9話 平穏の終わり
o(^-^)o
はじまり、はじまり
霊層界。
人間界と重なるように存在する、もう一つの世界だ。
……もっとも、人間どもは、その存在に気付いちゃいない。
まあ、気付かない方が幸せかもしれんがな。
この世界は、幾重もの界膜によって何層にも隔てられている。
界膜ってやつは少々変わり者でな。
人間にも。
俺たち精霊にも。
普段は姿を見せない。
そこにあるのが当たり前すぎて、誰も気にしない壁だ。
不思議な話だろう?
まあ、俺も見えたことは数えるほどしかない。
ただ静かに、世界と世界を隔て続けている。
それが界膜だ。
そして、この霊層界には穏やかな時間が流れている。
風はない。
空もない。
大地もない。
あるのは、どこまでも続く静寂だけ。
その静寂の中を、無数の光がゆっくりと漂っている。
水滴のように。
雫のように。
細長く流れたり。
丸く集まったり。
また何事もなかったように離れていく。
それが俺たち精霊の、本来の姿だ。
……何だ?
翼でも生えてると思ったか?
角の一本や二本くらい期待してたか?
悪いな。
本来の俺たちは、こんなものだ。
その中に、一際大きな流動体が一つ。
深い蒼を帯びたそれが、静かな流れへ身を任せ、ゆっくりと揺れている。
言うまでもない、俺だ。
「……平和だ」思わず声が漏れる。
「実に平和だ」
誰にも呼ばれない。
誰にも命令されない。
誰にも利用されない。
これがどれほど贅沢なことか、人間どもには一生分からんだろう。
あいつらは本当に面倒くさい。
自分勝手で。
欲深くて。
都合が悪くなれば、すぐ誰かのせいにする。
そのくせ、困った時だけ誰かを頼る。
実に勝手な生き物だ。
……まあ。
全員がそうだった、とは言わん。
数千年も生きていれば、まともな奴にも何人かは出会う。
王に仕えたこともある。
大魔術師に利用されたこともある。
戦争へ駆り出されたこともある。
思い返せば、ろくでもない思い出ばかりだ。
だから今は、この静けさが気に入っている。
何もしない。
どこへも行かない。
ただ漂っているだけ。
それだけで十分だ。
……少なくとも、この時の俺は、本気でそう思っていた。
その時だった。「……ん?」
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
小石を落とした水面みたいに、小さな波紋が広がる。
「気のせい……か?」そう思った。
いや、そうであってほしかった。
だが違う。
胸のざわめきは、ゆっくりと大きくなっていく。
「おいおい……」
穏やかだった流れが、わずかに乱れる。
周りの連中は相変わらず呑気に漂ってやがる。
どうやら気付いているのは俺だけらしい。
羨ましい話だ。
胸の奥を、見えない何かがゆっくりと引っ張る。
この感覚には覚えがある。
嫌というほど、な。
「……まさか」
いや。
そんなはずがあるか。
何百年……いや、もっとだ。
ようやく手に入れた、この静かな時間だぞ。
今さら俺を呼び出すような酔狂な人間なんてーー
「いるわけ……」
そこまで呟いた瞬間だった。
胸の奥を掴む力が、一気に強くなった。
「……ッ」その瞬間。
何もないはずの空間が、ゆらりと揺れた。
「……」思わず言葉を失う。
最初は見間違いかと思った。
だが違う。
揺れているのは空間そのものだ。
静かな水面へ雫を落としたように、透明な波紋がゆっくりと広がっていく。
その波紋はやがて、一枚の薄い膜の輪郭を浮かび上がらせた。
「……界膜」
読者諸君。
さっき説明したばかりだが、こいつは普段、誰の前にも姿を見せない。
だから見えた時点で、嫌な予感なんてもんじゃない。
「……嘘だろ」
訂正しよう。
これは予感じゃない。
確信だ。
界膜が姿を現す理由なんて、一つしか知らん。
「召喚……」
その言葉を口にした途端だった。
胸の奥を掴んでいた見えない力が、一気に強まる。
「おい」
俺の体が勝手に流され始める。
「待て」いや、本当に待て。
相談くらいしろ。
本人の同意という言葉を知らんのか。
流れは止まらない。
ゆっくりと。
だが確実に。
俺は界膜へ近付いていく。
「やめろ」
頼んで止まるなら苦労はしない。
それでも言わずにはいられなかった。
「俺は行かん」
見えない力は、その言葉を鼻で笑うように、さらに俺を引っ張った。
「おい、おい、おい!」冗談じゃない。
引くな。
本当に引くな。
こっちはようやく手に入れた平穏を満喫してる最中なんだ。
空気を読め。
……いや、術式に空気を読めって言う方が無理か。
見えない力は容赦なく俺を引っ張っていく。
俺は流れに逆らう。
必死に逆らう。
だが、水の流れを止めようとしているようなものだ。
進まないどころか、じわじわと界膜へ近付いていく。
「クソッ!」
誰が考えたんだ、こんな魔術。
精霊の意思を完全無視じゃないか。
実に人間らしい。
「誰だ!」思わず怒鳴る。
「どこのどいつだ!」
俺を呼んでる馬鹿は!
暇人か。
物好きか。
それとも人生最大の失敗を今まさにやらかそうとしてる阿呆か。
「他を当たれ!」
霊層界には精霊なんて腐るほどいる。
右を見ろ。
左を見ろ。
後ろを見ろ。
ほら、いくらでもいるだろうが。
何なら紹介してやる。
だから俺だけは勘弁しろ。……まあ。
こんなお願いが通じるくらいなら、召喚術なんてとっくに廃れてるか。
引く力はさらに強くなる。「ふざけるなぁ!」
静かだった霊層界に、大きな波紋が広がる。
俺の体は、ゆっくりと界膜へ吸い寄せられていった。
「……待て」
流されながら、必死に考える。
何か理由があるはずだ。
本契約か?
……いや、違う。
本契約なら、まず俺の真名を知っているはずだ。
俺の真名を知る人間なんぞ、とっくの昔に死んでいる。
じゃあ何だ。
昔の契約者の血筋か。
何かの事故か。
偶然か。
考える。
考える。
考える。
「……分からん」
チッ、と舌打ちする。
数千年生きてきたが、こんなのは初めてだ。
分からんものは分からん。
人間どもは分からないことを延々と考え続ける。
あれは悪い癖だ。
俺まで付き合う必要はない。
今分かることは、一つだけ。
「俺は、あっちへ行きたくない」
その願いをあざ笑うように、見えない力はさらに強くなる。
揺らめく界膜は、もう目の前まで迫っていた。
界膜が、大きく波打つ。
静かだった境界は、水面へ石を投げ込んだように揺らぎ、ゆっくりと一つの通り道を形作っていく。
普段なら決して姿を現さない界膜。
それが今は、俺を迎えに来たと言わんばかりに、その存在を主張していた。
「……最悪だ」
読者諸君。
もし今後、「精霊を召喚してみよう!」なんて考えることがあったら、今すぐ忘れろ。
少なくとも、俺にとってはろくな思い出がない。
見えない力が、さらに強くなる。
「おい、加減しろ!」
流れに逆らう。
押し返す。
逃げる。
できることは全部やった。
だが、界膜はもう目の前だ。
「まだだ……!」あと少し。
あと少しだけ踏ん張れば。
……そんな希望は、次の瞬間あっさり砕け散った。
ズルリ、と。
俺の体は界膜へ触れ、そのまま引き込まれていく。
「待て!」抵抗する。
「引っ張るな!」叫ぶ。
だが、界膜は容赦なく俺を飲み込んでいく。
静かな霊層界が遠ざかる。
何百年も守ってきた平穏が、目の前から消えていく。
「嫌だ!」思わず叫んでいた。
「俺は帰る!」……いや、帰る。
絶対に帰ってやる。
そう心に決めた、その瞬間。
界膜の向こう側から、強烈な力が俺を一気に引きずり込んだ。
「契約なんてもうーー」
「クソがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
最後まで読んでくださりありがとうございます。




