えんがちょ
私が子どもだった頃、子供たちの間で流行ったもののひとつが「おまじない」。
様々なおまじないがありました――どこから仕入れた情報で広がったのか分からないものが。
例えば、佐川急便のトラックに描かれた飛脚のおしりに触ると幸せになるだなんて、誰が言い出したんだという「おまじない」もありました。
もちろん、動いているトラックに手を触れようだなんて、そんな危ないことをしてはいけませんから、これを読んでいるみなさんは、くれぐれも真似をしないでください。今では都市伝説として語られているようなものですから。
さて、そんな「おまじない」の中で、かなり長い間培われてきたものが、人差し指と中指をクロスさせて、「えんがちょ!」と叫ぶおまじない。
子供の間で、汚いものや嫌なものに触れた際、その「穢れ」が移らないように縁を切る(バリアを張る)まじないとして広がりました。両指を交差させて「えんがちょ」と唱え、指を切り離す仕草が一般的です。意味としては「縁(穢れ)を(チョン)切る」ことから「えん が ちょ」となるとか。
こう書くと、子どもの中で自然発生したようには思えません。そう、このおまじないには、もっと古くからの由来があるようなのです。
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さて、そもそも「穢れ」とは何か。
現代の私たちが「汚い」と感じるもの――ゴミ、泥、虫――そういったものとは、少し意味が違います。古代の日本人にとって「穢れ」とは、死・血・病など、生と死の境界に触れることで生じる、目に見えない「乱れ」のことでした。それは個人の問題だけではなく、周囲に伝染し、共同体全体に災いをもたらすと信じられていた。だからこそ、穢れを「切る」ことには、死活的な意味があったのです。
「えんがちょ」はその感覚の、子どもの世界への残滓だと考えます。
そして、古代の日本には、穢れを祓うための儀式が数多くありました。
「大祓」もそのひとつ。六月と十二月の末日、天皇から民まで、その半年に積み重なった自分の穢れを人形に移し、川に流して清める。今も各地の神社で行われているこの習慣は、穢れとは「溜まるもの」であり、「移せるもの」であり、「流せるもの」だという、古代人の世界観を映しています。
穢れを恐れたのは、庶民だけではありません。
朝廷では、死者が出た際に「忌」と呼ばれる期間が設けられ、その間は政務も儀式も停止されました。それほどまでに、死の穢れは現実の力を持つと信じられていたのです。
指と指を交わらせる仕草も、もとは呪術的な「結界」の意味を持っていたとも言われています。交差した指は、この世とあの世を隔てる門のようなもの。その門を「チョン」と切ることで、向こう側のものをこちら側に入れない――そういった意味が込められていたのかもしれません。
そしてその「向こう側」から、ある男の業が這い出てこようとしていた――そんな時代の話を、ここではお話いたします。
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時代は、平安末期。
保元の乱が終わり、都にはまだ、戦の焦げた匂いが残っていました。
それまで武士は「都の番犬」にすぎず、貴族たちが争うとき、刀を振るうのが武士の役割であって、政治の表舞台に立つことは許されませんでした。しかし保元の乱は、その秩序を静かに、しかし確実に揺るがし始めていました。
その混乱の中で、ひときわ鋭い眼差しを持つ男が、静かに政治の中心へと歩み出ることになります。
名は、信西――。
俗名を、藤原通憲といいます。
幼い頃から書物を離さず、経典から中国の史書、律令の細部に至るまで、ありとあらゆる知識を吸収していました。「この子は人ではなく、文字でできている」と周囲に言わしめるほどだったと、伝え聞きます。しかし学識だけでは出世できないのが、この時代の貴族社会の現実でした。家柄の低い信西は、若い頃から不遇をかこち、ついには出家して「信西」と名乗るに至りました。
それでも、彼は諦めませんでした。
当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に、信西はついに、後白河天皇の側近として取り立てられました。そして保元の乱後、その判断力を遺憾なく発揮する機会が訪れます。
彼はすぐに動きました。乱後の混乱した国政を立て直すべく、各地の石高を正確に測るべく記録所を設け、全国の荘園を洗い直す。机の上に積み上がる文書、荘園領主たちの訴え、国司たちの報告。信西はそれらを一つひとつ読み解き、時に鋭く、時に冷静に、判断を下していきました。
当初の思いは、自らの生家である学問の家系の家名再興にあったと言われますが、天皇の信任を得てから、もっと別の、大きな意志が強くなりました。それは――
「この国を、もう一度正しい形に戻さねばならぬ」
その信念は、揺るぎませんでした。内裏の再建、新たな法令の整備、官人の綱紀粛正――彼の改革は、まるで止まらぬ奔流のように進んでいったのです。
やがて、信西の一族は次々と要職につき、都ではこんな噂が囁かれるようになります。
「いまの世は、信西の掌の上にある」
それは称賛であり、同時に、嫉妬と警戒の声でもありました。
また、信西は、改革を支える武力として平清盛を重用しました。
清盛は武力だけでなく、日宋貿易を通じた経済力も増しており、平氏は都で確かな存在感を放ち始めていました。信西は自らの子と清盛の娘を婚約させ、両家の結びつきを固めます。都の人々は「新しい時代が来るのかもしれない」と、ざわめき立ったと言います。
しかし、その裏で、静かに別の勢力が動き始めていました。
美福門院――藤原得子といったほうが、ぴんとくる方も多いかもしれません。鳥羽天皇の皇后であり、巨大な荘園を持つ権力者。彼女は後白河天皇を退け、養子である守仁親王を天皇にしたいと望み、その願いは、信西にも無視できないものになりました。
「後白河は中継ぎにすぎぬ。次は守仁を」
かつて鳥羽院に仕えた信西にとって、その后である美福門院の言葉は、重かったことでしょう。信西は後白河に譲位を進言し、ついに守仁親王は、二条天皇として即位することとなりました。
ここから、後白河院政派と二条親政派の対立が、表面化していきます。そしてその狭間で、信西は両者から距離を置かれ、次第に孤立していくこととなります。
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後白河(太上天皇)は、新たな力として藤原信頼を抜擢しました。信頼は源義朝と手を結び、武力を背景に、急速に昇進していきます。
こうして都には、四つの勢力が並び立つこととなりました。
政治の面では、信西一門。権力の面では、二条親政派と後白河院政派(信頼・義朝)。そして武力と経済の面では、平氏一門。
表向きは静か。しかし、裏では火花が散り続けていました。特に「信西の権力が強すぎる」という不満は、派閥を超えて広がっていきます。
信西自身も、その空気を感じ取っていました。夜、灯火の下で文書を読みながら、ふと視線を上げ、こう呟いたと言います。
「……この国を正すために動いたはずが、いつの間にか私が、憎まれる側に立っているのか」
その胸中に去来するものは、疲労か、焦燥か、それとも覚悟か。しかし、彼は歩みを止めることをしませんでした。
日ノ本のため。そう、自身の保身のためではなく、国のために邁進したのです。
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信西の孤独は、政変の前夜に始まったわけではありません。
もともと彼は、権力を愛した男ではなかったと言われます。ただ、あまりに正確に、物事が見えすぎたのです。現状の歪みが、腐敗が、無駄が、文書を一枚読めば手に取るように分かってしまう。そして、それを正せる立場……力があった。だから動いた――それだけのことだったのかもしれません。
改革が進むほど、敵は増えました。
荘園を削られた貴族たちには、恨まれました。昇進を阻まれた者たちは、妬みました。そして皮肉なことに、信西を重用した後白河自身も、信西の力が大きくなりすぎることを、恐れ始めていたのです。
側近を持たず、友を持たず、信西はひとり文書を読み、ひとり判断を下し続けました。その机の上だけが、彼にとっての世界だったのかもしれません。
信西には、息子が多くいました。彼らを次々と要職に就けたのも、一説によれば「老後の自分を守れるのは血族だけ」という、孤独な計算からだったとも言われています。権力を愛した独裁者ではなく、孤独を知りすぎた改革者――信西という人物の実像は、そのどちらでもあり、そのどちらでもないような気がします。
いずれにせよ、彼が都で生き残るには、もはや手遅れだったのかもしれません。
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平治元年、十二月。
清盛が熊野詣でのため都を離れた――その瞬間を、信頼と義朝は待っていました。
政治の均衡は、一夜にして崩れ落ちたのです。
兵を挙げた信頼と義朝は後白河院を掌握し、都は一気に、戦乱の気配に包まれました。信西のもとにも、慌ただしく知らせが届きます。
「殿、反乱です! 信頼殿と義朝殿が……!」
信西は、静かに立ち上がりました。その表情には驚きよりも、むしろ深い諦観が浮かんでいました。
「ついに動いたか」
彼はわずかな供を連れ、闇に沈む都を後にします。南都へ逃れると見せかけ、向かった先は、自らの所領のある山城国田原――今の宇治田原のあたりでした。その背中は、これまで誰よりも強く政治を動かしてきた男のものとは思えないほど、静かで、孤独だったといいます。
しかし、都には「信西追討」の声が響き渡り、彼の行方は、すぐに追われることになりました。
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ようやくたどり着いた田原の地で、信西はもはや、逃げきれぬことを悟りました。
彼は供の者に命じ、地中に箱を埋めさせます。そして、空気を通すための竹筒を一本だけ地上に残し、その箱の中へ、自ら身を横たえました。生きながら、土の下へ。念仏を唱えつつ静かに果てるつもりだったのだと、伝わっています。
土の匂いが鼻をつき、外の物音が、くぐもって遠ざかっていく。冷たい冬の土の重みが、全身をひたひたと包んでいきます。
かつて自分が築いた改革の仕組みも、平氏との同盟も、後白河の寵も、いまや何ひとつ、手元には残っていない。政治の中心に立ちすぎた者は、最後には孤独になる――その現実が、冷たい土とともに、胸に迫っていたことでしょう。
どれほどの知識も、どれほどの誠実さも、人の業と嫉妬の前では、無力でした。
けれど、土の下の静寂は、長くは続きませんでした。落ち延びたはずの供の者が捕らえられ、隠し場所を吐かされたのです。
地面を踏みしめる無数の足音が、じりじりと近づいてきます。やがて、土を掘り返す音。
「ここまでか」
信西は、護身用に帯びていた刀で、自らの喉を突きました。追手の手にかかる前に、と。
ところが――掘り起こされたとき、彼の目は、まだうっすらと開いていたと伝わります。喉を突いてなお、すぐには事切れなかった。土にまみれたその両眼が、見下ろす追手たちを、確かに見据えて動いた――そう記す書さえ、あるのです。
追手は、その首を刎ね、京へと持ち帰りました。
晒し首となった彼の顔は、かつて颯爽と内裏の廊下を歩いていた、あの男と同じ顔だったはずですが、誰もそれを口にしなかったと言います。
都の人々は、その首を遠巻きに見ました。近づこうとする者は、いません。
それは、死の穢れを恐れたから、だけではありません。
あれほどの才覚を持った男が、最後にはあのような死を迎えた――その「業」が、まるで生きているように、その辺りに漂っているような気がしたからです。近づけば、何かが移ってくる。そんな感覚が、都の人々の足を止めさせました。
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晒し首というのは、単なる見せしめではありませんでした。
古代の日本において、首を獄門に晒すことには、呪術的な意味があったとも言われています。敵の「力」を公衆の前に晒すことで、その霊力を封じる――あるいは逆に、その怨念を都全体に押しつけることで、誰か一人が祟られることを防ぐ――そういった考え方が、この慣習の根底にはあったと見る研究者もいます。
ところが、信西の場合は、少し違いました。
あれほどの知恵を持ち、あれほどの改革を成し遂げ、あれほど多くの者に恨まれた男の怨念は、普通の晒し首で封じられるものではない――そう感じた人々が、都には少なくなかったようです。
夜になると、晒し首のある場所には、誰も近づかなかったといいます。
誰も火をつけていないはずなのに松明が灯り、風もないのに揺れていた――あれは信西の怨嗟が燃えているのだ、と。
嘘か真か、確かめる者はいません。ただ確かなことは、信西の首が晒された場所の近くを通るとき、都の人々はみな、足早に通り過ぎたということです。そして、どこからともなく広がっていった仕草が、ありました。
人々は、囁き合いました。
信西の「穢れ」は、ただの死の穢れではない。権力への執着、改革への狂信、そして孤独な最期――それらが凝り固まった、業の穢れだ、と。
その縁が自分たちに降りかかることを恐れた人々は、静かに、人差し指と中指を交わらせました。
そして、唱えました。
「えんがちょ」
縁を、チョンと切る。
あの男の業と、自分たちの縁を、断ち切るために。
――――――
子どもの頃は、ふざけ合い、なんでもないことに、このおまじないを使っていました。
友達が犬のフンを踏んだとき。雨が降った後に出没するナメクジを誰かが触ったとき。誰かが盛大にゲップを出したとき。そのたびに指をクロスさせて「えんがちょ!」と叫んでは、みんなで笑っていました。
でも、もっともっと以前には、これはただのおまじないではない、呪詛返しとも言うべき切実な意味が、込められていました。
権力の頂点に立ったにもかかわらず、最後は孤独に、土の中で死んだ男の「業」を、自分のもとへ引き寄せないために。その縁を、指先一本で断ち切ろうとした人々の、命がけの祈りとも言えるのでしょうか。
子どもたちは、そんな歴史など知りません。知らないまま、その仕草を受け継いできました。
おまじないとは、本来、そういうものかもしれません。意味を忘れても、形だけが残る。そして形の中に、かつての人々の恐怖だけが、じっと息をひそめて生きている。
あなたは、自らが「穢れ」と思ったものに触れてしまったとき、無意識に、指をクロスさせていませんか。
そのとき、思い出してください。その仕草の奥に、土の中で喉を突いた男の、冷たい冬の夜が、まだ眠っていることを。




