祖母のチカラ
あの不思議な女性に話を伺ったとき、彼女は少し照れながら、こう言いました。
「この力は、母の血筋だと思うんです。でも、父の母――おばあちゃんにも、不思議なチカラがあったみたいで。そういう意味では、私ってサラブレッドなのかも、って」
軽口のように言いますが、その目は、どこか真剣でした。
今回、皆さまにお伝えするのは、その父方の祖母にまつわる、二つのお話です。
一つは、命を救った話。
もう一つは――家を滅ぼした話です。
――――――
〈黒い影のこと〉
彼女の父、芳雄さん(仮名)は、聡明な方でした。
地方の大学を卒業した後、就職せずに起業の道を選びました。着目したのは、その地域では欠かすことのできない、しかし他の土地ではあまり商売として広まっていない、ある業種です。
ニッチではあるけれど、確実な需要がある。若い芳雄さんの目には、そこにはっきりとしたビジネスチャンスが見えていました。
周囲の反対を受けながらも一念発起した芳雄さんの事業は、若くして軌道に乗り始めました。少しずつ従業員も増え、地域の中で着実に信頼を築いていきました。
将来に希望を持ち始めたころ――芳雄さんは、病に倒れました。
それは、かかってしまうと七割、場合によっては八割を超える患者が命を落とすとされる病気でした。当時の医療では、治療の手段も限られていました。
懸命に治療を受けますが、病は一向に回復の兆しを見せません。
芳雄さんが入れられたのは、六人部屋でした。
命の危機が差し迫った患者ばかりが、同じ部屋に押し込められている。そういう部屋です。
当時の病院ですから、カーテンで仕切られてはいても、隣の寝息も、咳も、夜中のうめき声も、すべて筒抜けでした。窓枠は木で、隙間から冬の風が細く入ってきたそうです。
まだ結婚前でしたから、付き添うのは母親――つまり、彼女の祖母ただ一人でした。
祖母は昼間は病室を離れ、夜になると泊まり込みで芳雄さんのそばにいました。
入院から日が経つにつれ、同室の患者が一人、また一人と亡くなっていきます。
朝になると、シャッ、とシーツを剥がす音がして、カラカラと空のベッドが運び出されていく。昼過ぎには、また新しい方が入ってくる。
その繰り返しでした。
芳雄さんの家族は医者に詰め寄りました。何か手はないのかと。しかし、医者にできることには限界がありました。
小康状態が続いてはいるものの、いつまた病状が大きく悪化するか分からない――そんな緊張した日々が続いていました。
そんな状況が続いた、入院からおよそ一週間後のことです。
芳雄さんの病状は峠を越え、その後、驚くほど順調に回復していきました。
その一週間のあいだ、病室で何が起きていたのか。
後に孫が生まれ、祖母から聞いた話が、これです。
――――――
祖母が初めて病室に入ったとき、部屋の隅に、何かがいました。
黒い、人の形をした影のようなもの。
窓から差し込む光を受けても、反射しません。むしろ、そこだけが光を吸い込んでいるように、濃い。壁に貼り付くようにして、じっとそこに立っていたそうです。
誰も、それを見ていませんでした。
看護婦も、医者も、他の患者の家族も、その隅の前を平気で行き来していました。
祖母は、思ったといいます。
「こりゃいけないね」と。
その夜から、寝ずの番をすることを決めました。
消灯のあと、病室は静まり返ります。
点滴が、ポタ……ポタ……と規則正しく落ちる音。誰かのいびき。廊下を通る看護婦のスリッパが、ペタ、ペタと遠ざかっていく音。
祖母は、芳雄さんの枕元の丸椅子に腰かけ、部屋の隅を見つめていました。
真夜中を過ぎ、そろそろ二時に差し掛かる頃。
その影が、動きました。
足音はしません。衣擦れの音もしません。
病室の中をゆっくりと見回るように移動し、やがて、誰かの足元に立ちました。
そして――足元から、ゆっくりと体を伸ばし始めたのです。
水が、逆さに流れていくように。
膝。腰。胸。
そして、顔の上へ、覆いかぶさる。
じっと、覗き込む。
その瞬間、その患者の寝息が、ふっと軽くなりました。
――重い荷物を、ようやく下ろしたような。
そして、影はスーッと消えました。
翌朝、その患者は亡くなりました。
誰かの足元に立つ。覆いかぶさる。覗き込む。消える。そして朝になると、その人はいなくなっている――。
祖母は、それを見て確信しました。
絶対に、息子に指一本触れさせてはいけない、と。
後に孫娘が、おずおずと聞いたことがあるそうです。
「鎌とか、持ってたの」
祖母は首を振りました。
「そんなものは持ってなかったよ。ただ、じっと見てるんだ。命の灯火が消えそうな人を、選んでるんだね、きっと。……そしてね、選んだ人のところに行って、連れて行くんだよ」
死神、という言葉が頭に浮かびます。
祖母自身はそう呼びませんでしたが、その振る舞いはまさに、そういうものでした。
祖母は考えました。このまま放っておけば、芳雄の命が取られる。あの影は、必ずそうしにくる、と。
――――――
二日目の夜、影は動きませんでした。
祖母は椅子に座ったまま、ただじっと、部屋の隅を見続けました。
夜が明けると、腰から下の感覚がなくなっていたそうです。
三日目の夜のことです。
静まり返った病室の中、点滴の音と、患者たちの寝息だけが聞こえています。祖母は芳雄さんの枕元の椅子に座り、うとうともせず、今夜こそ来るという予感とともに、部屋の隅を見据えていました。
真夜中を過ぎたころ、黒い影が動きました。
ゆっくりと、しかし迷いなく、芳雄さんの足元に向かってきます。そして、いつものように足元に立ちました。
祖母は気持ちを落ち着けました。椅子に座り直し、ギッ、と小さく脚が鳴ります。
その黒い影を、正面から見据えました。
影はそれを意に介しません。ゆっくりと体を傾け、芳雄さんの顔へ向かって伸びてきます。
祖母は静かに、しかしはっきりと、影に向かって言葉を放ちました。
「あっちいけ。あっちいけ。この子は連れて行くもんじゃない」
するとその影は、一瞬止まり――すっと足元の高さまで縮みました。
しかし、また伸びてきます。
祖母はまた同じ言葉を繰り返しました。言葉を受けると影はまた縮む。しばらく間を置いて、また伸びてくる。祖母はまた追い払う――。
その繰り返しが、夜明けまで続きました。
空が白み始めると、黒い影はゆっくりと部屋の隅に戻っていきました。
その夜、芳雄さんは無事でした。
朝の回診に来た看護婦が、祖母の顔を見て、少し驚いた顔をしたそうです。
「お母さん、少し寝られたほうが」
祖母は「ええ」とだけ答えて、笑ったといいます。
――――――
四日目の夜。
疲れは、すでに体の芯まで沈んでいました。それでも祖母は、気力を奮い立たせて、椅子に座って夜を守りました。
その夜、黒い影は芳雄さんの足元には来ませんでした。
代わりに、向かいのベッドへと向かい、いつものように覆いかぶさって――消えました。
翌朝、その方は亡くなりました。
まだ若い方で、奥さんと、小さな子どもさんがいたそうです。
祖母は、胸が痛かったといいます。
けれど、声はかけませんでした。かけられる言葉が、なかったからです。
しかし、影はまだ部屋の隅にいます。今夜は違う患者を選んだだけで、次の夜はまた芳雄さんのところへ来るかもしれない。
気を抜くことは、できませんでした。
五日目の夜。
予感は当たりました。黒い影は、また芳雄さんの足元にやってきました。
祖母は今度こそ、という気持ちで影に向き合います。
前の夜よりも、影の動きは速い。足元に立つや否や、するすると体を傾け、すでに腰のあたりまで顔を近づけてきます。
明らかに、踏み込んできている。
祖母は声を強めて、言葉を投げつけました。
「あっちいけ。あっちいけ。この子は違うよ。連れっちゃいけんよ」
怒りとも、懇願とも取れる、しかし決して揺るがない声でした。
影は一瞬止まりましたが、また近づいてきます。祖母は何度も、何度も同じ言葉を繰り返しました。
言葉を重ねるたびに、影が少しずつ押し戻される。しかし、また戻ってくる。
この攻防が、夜通し続きました。
夜明けとともに、影は部屋の隅に引き返しました。
六日目の夜。
六人部屋のベッドは、三つが空いていました。
祖母の疲労は限界に近づいていましたが、気持ちだけは強く持ち続けていたといいます。今夜が正念場だという、根拠のない確信がありました。
黒い影は、また芳雄さんの足元に来ました。
そして今夜は、これまでで最も素早く、体を伸ばしてきました。
膝。腰。胸。
もうすぐ顔に届く、というところまで、一気に覆いかぶさってきます。
祖母は、立ち上がりました。
椅子を蹴るようにして立ち、芳雄さんと影のあいだへ割って入るように体を乗り出し、触れることのできないその影に向かって、両の手を突き出しながら、叫びました。
「あっちいけ! あっちいけ! この子に触れちゃダメだ!」
六十を過ぎた女の声とは思えなかった、と、同室の家族が後に話していたそうです。
そのときでした。
影の、顔にあたるはずのあたりが、ゆっくりと、祖母のほうを向いたのです。
目はありません。鼻も、口もありません。
それでも祖母には、はっきりと分かったといいます。
――見られている。
祖母は、目を逸らしませんでした。
どれくらい、そうしていたのか。
やがて影は、ずるりと後ろへ下がり、部屋の隅へ戻っていきました。
祖母はそのまま、夜明けまで、何度も何度も同じ言葉を繰り返したそうです。
そして翌朝――部屋の隅から、黒い影は消えていました。
その日を境に、芳雄さんの病状は急速に回復し始めました。医者も首をかしげるほどの回復ぶりで、ほどなく退院することができたといいます。
――――――
後年、祖母は孫娘に言いました。
「私があの日、頑張らんかったら、あんたは生まれとらんかったとよ」
彼女はそれを聞いたとき、なんと言葉を返せばいいか分からなかった、と話してくれました。
ただ、おばあちゃんの手を、ぎゅっと握ったのだそうです。
乾いていて、指の節が太くて、いつも少しだけ冷たい手だった、と。
その手が、あの影を押し返したのです。
――――――
〈座敷わらしのこと〉
命を救う力が、家を滅ぼすことがあるとしたら――。
そんな話も、教えてくれました。
九死に一生を得た芳雄さんは、退院後、事業を再開しました。従業員を抱え、地域の中で信頼を築き、着実に会社を大きくしていきました。
やがてある女性と結婚し、男の子と女の子に恵まれます。この女の子こそ、私に不思議なお話を伝えてくれた、あの人です。
少女が物心ついたころ、家は広い屋敷でした。
彼女が覚えているのは、断片だけです。
どこまでも続くように思えた、冷たい板張りの廊下。走ると、パタ、パタ、と音が跳ね返ってきました。
庭の隅にあった、白壁の蔵。重い扉を押し開けると、ひやりとした、埃と藺草の入り混じった匂いがしたこと。
台所には、いつも誰かがいました。母でも祖母でもない、名前も覚えていない、割烹着の女の人たち。
少女にとっては、それが当たり前の家でした。
しかし、まだ幼かったある時期を境に、事業は急激に傾き始めます。
きっかけは、芳雄さんが連帯保証人になっていた友人の夜逃げでした。多額の借金が一夜にして芳雄さんの肩にのしかかり、返済のために会社の資産を処分しなければならなくなりました。
やがて倒産。あの広い屋敷も、手放すことになりました。
その後、芳雄さんは再び立ち上がり、家族は元通りに近い生活を取り戻すことができました。
ただ、今でも家族の間で、そっと語られることがあります。
「あのとき、おばあちゃんが座敷わらしを追い出さんかったらな」と。
こういうことがあったそうです。
――――――
ある年の、お正月のことでした。
祖母は家族の誰よりも早く起きました。お正月といえど、家事に手を抜く人ではありません。
外はまだ暗く、台所の窓ガラスは、内側から白く曇っていました。
コト、コト、と鍋の蓋が鳴ります。火鉢の炭が、パチ、と小さく爆ぜました。
お雑煮の支度を整え、さあ居間のコタツへ運ぼうと、盆を持って廊下へ出た、そのときです。
居間のほうから、声が聞こえました。
キャッ、キャッ、と、幼い子どもが笑う声。
タ、タ、タ、タ、と、畳の上を小さな足が回る音。
――誰も、起きているはずのない時間でした。
襖を開けると、コタツの周りを、幼い女の子がくるくると回っていました。
着物を着て、髪をきれいに揃えた、今まで一度も見たことのない子です。
祖母は、カッとなりました。
近所の子どもが上がり込んで暴れている――そう思ったそうです。元旦の早朝から、他人様の家の中で騒いでいる。
祖母は声を荒らげました。
「うるさい! あっちにいけ!」
激しい言葉を、幼い女の子に投げつけます。
その声を受けると、女の子はコタツから逃げるように走り去り、廊下を抜けて、玄関のほうへ消えていきました。
あとになって、祖母は気づいたそうです。
――あの重い引き戸が、開いた音も、閉まった音も、しなかった。
冬の朝です。戸が開けば、冷たい風が廊下まで走り込んでくるはずでした。
けれどその朝、廊下の空気は、少しも動かなかったのです。
祖母はそのとき、深くは考えませんでした。
あの子はどこへ行ったのか。そもそも、何者だったのか。
ただ、静かになった居間にひとり座り、お雑煮の椀を、コタツに並べたといいます。
湯気が、四つ。誰もいない部屋で、静かに立ちのぼっていました。
それからほどなく、半年も経たないうちに、芳雄さんは多額の借金を背負うこととなり、事業に暗雲が立ち込め始めました。
――――――
彼女が覚えているのは、やはり、断片だけです。
蔵の中が、少しずつ空になっていったこと。
台所にいた女の人たちが、いつのまにか来なくなったこと。
庭の木が、ある日、根元から切られていたこと。
そして最後に一度だけ、あの長い廊下を、思いきり走らせてもらったこと。
誰も、叱りませんでした。
引っ越しの日、祖母は玄関の前に、長いこと立っていたそうです。
何を見ていたのか、誰も聞きませんでした。
後になって、家族は気づきました。そして、今では口を揃えて言います。
「あれは、座敷わらしだったんだよ」と。
座敷わらしは、家に福をもたらす存在です。その家に居ついている間は、家は栄え、商売は繁盛し、家族は健やかでいられる。
しかし、追い払われたり、怒らせたりすると――去っていく。そして家の運も、ともに消える。
祖母は、そうとは知らず、追い払ってしまったのです。
あの夜、病室で黒い影に向かって何度も繰り返したのと、まったく同じ言葉で。
――――――
この二つの話、偶然といえば偶然です。
死神のような存在を、たった一人の女性が言葉ひとつで追い払うなど、そんなことが本当にあり得るのか。座敷わらしを怒鳴りつけたら家が傾くなど、そんな話が事実であるはずがない――そう思う方もいるでしょう。私自身も、理屈の上では、そう思います。
ただ、この二つの話を並べて考えたとき、私の中に、ひとつのことが浮かび上がってくるのです。
祖母が黒い影に向かって放った言葉と、座敷わらしに向かって放った言葉は――同じ言葉でした。
――あっちいけ。
一方は、息子を救いました。
もう一方は、家を傾けました。
言葉そのものに力があったのか。それとも、その言葉に込められた重さが、何かを動かしたのか。
思うのです。人の言葉というのは、ただの音ではないのかもしれない、と。
重い魂が乗れば、言葉はそれだけの力を持つ。神にも匹敵するような存在を、一歩下がらせるほどの力を。
ただし――その力は、相手を選びません。
祖母は、悪いことをしたわけではありません。ただ、知らなかっただけです。目の前にいる幼い女の子が、何者かを。
あの病室で、祖母は、確かに見えていました。
けれど、見分けては、いなかったのです。
部屋の隅にいたものは、追い払うべきものでした。
元旦の居間にいたものは、迎えるべきものでした。
祖母には、その違いが、分からなかった。
見える力と、見分ける力は、どうやら、別のものであるようです。
――そして。
これは余計なことかもしれませんが。
あの人がいつか、もう猫の言葉も分からなくなってしまったのだと、寂しそうに笑ったことを、私は思い出しています。
見える力は、この家の血に、確かに流れている。
けれど、見分ける力のほうは。
……まだ、届いていないのかもしれません。




