるイリオスに、ロザリーは唖然とした。言っている意味がわからなかった。だって、明白だろう。騎士になったような女など、誰が女として見てくれるだろう。結婚どころか、誰かに愛してもらえるなどと毛頭思っていないのに。
「あなたは素敵な女性です。結婚も、女であることも、どうして諦める必要があるのですか?」
「どうしてって…誰が私のような者と結婚などしたがるのですか。私は世の女性のように、嫁いで夫に尽くし、子供を育てる生活を望んでいるわけではない。大人しく家に納まる女ではないのです。だから、結婚を諦めてこの国に身を捧げる決意をしたのです」
「では、両方諦めないでいればいいのではないですか?」
「……は?」
「隊長としての任務も妻としての務めも、望むのならば両方成し遂げればいいこと。男と同じように、妻でありながら軍人でもあるという人生を選べばいいのではないですか?」
「そ、そんなこと不可能でしょう?隊長として従軍しておきながら、誰かの元に嫁ぐなど…。そんなことを許す男性などいるはずがない」
「私は構わないと思いますよ、ロザリー殿。妻となる女性が誇るべき職務に就いているのなら、それはむしろ喜ばしいことです。使命感の強い女性ほど美しいものはない。私ならば応援します。それに、女性だって男性と同等であるべきだ。そうは思いませんか?」
平然と言ってのけたイリオスに、ロザリーは心底驚いていた。こんな革新的な物の考え方をする人間に、今まで会ったことがなかった。しかも、由緒正しき侯爵家のご子息が、まるで伝統や慣習を打ち砕くような考えを持っているなんて、信じられない。ロザリーはイリオスの器の大きさに感服した。
常識に囚われず、物事を見ることができる。きっと彼ならば、将来立派に宰相を務めあげることだろう。これほどの人物に出会えたことが嬉しくてならず、ロザリーは少し興奮したように目を輝かせた。
「どうせならば私と一緒になりますか?」
「はっ!?」
「寂しい者同士、気が合うかもしれませんよ」
悪戯に笑ってみせたイリオスに、思わず吹き出してしまったロザリー。ユーモアがあるのはいいが、これは天然の女たらしだとロザリーは心の中で思った。
「全く、あなたには参りました。イリオス殿」
思わずクスクスと笑ってしまったロザリーを見て、イリオスはどこかほっとしたように穏やかに微笑んだ。
「良かった。あなたの笑顔が見れて」
「えっ?」
「あまり笑わない方だと思っていたけど、そうじゃないんですね。常に緊張感を持って任務に当たっているから、笑えないだけで。こうして私に笑顔を見せてくださっているということは、少しでも気を許して貰えているのだと喜んでもいいですか?ロザリー殿」
なぜだか頬が熱くなった。この人と一緒にいると、どうも調子が狂う。こんな風に女心を絶妙にくすぐるなんて、わざとでなければ恐ろしい天性だとロザリーは思った。
だが、きっとこのイリオスという男は信用ができる人物だ。人格も優れているし、何より価値観が共有できる人だと思う。心を許すことができる数少ない友人になれるだろうという予感がした。
「あなたとは仲良くなれそうな気がします、イリオス殿」
「それは嬉しい限りです」
二人は微笑みながら、杯を交わした。
――しかし、ロザリーは気付いていなかったのだ。仲睦まじ気に微笑みあう二人を、刺すような鋭い視線で睨んでいた男の視線に。




