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10話 最悪の出会い

(^ν^)

はじまり、はじまり

術式の中心で揺れていた波紋が、大きく広がる。


一つ。また一つ。


静かな水面だったはずのそこは、ゆっくりと渦を巻き始めていた。


部屋の空気が震える。「……っ」


ヨナは思わず息を呑み、一歩後ずさる。

術式から目が離せない。


淡い光は少しずつ強さを増し、部屋全体を白く照らしていく。


カタカタ……


窓ガラスが小さく震えた。


魔導書は、ひとりでにページをめくり始める。


パララララッ――


「な、何これ……」


逃げた方がいい。

そう思うのに、足は動かない。

恐怖よりも、この先を見届けたいという気持ちの方が勝っていた。


やがて、術式の中心から何かが溢れ出す。

透き通った水のような流動体だった。


「水……?」

それは床へ零れることなく、術式の上でゆっくりと揺れている。


生きているように。

呼吸をしているように。


流動体は静かに漂いながら、一つの場所へ集まり始めた。


ヨナは無意識に魔導書へ視線を向ける。


最後のページ。

そこに書かれていた文字が頭をよぎる。


ーー精霊召喚術式。


「……本当に」思わず声が漏れた。


「成功したんだ……」返事はない。

ただ、水のような流動体だけが、静かに揺れ続けていた。


流動体はゆっくりと姿を変えていく。


波打ち。

伸び。

集まり。


一つの輪郭を描き始める。

ヨナは息をすることも忘れ、その光景を見つめていた。


怖い。


けれど、目を逸らしたくない。

目の前で起きている出来事が、美しすぎた。

最後の雫が音もなく溶け込む。

眩しかった光がゆっくりと収まり、部屋は静けさを取り戻した。


術式の中央には、一人の青年が立っていた。


長い黒髪。

黒を基調とした装束。

整った顔立ち。

その瞳は、まだ閉じられている。

まるで、ずっとそこに立っていたかのような自然さだった。


「……」ヨナは、ごくりと唾を飲み込む。


物語の中だけだと思っていた存在が、今、自分の目の前にいる。

静かな部屋に響くのは、自分の鼓動だけだった。


静寂。


術式の光がゆっくりと消えていく。

青年は目を閉じたまま、その場に立っていた。

身じろぎ一つしない。


ヨナは息を潜める。

話しかけるべきか。

それとも、ただ待つべきか。

迷っていた、その時だった。


「……最悪だ」ぽつり、と青年が呟く。

低く、不機嫌そうな声だった。


「えっ?」ヨナが思わず声を漏らす。


青年はゆっくりと瞼を開いた。

深い蒼色の瞳が、静かに部屋を見渡す。


壁、窓、机、椅子。


そして床いっぱいに描かれた召喚術式。


最後に、その視線がヨナで止まる。


「……」


「……」


沈黙。


青年はヨナをじっと見つめている。

頭の先から足元まで。


一度。

そしてもう一度。


まるで何かを確かめるように。

やがて、小さくため息をついた。


「……ガキか」


「え?」


「俺を呼んだの、お前だな」

「あ……う、うん」ヨナがおずおずと頷く。


青年は天井を仰ぎ、目を閉じた。「そうか」

「…終わったな」


「え?」


「いや」


「俺の話だ」肩を落とし、もう一度ため息をつく。

「せめて、もう少し魔術師らしい奴を期待してた」


ヨナは苦笑した。

「……僕、魔術師じゃないよ」


「……」青年が黙る。


「雑貨店で働いてるだけ…」


「……おい」

「何?」


「今、何て言った」


「え…だから、雑貨店でーー」


「そこじゃない、魔術師じゃない?」


その返しに、ヨナは小さく頷く。

青年は小さく肩をすくめた。


「……まあ」

「いいどうせ長居する気もない」


青年はくるりと背を向ける。


「え?」ヨナが間の抜けた声を出す。


「ま、待って!」


「待たん」青年は軽く片手を振る。


「用が済んだなら、俺は帰る」

「帰るって……」


「帰るは帰るだ」あまりにも当然のように言い切る。

静かに目を閉じた。


「じゃあな、ガキ。」


そう言い残し、体の奥へ意識を沈めていく。

霊層界へ帰る。

それは、精霊にとって呼吸をするくらい当たり前のことだった。


体の奥へ意識を沈める。

霊層界との繋がりを探る。

何千年と繰り返してきた感覚だ。

目を閉じれば、それで終わる。


……そのはずだった。


「…………」


何も起こらない。

(……妙だな)


(遅い)


(いや、遅いなんてものじゃない)


青年はゆっくりと目を開けた。


もう一度だけ試す。

体の奥の魔力を巡らせる。

霊層界を思い描く。


(繋がらん……?)

(そんなはずがあるか)


「…………」


やはり何も起こらない。


「まあ、たまたまだ」誰に聞かせるでもなく呟く。

気を取り直し、三度目。


(落ち着け。俺だぞ。こんなことで帰れなくなるほど腕は落ちてない)


(ただの誤差だ)

静かに魔力を巡らせる。


「…………」


沈黙。


部屋は何一つ変わらない。


「……おい」眉がぴくりと動く。


四度目。


五度目。


六度目。


「…………」


(……おかしい)


(いい加減、繋がれ)


「…………帰れん」

その一言だけが、静かな部屋へ落ちた。


「えっと……」ヨナが恐る恐る声を掛ける。

「帰れ……なかったの?」


「見ればわかる」


返ってきた声は、さっきまでより明らかに棘があった。


青年は術式の前へしゃがみ込む。

指先で線をなぞる。

「……」


狂いはない。

線も。

文字も。

配置も。


「違う」


今度は部屋を見回す。


壁。

窓。

天井。

扉。


「……違う」


何かがおかしい。

だが、その何かが分からない。

自分の手を見る。

魔力はある。

体にも異常はない。


(何だ……)


(何が起きてる)


(帰れない?)


(俺が?)


(冗談だろ)


数千年生きてきた。

王にも仕えた。

大魔術師にも使われた。

戦場へも駆り出された。


だがーー


(こんなことは、一度もない契約が終わればいつも)


「あ、あの……」ヨナがおずおずと口を開く。

「僕、何か失敗した?」


青年は術式を見る。


ヨナを見る。


もう一度術式を見る。

そして長く息を吐いた。「……わからん」

その一言には、さっきまでの余裕はもう残っていなかった。


「だが」

蒼い瞳が真っ直ぐヨナを捉える。


「一つだけ確かなことがある」


ヨナはごくりと唾を飲み込む。


「……これは、普通じゃない」


「普通じゃない?」ヨナは不安そうに聞き返す。


青年は答えない。

術式を見つめたまま腕を組み、考え込んでいる。

部屋に重い沈黙が落ちた。


やがて、青年が小さく「……チッ」


その音だけで、ヨナの肩がびくりと震えた。

「あ、あの……」


「何だ」低い声が返ってくる。


「本当に、ごめんなさい」


一瞬だけ、青年の表情が止まる。

それから、深いため息をついた。


「謝るな、謝られて帰れるなら、とっくに帰ってる」


「……」ヨナは俯いた。

何も言い返せない。

自分が何をしたのか、自分自身にも分からなかった。


青年はその様子を見つめ、小さく肩をすくめる。

「…まあ…」

「どう見ても、お前は何もわかってないらしい、それだけはわかった」


皮肉っぽく言いながら、壁へ背中を預ける。

「今日はもう終わりだ。わからんものを考え続けるのは、人間の悪い癖だからな、俺は遠慮しておく」


そう言って目を閉じる。


ヨナは立ち尽くしたまま、どうしていいのか分からず青年を見つめていた。


静かな部屋。

聞こえるのは、二人の呼吸だけ。


「……最悪だ」

ぽつりと漏れたその一言が、静かな部屋へ溶けていく。


ヨナはその意味を聞き返すこともできず、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。

最後まで読んでくださりありがとうございます。


ブックマークしてくれた読者さんありがとうございます。

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