無自覚という罪
「はぁ?私が誰を贔屓しているって?」
夕暮れ時の執務室に、ロザリーの呆れ果てたような声が響いた。いつも通り任務を終え、家路につこうとしていたその時だったのだ。いつにもまして氷のように冷たい表情をしたジルダが、まるでロザリーの行動を咎めるように苦言を呈したのは。
「ですから、あの若い騎士です。随分とお気に召されているようですね」
「それの何が悪い?確かにあの子を気にかけているのは事実だ。でも、贔屓じゃない。練習熱心で向上心の高い者の力になってやることの何が悪いんだ?」
「悪いというわけではありませんが、度が過ぎる可愛がり方はいかがなものかと申し上げているのです。他の者の目もありますし、本日のようにあの者にべったり付きっきりというのは…」
「仕方がないだろう。ああして熱心に教えを請われたら、とことん付き合ってやりたくなるのが上官の心理というものだ」
「ですが、ご注意なさいませ。部下とはいえども、相手は若い男です。近付きすぎるのは禁物。油断だけはなされぬよう」
「……おまえ、何を言ってるんだ?」
淡々と嫌みを言い続けるジルダの言葉を遮るように、ロザリーは呆れ果てた様子で声を上げた。この男は何を言ってるのか。ただの部下に対して油断をするななどと、全くもって理解ができない。いくらなんでも深読みしすぎだ。本当に、一生懸命な部下をただ可愛がってるだけに過ぎないというのに。
「バシュレー。それは自意識過剰だ。一定の距離は保っているつもりだし、男だからといっていちいち気にしていたら隊長など務まらない。私は自分が男になった覚悟で任務を遂行しているし、皆もそう思っているはずだ」
「隊長、あなたという人は…」
どれほどおめでたい思考回路をお持ちなのだろうか――ジルダは鼻をならしてせせら笑った。この上官はどうも考え方がずれている。置かれている状況も、自分が周囲に与える影響の強さも、全く持ってわかっていない。男になった覚悟だと?甚だ呆れる。男ばかりの集団の中で、唯一大輪の花を咲かせるあなたの存在が、どれほどに輝かしく芳しくその匂いを放っているのか。少しは自覚してほしい。
「バシュレー?」
途端に表情を変えたジルダが、不気味な笑みを浮かべながらロザリーの方へと歩み寄ってくる。滲み出る雰囲気は仄暗いのに、どこか不思議な色香を感じる。そんな時のジルダがどれほど危険か、身を持ってわかっているロザリーは嫌な予感にとっさに後ずさりをした。
しかし、後方に逃げ場はなかった。気付けば執務室の片隅に追い詰められ、背中が壁にぶつかる。無言で歩み寄ってくるジルダは、そんな状況をむしろ楽しむかのようにゆっくりと距離を詰め、そして壁に手を付いた。
「どうすればお分かり頂けるのでしょうか、隊長」
見上げれば、困ったように眉を下げるジルダの顔がすぐ目前にある。これはさすがにやばいと、ロザリーの脳内が警告を発した頃には、時すでに遅し。壁に両手を付き、筋肉質な腕がロザリーをすっぽりと囲い込んでしまっていた。
「あなたは利口な方ですから、ちゃんと自覚していると思っていました。でも、まだ分からないようですね」
「バ、バシュレー…?」
「皆、女としてしか見ていない。そのことをわかっていないのは、あなただけですよ」
チクリと喉に痛みが走ったことに気付いた時には、もう遅かった。見下ろせば、自分の首筋に顔を埋めるジルダの姿があった。漆黒の髪が肌を刺激し、熱い唇の感触が余計に全身を粟立たせる。抵抗を試みるには遅すぎた。頭の上でがっちりと抑えつけられた両の腕はビクともせず、直後に訪れた激しい痛みに声さえ出せなかった。
「…っ……――!」
ロザリーの白い喉仏に立てられた歯が、薄い皮膚にめり込む。噛みつかれたという痛みと恐怖に頭が真っ白になりながら、裏腹に体を襲ったのは甘い感覚だった。息の根を止められるかと思った。容赦なく襲う牙に、皮膚を裂かれるかと思った。それなのに、なぜか体の一番奥の方から湧き出てくる新たな感覚。それはもどかしく、なぜか切なくて。ゾワゾワと這うように体を昇ってくる熱に、思考が呑み込まれそうになる。
「ほら、体はちゃんと覚えているじゃないですか。私が与えた快楽を」
そう、覚えていた。悔しいくらいに刻み込まれていた。この肌を這う指先も、熱い舌も。寄せては返す波のように、理性を溶かす甘い感覚も。一度咲き始めた女の悦びは、もう後戻りできない。受け入れるしかないのだ。体は確実に、女になっていることを。
「あなたは罪な女性だ。残酷なくらいに」
無自覚というものほど、罪な事はない――ジルダは怒りを覚えていた。思い知らせてやりたかった。男がその気になれば、いくらでもこうして組み敷くことができる。理性をうまくコントロールできる者ばかりではない。どうしても欲しいと思えば、力づくでも手に入れようとするのが男という生き物だ。血気盛んな騎士ともなれば、なおさらだろう。そんな危機感を抱くことのないロザリーに、ジルダは苛立ちをぶつけるかのように牙をむいた。
ロザリーが食らいつかれた首元に気を取られている間に、軍服のボタンを外し、上半身を剥く。膨らんだ二つの丘を締め付けていたさらしを全て取り除く頃には、ロザリーの首筋には花が散らばるように赤い印がいくつも咲いていた。
「やッ…やめろ!バシュレー!」
悲鳴のような声を上げるロザリー。しかし、抵抗されればされるほどに、歯止めが利かなくなる自分の性に苦笑した。暴れる体を抑えつけ、すかさず唇を奪う。無理矢理に重ね合わせたその柔らかさに、目眩さえ覚えた。
「もっと、続けてほしいですか?」
「いっ…嫌、だ!やめ、っ…は、あっ…」
否定なんてしなくていい。そんな言葉聞きたくない。塞いだ唇から、それ以上抵抗の声など上げられないようにキスを続けた。最初こそ歯を食いしばり固く閉ざしていた唇は、しかし、次第にジルダを受け入れるかのように力なく開いた。甘い責めが、理性を奪う。それでも最後の抵抗を示すようにジルダの腕をギュッと掴みながら、ロザリーは悩ましげに眉を寄せた。
「随分と気持ち良さそうだ」
ジルダは堪らずほくそ笑んだ。蕩けたような目をした彼女の体の線を辿る。ジルダの手が触れるたびに、面白いほどにロザリーの体がビクビクと跳ねた。
どうして?嫌だ。こんなの望んでいないのに。けれど、体がふわふわとして全身から力が抜けてしまう。唇が、ジルダの触れる所、体中全てが、甘く痺れるような感覚に襲われた。
「や…やめ、…ッ…それ、以上はっ…」
「嘘付きですね。拒んでなんていないでしょう」
「違うっ…!これは、おまえが…ッ…ふ、うぅん…っ!」
「そんなに気持ち良さそうな顔をしていたら、どちらがあなたの本心かわからないじゃないですか」
間近にあるジルダの甘い笑顔に、ロザリーは耐えきれず顔を背けた。悔しいけれど、当たってる。嫌なはずなのに、気持ち良い。ジルダの手も、唇も、憎らしいくらいに甘くて。望んでなどいないのに、勝手に体が声を上げる。そんな自分がたまらなく情けないと同時に、不思議で仕方がなかった。
「いっそ強請ってみてはどうですか、隊長」
「嫌だっ…!そんなの、私…はっ…ッ…」
「でしたら、抵抗してください。そうじゃなければ、止められない」
そんなことはわかってる。これ以上は危険だと自分でわかっているはずなのに、どうしてかロザリーは抵抗をしなかった。
言葉では拒絶しながら、どうして抗わない?このまま犯されてもいいのか?――ジルダは途端に不安になり、ロザリーの瞳を覗き込んだ。
「隊長、嫌なら抵抗してください。お願いですから」
ロザリーは涙を溢れさせながら、ただ唇を噛みしめるだけだった。抵抗できないのか。それともしないのか。その真意がわからず、戸惑う。あからさまに拒絶された方が、かえって楽だったのに。
「抵抗しないのなら、この先を望んでいると、そう解釈してしまいますよ。いいのですね?」
頼むから首を振れ。でなければ、都合良く考えてしまう――そんなジルダの切なる願いにさえ答えることなく、ロザリーは赤らめた頬をそのままに顔を背けた。潤んだエメラルドの瞳が、ひどく美しい。欲に塗れた自分の行為が浅はかに思えるほどに、澄んだ色をしていた。
この美しい女性を前にすると、わからなくなる。自分がいったい何を求めているのか。何がしたくて、何を考えているのか。
奪いたいのか、与えたいのか。壊したいのか、守りたいのか。憎らしいのか、愛おしいのか。常に冷静を保ってきたはずの自分の思考回路が乱れ、壊されていく。グチャグチャになった頭の中で、目の前に震える彼女の姿をどう捉えていいかわからなくなった。
混乱していた。入り乱れた複雑な感情が、自分の信念を壊していくようで、途端に怖くなった。
今まで、強烈な何かに支配されるような感覚になどなったことはなかった。感情的になることも、何かに心を乱されることも。恋だの愛だの、取るに足らない不安定な感情になど、揺さぶられることはなかった。憎しみや恐怖にさえ、我を忘れることはなかった。ただ淡々と感情を押し殺し、何物にも心を乱されない自分でいること。それが強さへの近道であり、生き抜く術だったのだ。
それなのに、どうしてだろう。この女といると、自分がわからなくなる。自分の全てが覆され、否定された気分になる。何を望んだって意味のないことなのに。何を思っても刹那的な感情に過ぎないのに。不確かなものに身を委ねることなど、無意味だとわかっているのに。わかっていながら、どうして迷う?
俺はいったい、この女に何を求めているんだ?
動きを止めたジルダが我に返るまで、いったいどれほどの時間を要したのだろう。自分の頬に触れた生暖かい感触に、やっと思考が戻ってきた。頬を撫でるそれがロザリーの手の温もりだと気付いた瞬間、とっさに彼女の上から身を退けた。涙に潤んだロザリーの瞳が、まっすぐにこちらを見据えていたのだ。まるで心配でもするかのような顔だった。そこに一切の嫌悪も怒りもなく、ただ悲しげにこちらを見つめている。その瞳が、あまりに純朴で、美しくて。ジルダは何も言えず、彼女をひとり残して、静かに執務室を後にした。




