11話 違和感
(^_^)
はじまり、はじまり
部屋には、息苦しいほどの静けさが満ちていた。
誰も口を開かない。
窓の外では夕日が沈み始め、橙色の光が床へ長く伸びている。
その光は部屋の隅に落ちた影を濃くし、床に描かれた術式を不気味に浮かび上がらせていた。
青年は壁にもたれ、腕を組んだまま目を閉じていた。
呼吸は浅い。
だが、乱れてはいない。
ただ、その周囲には触れれば切れそうなほど張り詰めた気配がある。
ヨナは何度も青年の姿を見ては、すぐに視線を逸らした。
胸の奥が落ち着かない。
話しかけたい。
けれど、何を言えばいいのか分からない。
言葉を探すたび、喉の奥がきゅっと締め付けられる。
「あの……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「何だ」間を置かず、低い声が返ってくる。
「これから、どうするの?」
青年はゆっくりと目を開いた。
蒼い瞳が、真っ直ぐ天井を見つめる。
そこには苛立ちと、冷静な思考の光が混ざっていた。
「分からん」短い返事だった。
その一言が、やけに重く響く。
「だが、一つだけ確かなことがある」
「え?」ヨナは思わず身を乗り出す。
「このまま黙っていても、何も変わらん」
青年は壁から背中を離した。
床板が小さく軋む。
「帰れん原因を探す」
ヨナの胸がわずかに高鳴った。
「ぼ、僕にも手伝わせて!」声が少し裏返る。
それでも、引く気はなかった。
青年はヨナを見る。
鋭い視線だった。
まるで、その言葉がどこまで本気なのかを測るように。
数秒だけ見つめたあと、青年は小さく息を吐いた。
「勝手にしろ」
呆れたようにそう言うと、青年は部屋を見回した。
机。
椅子。
窓。
壁。
そして、床いっぱいに描かれた召喚術式。
複雑に絡み合う線と記号が、夕日の光を受けて浮かび上がっている。
その中心に立っているだけで、見えない何かに見下ろされているような感覚があった。
「まず聞く」蒼い瞳がヨナへ向く。
「この魔導書は、どこで手に入れた」
青年は古びた魔導書に歩より手に取った。
「あ、それは……露天町の店先に、ずっと売れ残ってた本なんだ」
「売れ残り?」青年の眉がわずかに動く。
「うん。誰も買わなかったみたいで……何となく気になって、買ったんだ」
言いながら、ヨナは少しだけ視線を落とした。
あの時も、理由は分からなかった。
ただ、どうしてもその本が気になった。
店先の隅に置かれ、埃をかぶり、誰にも見向きもされていなかった古い本。
それなのに、素通りできなかった。
「この術式は誰に教わった」
「誰にも」ヨナは首を横に振る。
「本を見ながら描いただけ」
「一人でか」
「うん」
沈黙が落ちた。
青年の目が細くなる。
先ほどまでの苛立ちとは違う。
もっと冷たく、もっと深いものを覗き込むような目だった。
「……全部おかしい」青年がぽつりと漏らした。
その一言に、ヨナは息を呑む。
青年は魔導書の古びた表紙へ、ゆっくりと指先を滑らせた。
「ただの古本じゃない」
蒼い瞳が、わずかに鋭さを増す。
「それに、この術式」青年の視線が床へ落ちる。
「ガキが一人で描けるような代物でもない」
青年は魔導書を静かに開いた。
乾いた紙の音だけが、部屋に響く。
パラ……
パラ……
一枚ずつ、確かめるようにページをめくっていく。
ヨナは息を潜め、その様子を見守っていた。
やがて青年の指が止まる。
最後のページ。
召喚術式が描かれたページだった。
「……古いな」低く呟く。
その目は術式ではなく、本そのものを見ていた。
(何百年……いや、それ以上か)
(これほど古い魔導書が、露店で売られているのか?…いや、そんなはずはない)
「そんなに古い本なの?」
「少なくとも、お前が思っているような代物じゃない」
青年は視線を外さずに答えた。
「少なくとも数百年前の代物だ」
「えっ……」
ヨナは思わず魔導書を見つめる。
古びた本だとは思っていた。
だが、そこまで古いとは想像もしなかった。
青年の視線が、術式の余白へ滑る。
「……?」
ごく薄く刻まれた文字。
人間なら見逃してしまうほど小さく、掠れた痕跡だった。
(霊節語……)
目を細める。
(誰が残した)
慎重に読み取ろうとする。
だが、文字は途中で途切れていた。
肝心な部分だけが、不自然なほど綺麗に削られている。
(誰かに消されてるなこれ)
誰かの意思を感じさせる跡だった。
「……チッ」
青年は小さく舌打ちし、本を閉じる。
「何か分かった?」
ヨナがおそるおそる尋ねた。
「いや」青年は短く答える。
「分かったことより、疑問が増えた」
そう言うと、今度は術式の前へ歩み寄る。
しゃがみ込み、指先で一本の線をなぞった。
円の形。
線の繋がり。
刻まれた文字。
細部まで確かめていく。
だが、乱れは一つも見当たらない。
(……精密すぎる)
(見よう見まねで描ける術式じゃない)
青年はゆっくり立ち上がると、ヨナへ向き直った。
「ガキ」
「な、何?」
「もう一度聞く」蒼い瞳が真っ直ぐヨナを射抜く。
「この術式は、本当にお前一人で描いたんだな」
「うん。本を見ながら、そのまま描いただけ」
青年は再び術式へ目を落とした。
「……あり得ん」思わず本音が漏れる。
「普通なら、一度見ただけで再現できる代物じゃない」
「でも、描けたよ?」
「だから説明がつかん」
青年は額へ手を当て、小さく息を吐いた。
魔導書は異常。
術式にも乱れはない。
そして、それを描いたこのガキもまた、常識では測れない。
(どこかに答えがある)
(だが、まだ一つ足りない)
青年はゆっくりと術式を見渡した。
「……何かを見落としている。」
青年は術式の中央へ歩み寄った。
「もう一度試す」
「試すって……帰れるかどうか?」
青年は無言で頷く。
術式の中心に立ち、ゆっくりと目を閉じた。
意識を深く沈める。
その瞬間、淡い蒼い光が青年の身体を包み込んだ。
光は静かに揺らめき、床に描かれた術式を淡く照らしていく。
部屋の空気がぴんと張り詰める。
ヨナは固唾を呑んで見守った。
今度こそ帰れるかもしれない。
そう願う一方で、胸の奥には言葉にできない感情が芽生えていた。
帰れるなら、それが一番いい。
そう思うはずなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
数秒が過ぎる。
やがて蒼い光はゆっくりと弱まり、静かに消えた。
部屋を包むのは、重い静寂だけ。
青年は目を開き、小さく息を吐いた。
「……駄目だ」
短いその一言で十分だった。
(やはり繋がらん)
(霊層界への道そのものが閉ざされている)
思い当たる原因を順に探る。
術式。
契約。
魔力。
どれも決定打にはならない。
「こんな魔術は聞いたことがない……」
その呟きには、苛立ちではなく困惑が滲んでいた。
「やっぱり……帰れないんだよね」
ヨナが不安そうに尋ねる。
「見ればわかるだろ」
ぶっきらぼうな返事だった。
だが、その声に先ほどまでの棘はない。
青年は再び魔導書を開く。
術式。
余白の文字。
ページを何度も行き来する。
(違う)
(まだ何かある)
視線だけが忙しく動く。
ヨナは何も言わず、その姿を見守っていた。
何か手伝いたい。
だが、自分には何も分からない。
その事実が、もどかしかった。
「あの」
「何だ」
「何を探してるの?」
「違和感だ」
青年は魔導書を軽く叩く。
「この本」
続いて床の術式を見る。
「この術式。」
そしてヨナへ視線を向けた。
「……お前だ」
「僕?」
「あぁ、お前だ。魔術師でもないガキが精霊を召喚する」青年は静かに本を閉じる。
「そんな話は聞いたことがない。だからどこかに答えがあるはずなんだ」
ヨナも魔導書へ目を落とした。
自分が鍵なのだろうか。
考えても答えは出ない。
同じ本を見ても、自分には何も分からないのだから。
気付けば窓の外はすっかり夜になっていた。
街の灯りが窓ガラスに映り、この部屋だけが別の世界のように静まり返っている。
青年は魔導書を机へに置いた。
「今日は終わりだ」
「もう調べないの?」
「考えがまとまらん」青年は短く答える。
「煮詰まったまま続けても、見えるものも見えなくなる」
ヨナは床の術式へ視線を落とした。
あれほど禍々しく感じた線も、今は何事もなかったように静まり返っている。
「……明日なら、何かわかるかな」
青年は少しだけ考え、窓の外へ目を向けた。
「答えはまだ見えん」
一拍置いて続ける。
「だが、探す」
その短い一言には、不思議な力強さがあった。
ヨナは小さく頷く。
青年は夜空を窓越しから見上げた。
(全部、繋がっている)
(必ず見つけ出す)
ヨナは机の上の魔導書を見つめる。
古びた表紙は何も語らない。
それでも、その中にはまだ誰も知らない真実が眠っている。
夜は静かに更けていく。
答えはまだ遠い。
だが、謎だけは確かに深まっていた。
最後まで読んでくださりありがとうございます。




