秘密の逢瀬と嫉妬
「はぁ……」
王宮の渡り廊下に、大きなため息が響く。あれから数日、ロザリーは未だジルダのことが頭から離れずもがいていた。
無理矢理に組み敷かれ、触れられた。しかも、自分の部下にだ。本気で抵抗しようと思えばできたはずだった。けれど、なぜかできなかった。どうして?――理由など、わかっていた。けれど、わからないふりをしていたのだ。認めてしまえば、頑なに守り抜いてきた自分のプライドがズタズタに切り裂かれてしまうような気がしたから。与えられた快楽に屈し無残にも男を求めてしまった、自分の女としての本性がただただ恨めしかった。
「あの…もしや、ディノワール連隊長様ではございませんか?」
宮殿を出ようとしたところで、ロザリーは背後から声をかけられ足を止めた。振り返れば、それは美しい少女がそこに佇んでいた。煌びやかな花柄の装飾が施された薄紅色のドレスに身を包み、手入れの行き届いた美しい金髪を結いあげた、華やかな顔立ちの少女。年齢はロザリーと同い年ぐらいだろうか、一つ一つの所作が洗練されていて気品があり、身に付けている物も一目でわかるほどに高価なものだ。
裕福な伯爵家のご令嬢といったところか。ロザリーは少女の全身を見渡し、そう判断したところで考え込んだ。どこかで会ったことがあるだろうか。会ったとすれば、これほど美しい少女ならば覚えているはずだろうに。頭の一番奥から記憶を引っ張り出そうと首をひねったロザリーだが、少女はドレスの端を摘まみ、丁寧に膝を折って挨拶を始めた。
「初めまして。私、クリスティーナ・バロンと申します」
そう言って微笑んだ少女に、ロザリーは胸を撫で下ろした。どうやら初対面らしい。無礼なことをせずに済んだとほっとしたロザリーは、改めてその少女の前に片膝を付いた。
「初めまして。クリスティーナ嬢。近衛連隊、連隊長のロザリー・ディノワールです」
さながら紳士のようにそっと少女の手を取り挨拶のキスをするロザリーに、クリスティーナは赤らめた顔を扇で隠した。このように振舞えば、それこそ男装の麗人だ。同じ女でも惚れ惚れするほどに、ロザリーには性別を通り越した美しさがあった。
「突然お声をかけてしまい、申し訳ございません。あの…ジルダ・バシュレー様のことなのですが」
赤く色づいた唇から零れ落ちたその名に、ロザリーは眉をひそめた。
「バシュレーが、何か?」
「あのっ…、そ、その……ジルダ様に、渡していただきたいものがあるのです」
もじもじと落ち着かない様子で、クリスティーナはロザリーに右手を差し出した。その手の中に握られていたのは、近衛連隊の証である百合の花の紋章のブローチだった。
「これは……」
「ジルダ様のものです」
「なぜ、あなたがこれを?」
「せ、先日お会いした時に…お忘れになられて……」
クリスティーナは顔を赤らめ、目を泳がせながらそれをロザリーに差し出す。その仕草がどうにも不自然で、ロザリーは首をかしげた。
近衛連隊の騎士は皆、必ず軍服の胸に飾っているものだ。それを忘れるとはどういうことなのだろう…。まさか、あの男…!
「直接お渡ししたかったのですが、なかなかお会いすることもできませんし。こうしてすれ違っても、周りに人がいることが多くて…。そ、その…人目のない場所で、お渡しした方がいいと思いますし…」
あからさまにうろたえるクリスティーナの態度に、ロザリーは確信した。おそらくは、逢瀬の時に忘れて行ったのだろう。そうでもなければ、常に身に付けておくべきものを外したりなどしない。全く、あの男は…。怒りも通り越して呆れる。よりによって、こんな物を忘れるとは。
しかし、困ったものだ。クリスティーナは恐らく、男に頼むよりは女である自分の方が頼みやすいと思って、こうして声をかけたのだろうが。私だって気まずいのは同じだ。できればこれは自分の手で渡してほしい――そこまで考え、ロザリーはハッと思い出した。今夜、この王宮でちょうど王女主催の舞踏会が開かれることを。
「クリスティーナ殿。今夜の舞踏会にはご出席なさいますか?」
「あ…はい」
「でしたら、そこでお渡しになればいい。王女殿下の護衛のため、私もバシュレーを引き連れて参加します。舞踏会の場であれば、会話をなさっていても誰の目にも不自然はないでしょう?」
ロザリーの提案に、パァッと表情を明るくしたクリスティーナ。紅潮した頬とキラキラと輝くその瞳を目にし、ロザリーは理解した。この少女もまた、あの男の毒牙にかかった哀れな娘なのだと。
「まぁ、そうなのですね!おっしゃる通り、舞踏会なら不自然ではないですわね。では、その時にお渡しすることにします。ありがとうございます」
そう言って小躍りで去って行く少女の背中を見ながら、ロザリーは思う。もしも自分が軍人としての人生を選ばなければ、あのように誰かに恋をして胸躍らせ、キラキラと輝いていたのだろうかと。
望んでいるわけではない。けれど、眩しいくらいに輝くあの少女を見ていたら、自分がひどく渇いた生活を送っているような気になってしまうのだ。そんなこと今まで一度も考えたことはなかったというのに。こんな迷いが生じてしまうのは、きっとジルダと出会ってしまったからなのかもしれない。認めたくはないが、ロザリーにはそれが悔しく、そして苦しくてならなかった。
日が沈み、宮殿の大広間は賑わいを見せ始めていた。軽快なワルツに合わせ、煌びやかに着飾った紳士淑女が踊る。昔から舞踏会の誘いを断固として避けてきたロザリーには、こういう空間は苦手で仕方ない。早く終わってほしいと願いながら仏頂面で王女のそばに寄りそっていたが、そんなロザリーをからかうように王女は言った。
「ロザリーったら、舞踏会の場に軍服で現れるなんて。せっかくだからドレスアップしてきたら良かったのに」
「御冗談を。私はあくまでフローラ様のお供ですよ」
「あら、ここは宮殿の中なのだし、今日は護衛なんて必要ないわよ。そばにいなくても大丈夫。何なら踊ってらっしゃいな」
「それは遠慮させていただきますよ」
苦笑するロザリーに、王女はハッと何かを思いついた様子で耳打ちをした。
「そういえば、バシュレー副官はどちら?」
「バシュレー、ですか?大広間の入り口付近に立たせていますが?」
「ロザリー。彼を呼んできてくださらない?私、一度お相手をお願いしたいわ」
少し照れたように頬を赤らめる王女に、ロザリーはやれやれとため息を吐いた。全く、今朝のご令嬢といい王女殿下といい、皆あの男を追いかけるのに忙しいことだ。なぜあの男ばかりが、と少し腹立たしい気もするが。王女の命ならば仕方がない。ロザリーはしぶしぶ了承し、ジルダを探しに外へ出た。
「バシュレーを見たか?」
入り口付近に控えていた騎士に尋ねてみるものの、皆揃って首を横に振る。辺りを見渡してみるが、バシュレーの姿はどこにもなかった。
「あの男、いったいどこにいるんだ?」
ロザリーはイライラした様子で渡り廊下を歩き、そばにある庭園へ足を延ばす。賑わう会場とは打って変わって静まり返ったそこには、人の気配はなかった。
仕方ない、と大広間へ戻ろうと踵を返したその時だった。
「…め、ください……」
誰かの声が聞こえ、ハッと足を止めた。振り返れば、庭園の茂みの向こうに何か動く影が見える。そっと足を忍ばせそこへ歩み寄れば、木のそばに寄りそう二人のシルエットが月光に照らされて浮かび上がった。
「あっ…いけません、こんな所でっ…」
やけに艶っぽい女の声に、ロザリーは慌てて足を止めた。暗闇で顔こそ見えないが、どうやら睦みあっている男女のようだ。こんな所でなんてお盛んなことだろうと呆れながら、気まずい思いで引き返そうとしたその時だった。
「探していたものを持ってきてくださり、ありがとうございます。本当に助かりましたよ、クリスティーナ殿」
聞き覚えのある声だった。いや、確実にあの男の声だった。もう一度足を止めてその方向に目を向ける。やはり、そうだ。木に女の背を押しつける大きな男の影。あの赤い軍服と漆黒の髪は、確かにあの男のものだ。
「そして、もう一つの探し物が見つかって良かった」
「えっ?何を探しておられたのです?」
「わからないフリをするのですか?あなたは何て罪な人だろう。こうしてあなたに会えたことがこんなにも嬉しいというのに」
鳥肌が立つくらいに甘い言葉を吐く、その猫撫で声にゾッとした。男は女の首元に顔を埋めながら、彼女の胸元を手で弄っている。時折聞こえる女の悩ましげな吐息に、何をしているのかがまざまざとわかった。
「あ、んっ…ジルダ様…ッ…!おやめください…」
「本当にやめていいのですか?クリスティーナ」
「意地悪おっしゃらないで…!」
「でしたら素直に感じなさい。でなければ、このまま連れ去ってしまいますよ」
「ああっ…ァ…!」
暗闇の中でも、何をしているかなど明白だった。男と女の交わり合う吐息と、甘い喘ぎ声。ロザリーは茫然と足がすくむのを感じた。
熱っぽい声で囁くジルダの声が、ダイレクトに脳内に響いてくる。その声が向ける先はクリスティーナだというのに、なぜだか自分の体が熱くなってくる。
自分の耳に囁いたあの声が。自分の体に注がれていたあの視線が。自分だけに触れていたあの指先が。自分とは違う、誰かに向けられている。その事実に吐き気がした。なぜこんなにも苛立つのかわからない。悔しさや悲しみが入り混じり、視界が滲んでいく。何よりも腹立たしいのは、クリスティーナを憎いと思ってしまった自分の愚かさだった。
なぜなのだろう。なぜこんなに振り回されなければいけないのだろう。あんなにも傲慢で、非常識で、不誠実で最低な男に。自分だけじゃなく、誰にでもああやって甘い言葉を囁けるような男だ。最初から嫌いだった。少しも惹かれてなどいなかった。信じてなどいるはずがなかった。それなのに…どうして、こんなにもショックを受けているのだろう。
こんな自分の感情にただただ驚き、戸惑い。いてもたってもいられず、逃げるようにその場を後にした。




