えんがちょ
私が子どもだった頃、子どもたちのあいだで流行ったもののひとつが「おまじない」でした。
どこから仕入れた情報で広がったのかも分からないものが、ある日突然、教室じゅうに行き渡っている。そういうものが、いくつもありました。
たとえば、佐川急便のトラックに描かれた飛脚のおしりに触ると幸せになる、という「おまじない」。
誰が言い出したんだ、という話です。
もちろん、動いているトラックに手を触れようだなんて、そんな危ないことをしてはいけませんから、これを読んでいるみなさんは、くれぐれも真似をなさらないでください。今では都市伝説として語られているようなものですから。
さて、そんな「おまじない」の中で、ずいぶん長いあいだ受け継がれてきたものが、ひとつあります。
人差し指と中指をクロスさせて、「えんがちょ!」と叫ぶ、あれです。
――――――
えんがちょには、作法がありました。
誰かが汚いものに触る。すかさず、周りの子が指を交差させて「えんがちょ!」と叫ぶ。
触ってしまった本人は、その「穢れ」を背負ったままになります。解くには、誰かにその交差した指のあいだを、チョンと切ってもらわなければならない。
――つまり、自分ひとりでは、解けないのです。
誰かが手を貸してくれなければ、いつまでも、こちら側には戻ってこられない。
いま思えば、ずいぶん残酷な仕組みでした。
呼び方も、土地によってさまざまだったようです。エンガ、ビビンチョ、エンピ。昭和も後になると、テレビの影響で「バリヤー」と呼ぶ子どもたちも出てきました。
語源には諸説あって、はっきりしません。江戸のわらべうたにあった「因果の性」が訛ったものだという説もありますし、歴史学者の網野善彦は「エン(穢・縁)を、チョ(チョン切る)」だとしています。
どちらにせよ、「縁を切る」という一点だけは、揺るぎません。
――――――
私のクラスにも、一度だけ、それが長く続いた子がいました。
何があったのか、いまとなっては思い出せません。たいしたことではなかったはずです。教室の隅で気分を悪くしたとか、そのくらいのことだったと思います。
ただ、その日から何日か、誰もその子の机に触りませんでした。
給食当番が、その子のところだけ、皿を置いて素早く離れる。廊下ですれ違うと、誰かが小さく指を交差させる。本人が「切って」と手を出しても、笑って逃げる。
そして、私も、そのうちの一人でした。
指を交差させた、あの感触を、いまでも覚えています。
人差し指の上に、中指を乗せる。ほんの数ミリの動きです。
それだけで、人ひとりを、世界の外に置くことができました。
――そう。えんがちょとは、本来そういうものなのです。
こう書くと、子どもの中から自然発生したようには、思えません。
そう。このおまじないには、もっと古くからの由来が、あるようなのです。
――――――
さて、そもそも「穢れ」とは何か。
現代の私たちが「汚い」と感じるもの――ゴミ、泥、虫――そういったものとは、少し意味が違います。
古代の日本人にとって「穢れ」とは、死・血・病など、生と死の境界に触れることで生じる、目に見えない「乱れ」のことでした。
それは個人の問題だけではありません。周囲に伝染し、共同体全体に災いをもたらすと信じられていた。
だからこそ、穢れを「切る」ことには、死活的な意味があったのです。
古代の日本には、穢れを祓うための儀式が数多くありました。
「大祓」も、そのひとつ。
六月と十二月の末日、天皇から民まで、その半年に積み重なった自分の穢れを人形に移し、川に流して清める。
今も各地の神社で行われているこの習慣は、穢れとは「溜まるもの」であり、「移せるもの」であり、「流せるもの」だという、古代人の世界観を映しています。
穢れを恐れたのは、庶民だけではありません。
朝廷では、死者が出た際に「忌」と呼ばれる期間が設けられ、そのあいだは政務も儀式も停止されました。
誰が誰の家に何日入ったか。それだけで穢れが移るとされ、日数まで細かく定められていたのです。
それほどまでに、死の穢れは現実の力を持つと信じられていました。
そして、指と指を交わらせる仕草も、もとは呪術的な「結界」の意味を持っていたと言われます。
交差した指は、この世とあの世を隔てる門のようなもの。その門を「チョン」と切ることで、向こう側のものを、こちら側に入れない――そういった意味が込められていたのかもしれません。
その「向こう側」から、ある男の業が這い出てこようとしていた。
そんな時代の話を、ここではいたします。
――――――
時代は、平安末期。
保元の乱が終わり、都にはまだ、戦の焦げた匂いが残っていました。
それまで武士は「都の番犬」にすぎませんでした。貴族たちが争うとき、刀を振るうのが武士の役割であって、政治の表舞台に立つことは許されない。
しかし保元の乱は、その秩序を静かに、しかし確実に揺るがし始めていました。
その混乱の中で、ひときわ鋭い眼差しを持つ男が、政治の中心へと歩み出ます。
名は、信西。
俗名を、藤原通憲といいます。
幼い頃から書物を離さず、経典から中国の史書、律令の細部に至るまで、ありとあらゆる知識を吸収した人でした。
この人はもう、肉でできているのではなく、文字でできているのではないか――そんなふうに言いたくなるほどの、博識だったと伝わります。
しかし、学識だけでは出世できないのが、この時代の貴族社会の現実でした。
家柄の低い信西は、若い頃から不遇を受け、ついには出家して「信西」と名乗るに至ります。
それでも、彼は諦めませんでした。
当世無双の宏才博覧と称された知識を武器に、信西はついに、後白河天皇の側近として取り立てられます。
そして保元の乱後、その判断力を発揮する機会が訪れました。
彼はすぐに動きます。乱後の混乱した国政を立て直すべく、記録所を設け、全国の荘園を洗い直す。誰が、どの土地を、どういう名目で持っているのか。その一つひとつを、文書に照らして確かめていく。
机の上に積み上がる巻物。荘園領主たちの訴え。国司たちの報告。
信西はそれらを読み解き、時に鋭く、時に冷静に、判断を下していきました。
当初の思いは、自らの生家である学問の家系の家名再興にあったとも言われます。
しかし天皇の信任を得てから、もっと別の、大きな意志が強くなっていきました。
「この国を、もう一度正しい形に戻さねばならぬ」
その信念は、揺るぎませんでした。
内裏の再建、新たな法令の整備、官人の綱紀粛正――彼の改革は、まるで止まらぬ奔流のように進んでいったのです。
やがて、信西の一族は次々と要職につき、都ではこんな噂が囁かれるようになります。
「いまの世は、信西の掌の上にある」
それは称賛であり、同時に、嫉妬と警戒の声でもありました。
――――――
信西は、改革を支える武力として、平清盛を重用しました。
清盛は武力だけでなく、日宋貿易を通じた経済力も増しており、平氏は都で確かな存在感を放ち始めていました。
信西は自らの子と清盛の娘を婚約させ、両家の結びつきを固めます。都の人々は「新しい時代が来るのかもしれない」と、ざわめき立ったといいます。
しかし、その裏で、静かに別の勢力が動いていました。
美福門院――藤原得子といったほうが、ぴんとくる方も多いかもしれません。鳥羽院の后であり、巨大な荘園を持つ権力者です。
彼女は後白河を退け、養子である守仁親王を天皇にしたいと望みました。
「後白河は中継ぎにすぎぬ。次は守仁を」
かつて鳥羽院に仕えた信西にとって、その后の言葉は、重かったことでしょう。
信西は後白河に譲位を進言し、ついに守仁親王は、二条天皇として即位することとなりました。
ここから、後白河院政派と二条親政派の対立が、表面化していきます。
そしてその狭間で、信西は両者から距離を置かれ、次第に孤立していくこととなります。
後白河は、新たな力として藤原信頼を抜擢しました。信頼は源義朝と手を結び、武力を背景に、急速に昇進していきます。
こうして都には、いくつもの勢力が並び立つこととなりました。
政治の信西一門。権力の二条親政派と、後白河院政派。そして武力と経済の平氏一門。
表向きは静か。しかし、裏では火花が散り続けていました。
特に「信西の権力が強すぎる」という不満は、派閥を超えて広がっていきます。
――――――
信西の孤独は、政変の前夜に始まったわけではありません。
もともと彼は、権力を愛した男ではなかったと言われます。
ただ、あまりに正確に、物事が見えすぎたのです。
現状の歪みが、腐敗が、無駄が、文書を一枚読めば手に取るように分かってしまう。そして、それを正せる立場に、力があった。
だから動いた。それだけのことだったのかもしれません。
改革が進むほど、敵は増えました。
荘園を削られた貴族たちには、恨まれました。昇進を阻まれた者たちは、妬みました。
そして皮肉なことに、信西を重用した後白河自身も、信西の力が大きくなりすぎることを、恐れ始めていたのです。
側近を持たず、友を持たず、信西はひとり文書を読み、ひとり判断を下し続けました。
その机の上だけが、彼にとっての世界だったのかもしれません。
夜、灯火の下で巻物を繰りながら、ふと視線を上げ、こう呟いたと伝わります。
「……この国を正すために動いたはずが、いつの間にか私が、憎まれる側に立っているのか」
信西には、息子が多くいました。
彼らを次々と要職に就けたのも、一説によれば「老後の自分を守れるのは血族だけ」という、孤独な計算からだったとも言われています。
権力を愛した独裁者ではなく、孤独を知りすぎた改革者。
信西という人物の実像は、そのどちらでもあり、そのどちらでもないような気がします。
いずれにせよ、この時点で彼が都に生き残る道は、もはや残されていなかったのでしょう。
――――――
平治元年、十二月。
清盛が熊野詣でのため都を離れた――その瞬間を、信頼と義朝は待っていました。
政治の均衡は、一夜にして崩れ落ちます。
兵を挙げた信頼と義朝は後白河院を掌握し、都は一気に、戦乱の気配に包まれました。
信西のもとにも、慌ただしく知らせが届きます。
「殿、反乱です! 信頼殿と義朝殿が……!」
信西は、静かに立ち上がりました。その表情には驚きよりも、むしろ深い諦観が浮かんでいたといいます。
「ついに動いたか」
彼はわずかな供を連れ、闇に沈む都を後にしました。
南都へ逃れると見せかけ、向かった先は、自らの所領のある山城国田原――今の宇治田原のあたりです。
その背中は、これまで誰よりも強く政治を動かしてきた男のものとは思えないほど、静かで、孤独だったと伝わります。
しかし都には「信西追討」の声が響き渡り、彼の行方は、すぐに追われることになりました。
――――――
ようやくたどり着いた田原の地で、信西はもはや、逃げきれぬことを悟りました。
彼は供の者に命じ、地中に箱を埋めさせます。
ザク。ザク。
鍬の刃が、十二月の固い土に食い込む音が、冬枯れの山に響きました。
掘られた穴に、箱が据えられます。
信西は、自らそこへ身を横たえました。
生きながら、土の下へ。
蓋が、閉じられます。
そして、土が、かけられていきました。
ばら、ばら、と、箱の上に落ちる音。それが次第にくぐもり、やがて、何も聞こえなくなる。
地上に残されたのは、空気を通すための竹筒が、一本きりでした。
土の匂いが鼻をつき、冷たい冬の土の重みが、全身をひたひたと包んでいきます。
狭い箱の中で、信西は目を開けていたはずです。
真っ暗ではありません。竹筒の口から、細い光が、一筋だけ落ちてきている。
指の太さほどの、丸い光です。
それだけが、この世と繋がっていました。
かつて自分が築いた改革の仕組みも、平氏との同盟も、後白河の寵も、いまや何ひとつ、手元には残っていない。
政治の中心に立ちすぎた者は、最後には孤独になる――その現実が、冷たい土とともに、胸に迫っていたことでしょう。
どれほどの知識も、どれほどの誠実さも、人の業と嫉妬の前では、無力でした。
念仏を唱えつつ、静かに果てるつもりだったのだと、伝わっています。
けれど、土の下の静寂は、長くは続きませんでした。
落ち延びたはずの供の者が捕らえられ、隠し場所を吐かされたのです。
――どれほどの時が経ったころでしょうか。
あの、細い光が。
ふっと、消えました。
誰かが、上から、筒を覗き込んだのです。
次いで、地面を踏みしめる無数の足音。そして、土を掘り返す音。
ザク。ザク。ザク。
「ここまでか」
信西は、護身用に帯びていた刀で、自らの喉を突きました。追手の手にかかる前に、と。
ところが――掘り起こされたとき、彼の目は、まだうっすらと開いていたと伝わります。
喉を突いてなお、すぐには事切れなかった。
土にまみれたその両眼が、見下ろす追手たちを、確かに見据えて動いた――そう記す書さえ、あるのです。
追手は、その首を刎ねました。
――――――
首は、薙刀の先に結わえつけられ、都へと運ばれました。
大路を、行列が行きます。
沿道には、人が並びました。
あれほどの権勢を誇った男の首を、ひと目見ようと集まった人々です。
しかし、近づこうとする者は、一人もいませんでした。
それは、死の穢れを恐れたから、だけではありません。
あれほどの才覚を持った男が、最後にはあのような死を迎えた――その「業」が、まるで生きているように、その辺りに漂っているような気がしたからです。
近づけば、何かが移ってくる。
そんな感覚が、都の人々の足を止めさせました。
――誰が最初だったのかは、分かりません。
群衆の中の誰かが、そっと手を持ち上げ、人差し指の上に、中指を乗せました。
それを見た隣の者が、真似をしました。その隣の者も。
声に出す者は、まだいなかったかもしれません。
ただ、首を掲げた行列が通り過ぎていくあいだ、沿道では、何十、何百という手が、同じ形に組まれていった。
――仕草というものは、おそらく、そうやって生まれるのです。
信西の首は、その後、獄門にかけられました。
貴族の首が晒されるというのは、この国では、ほとんど前例のないことでした。
夜になると、その場所には誰も近づかなかったといいます。
誰も火をつけていないはずなのに松明が灯り、風もないのに揺れていた――あれは信西の怨嗟が燃えているのだ、と。
嘘か真か、確かめる者はいません。
ただ確かなことは、その場所の近くを通るとき、都の人々はみな、足早に通り過ぎたということです。
人々は、囁き合いました。
信西の「穢れ」は、ただの死の穢れではない。権力への執着、改革への狂信、そして孤独な最期――それらが凝り固まった、業の穢れだ、と。
その縁が自分たちに降りかかることを恐れた人々は、静かに、人差し指と中指を交わらせたのです。
縁を、チョンと切る。
あの男の業と、自分たちの縁を、断ち切るために。
――――――
余談を、ひとつ。
『平治物語絵詞』という絵巻が、今に残っています。鎌倉時代、十三世紀後半の作です。
そのうちの「信西巻」には、あの日のことが、克明に描かれています。
土を掘り返す場面。そして、薙刀に結わえられた首が、都へ運ばれていく場面。
そこに描かれた群衆の中に。
人差し指と中指を、交差させている人物がいるのです。
これをえんがちょの原型と見る向きは、以前からあります。もちろん、断定はできません。別の意味の仕草だったのかもしれませんし、絵師の気まぐれだったのかもしれない。
けれど――八百年ほど前の紙の上に、あなたが子どものころ何百回と結んだのと、まったく同じ形をした指が、確かに描かれている。
そのことだけは、事実です。
――――――
子どもの頃は、ふざけ合って、なんでもないことにこのおまじないを使っていました。
友達が犬のフンを踏んだとき。雨上がりのナメクジを誰かが触ったとき。誰かが盛大にゲップをしたとき。
そのたびに指をクロスさせて「えんがちょ!」と叫んでは、みんなで笑っていました。
でも、もっと以前には、これはただのおまじないではなかった。呪詛返しとも言うべき、切実な意味が込められていたのです。
権力の頂点に立ったにもかかわらず、最後は孤独に、土の中で死んだ男の「業」を、自分のもとへ引き寄せないために。
その縁を、指先一本で断ち切ろうとした人々の、命がけの祈り。
子どもたちは、そんな歴史など知りません。知らないまま、その仕草を受け継いできました。
おまじないとは、本来、そういうものなのかもしれません。
意味を忘れても、形だけが残る。そして形の中に、かつての人々の恐怖だけが、じっと息をひそめて生きている。
――――――
あなたは、自らが「穢れ」と思ったものに触れてしまったとき、無意識に、指をクロスさせていませんか。
――そして、もうひとつ。
あなたはこれまでに、誰かに向かって、その指を組んだことが、一度もないと言えますか。
えんがちょとは、穢れから身を守る仕草ではありません。
誰かを、こちら側から締め出すための、仕草です。
土の中の男も、そうやって締め出されました。
あの日、沿道で指を組んだ人々の中に、かつて彼に取り立てられた者は、一人もいなかったのでしょうか。
そのとき、思い出してください。
その仕草の奥に、土の中で喉を突いた男の、冷たい冬の夜が、まだ眠っていることを。




