動物と話せる少女
私の知人に、不思議な力を持った女性がいます。
いや、正確には――不思議な力を持っていた女性が、います。
今も元気に生きていますし、私とも仲良くしてくれています。ただ、その力は、ある出来事をきっかけに封印されてしまったのだと、彼女自身が言うのです。
大人になった今では、あの力はあったほうが良かったのか、無くて良かったのか。少し懐かしむように、そう話してくれたのが、印象に残っています。
もっとも、その「ある出来事」が何だったのかを、彼女はなかなか話してくれませんでした。聞かせてもらえたのは、ずいぶんあとになってからのことです。
彼女は幼い頃、自分でもどうしてそんなことができるのか、と思うようなことが、いろいろとできたそうです。そして、彼女だけではなく――その頃の彼女の周りには、ふしぎなことが、ごく当たり前のように転がっていたのだと言います。
はじめにその話を聞いたとき、私は驚くよりも、ワクワクとしました。怖い話というより、どこか懐かしくて、温かくて、それでいて説明のつかない話。そういう話が、私は昔から好きなのかもしれません。
これは、そんな私がワクワクした話の、ひとつです。
――――――
彼女が、小学校の頃のお話です。
彼女は、猫が大好きな少女でした。
生まれたときから家には猫がおり、近所にもたくさんの野良猫、外飼い猫がいたそうです。猫の気持ちが、なんとなく分かる。自分が近づいても逃げない。撫でさせてくれる。そういうことが重なるうちに、自然と猫と気持ちが通じているような気がしていったと言います。
逆に、犬に対しては、どうしても苦手意識が拭えませんでした。
どんなに小さな犬でも、キャンと吠えられるだけで、まるで噛まれてしまったような気になる。体が竦んで、足が止まる。だから、犬のそばにはできる限り、近づかないようにしていたそうです。
ある日、そんな少女の通学路に、変化が起きました。
途中の一軒家に、中型の雑種犬を飼うお宅が引っ越してきたのです。
黒っぽい体に、垂れた耳。見た目はおとなしそうな犬でしたが、見知らぬ人間が前を通ると、鎖の届く限り身を乗り出して、激しく吠えたてる。
ジャラッ、ジャラッ。
鎖が引き絞られる音と一緒に、ウォンッ、ウォンッ、と、腹の底に響く声が飛んでくる。胸のあたりを平手で叩かれるような、そんな声でした。
その道は、学校までの最短ルートでした。少し遠回りをすれば、別の帰り道もないわけではありません。
でも、なんだかその犬に負けた気がして。迂回するたびに、ほんの少しずつ、気持ちが重くなっていく。ランドセルの中身は変わらないのに、肩紐だけが日に日に食い込んでくるような。自分ではどうすることもできない悔しさが、じわじわと積もっていました。
少女には、困ったことがあると相談する相手がいました。
近所のブロック塀の上を寝床にしている、半野良の猫――ハナコです。
白地に黒のブチが散った、少し薄汚れた雌猫。鼻の上にだけ、墨をひと刷毛置いたような黒い模様がありました。だから、ハナコ。少女が勝手につけた名前です。
学校の宿題が多くて憂鬱。お母さんに頼まれたお手伝いが面倒くさい。友達と、ちょっとぎこちなくなってしまった――そういったことを、少女はハナコに話すのでした。
ハナコはいつも、塀の上からゆったりとした目で少女を見下ろし、「しょうがないわよ、がんばんなさい」と言っているように感じた、と。そのまなざしが、なんとなくそう言っているように思えたのだそうです。
その日も、少女はいつもの定位置にいるハナコに相談しました。あの犬のこと。あの道のこと。毎日少しずつ憂鬱になっていること。
夕方でした。塀のコンクリートは、日中の熱をまだ抱えていて、少女が手をついた場所だけが、じんわりと温かかったそうです。
少女が真剣なまなざしで話すと、ハナコはいつもより少し身を乗り出すようにして、聞いていました。
そして聞き終わると、「それは納得いかないわね」と言っているような目で、こちらを見た――少女には、それが分かったと言います。
次の瞬間。
トーン。
ハナコは塀からアスファルトへ降り立ちました。
そして、のっしのっしと、問題のお宅のほうへ向かって歩き始めたのです。
「え、どうするの?」
少女は一瞬戸惑いましたが、いつも相談に乗ってくれるハナコのことです。問題解決に一肌脱いでくれるのかな、と、素直についていくことにしました。
すると、不思議なことが起きました。
ハナコと少女が歩き出すと、どこからともなく、近所の猫たちが一匹、また一匹と現れて、後ろについてくるのです。
塀の陰から。縁側の下から。路地の奥から。
魚屋の裏にいるキジトラ。いつも日向で寝てばかりいる、年寄りの白猫。片方の耳が半分ちぎれた黒猫。
どの子も、鳴きもしません。肉球の音すらしない、静かな行列でした。
気がつくと、ハナコを先頭に、八匹の猫と少女という一団になっていました。
――あとになって、彼女は数えてみたのだそうです。
あの頃、近所で見かけたことのある少女の知る猫は、六匹だけでした。
残りの二匹が、どこから来たのかは、分かりません。
問題のお宅の前にさしかかると、鎖につながれたその犬が、気配を察して立ち上がりました。いつものように激しく吠えたて、鎖をいっぱいに引っ張って、身を乗り出してくる。
ジャラッ。ウォンッ、ウォンッ。
しかし、ハナコは止まりませんでした。
むしろ、ゆっくりと犬に向かって歩み寄り、その正面に立ちました。後ろの猫たちも、じっとしたまま動きません。
そして――
シャーッ。
ハナコが一発、威嚇しました。
それだけです。
たったそれだけで、犬はピタリと鳴き止みました。
すとん、と腰を落とし、耳を伏せて、その場に座り込んでしまったそうです。
それからというもの、その道を少女が通るとき、その犬は一度も吠えなくなりました。
いえ、正確に言えば――少女が近づくと、耳を伏せて、顔をそむけるようになったのだそうです。
猫の一団は、用が済んだとでもいうように、それぞれ思い思いの方向へ散っていきました。
ハナコだけが少女のそばに残って、一緒に少し歩いてから、いつものブロック塀の上へと、ひらりと戻っていったそうです。
――――――
また、少女はカラスとも話ができた――と言います。
ある日、学校へ行く途中で、ハンカチを落としてしまったかもしれない。少女がそう気づいたのは、学校に着いてからでした。
確かめると、ポケットに入れたはずのお気に入りのハンカチが、どこにもありません。四つ角に細いレースの縫いつけられた、水色のハンカチでした。
落とし物というのは、気になりだすと止まりません。その日は授業中も、ハンカチのことが頭から離れませんでした。授業の内容がまるで入ってこない。先生の声が、水の向こうから聞こえてくるようでした。
帰り道は、いつもより時間をかけて、探しながら歩きました。道の端。溝の中。草の陰。
行きと同じ道を、倍以上の時間をかけて歩きましたが、どこにも見当たりません。
誰かに拾われてしまったのか。水路に落ちて、流されたのか。風に吹かれて、どこかへ飛んでしまったのか。
自宅近くの公園まで来たとき、少女は半ば諦めて、ブランコに腰を下ろしました。
キィ、と錆びた鎖が鳴きます。漕ぐ気持ちにもなれず、地面に足をつけたまま、うつむいて、ハーッと一つ、大きなため息をつきました。
「もう、見つからないのかな」
そのとき、バサ、と羽の音がして、一羽のカラスが、すぐそばの地面に降り立ちました。
近所のゴミ収集所でよく見かける、あのカラスかしら――そう思いながらも、本当のところはよくわかりません。
それでも少女は構わず、話しかけました。
「ねえ、私のハンカチ、知らない?」
カラスは、少し首をひねる仕草をしました。
そして、「知らないけど、探しておくよ」とでも言うように感じた――少女には、そう聞こえたそうです。
あまり期待はしませんでした。カラスに頼んでも、と自分でも思っていたそうです。
それでも、「お願いね」と言って、少女は家へ帰りました。
翌日、登校しながらも、また探しました。もちろん、どこにも落ちていません。いよいよ諦めるしかないか、と気持ちを切り替えながら、一日を過ごしました。
帰り道です。
昨日よりもさらに諦めた気分で歩いていると、道の端でカラスが一羽、カーッと鳴きました。
そちらへ目を向けると――ハンカチが、ありました。
昨日の帰り道にも、今日の行き道にも、確かに通った場所に。
一枚のハンカチが、きれいに畳まれて、置いてありました。
少女が顔を上げると、カラスはもう、そこにはいませんでした。
自分が見落としていただけなのか。カラスが見つけて、知らせてくれたのか。それは分かりません。でも少なくとも、カラスが鳴いた場所に、ハンカチはありました。
――当時の少女は、それを喜んで、そのままポケットにしまったそうです。
カラスは、ハンカチを畳めません。
そのことに気づいたのは、ずいぶん大人になってからだ、と彼女は言いました。
――――――
自分は、どこまでの生き物と意思疎通ができるのか――少女は、試してみたくなりました。
まず、虫に声をかけてみました。
お兄さんが夏休みに捕まえてきた、虫かごのカブトムシです。切ったスイカと、湿った腐葉土の匂いのする、あの虫かご。
「こっちへおいで」
カブトムシは、微動だにしません。何かが返ってくる感覚も、ない。何度試みても、同じでした。
しばらく待っていると、ガサッ、と音を立てて、それは腐葉土の中へ潜っていってしまいました。
虫は、難しいようです。
次に、犬に挑戦してみました。猫と同じくらい知能があるように見えますし、ものを覚えるのも得意だと聞きます。
しかし、ご存知のとおり、少女には犬への苦手意識があります。近づこうとすると、こちらが緊張してしまって、うまく気持ちが向かわない。猫やカラスと話すときに感じる、あのふわりとした「繋がる感じ」が、犬とは、どうしても生まれませんでした。
これも、失敗でした。
猫とカラス以外には難しいのかな――そう思ったころ、ふと少女の目が、家で飼っている金魚に止まりました。
夏祭りの金魚すくいで持ち帰った、小さな和金です。小ぶりの水槽の底で、コポ、コポ、と、ぶくぶくの泡が上がっていました。
魚。水の中にいる、生き物。
自分の声は、水の中まで届くだろうか。そもそも、魚には耳があるのだろうか――半信半疑でしたが、餌をあげるついでに、話しかけてみました。
「ねえ、私の声、聞こえてる?」
すると、金魚がくるりとこちらを向いて、口をぱくぱくと動かしました。
あ、聞こえている。
少女は水槽の反対側に移動して、また声をかけました。
「こっちにおいで」
金魚は、ゆらりと尾を振って、少女のいる方へ泳いできました。
少女はそのとき、何かが腑に落ちたような気持ちになったと言います。
遠い誰かではなく、自分の近くにいる生き物。自分の生活の中にいる、生き物。
そういう相手となら、言葉は届く――そんな感覚だったそうです。
――――――
さて、ここまでの話は、少女が語ってくれた、ほんの一部です。
信じられない、と思う方もいらっしゃるでしょう。
私も、最初はそうでした。作り話ではないにしても、偶然の積み重ねでは、とも思いました。猫が犬を追い払うことはある。カラスは光るものや珍しいものを拾ってくることがある。金魚は、水槽の前に立つ人影に反応する。そういう説明は、いくらでもつけられます。
ただ、彼女には他にも、たくさんの逸話があります。それらはまた、機会がありましたら。
一つひとつは、偶然かもしれない。でも、それがいくつも重なると、偶然というには少し多すぎる気も、してくるのです。
――――――
さて。
ここからが、彼女がいちばん最後に話してくれたことです。
自分の近くにいる生き物になら、言葉が届く。
そう分かってからの少女は、少しばかり、調子に乗っていたのだと思います。
では、「近く」とは、どこまでだろう。「生き物」とは、どこまでだろう。
庭の柿の木に話しかけました。返事は、ありません。
道端のタンポポにも、玄関のシクラメンにも。植物は、うんともすんとも言いませんでした。
生き物でないものにも、試してみたそうです。ランドセル。目覚まし時計。お風呂場の鏡。
もちろん、何も返ってはきません。
――夏の、夕方のことでした。
その日、家には少女ひとりでした。お母さんは買い物、お兄さんは部活。西日が廊下の板の上に、細長い橙色を敷いていました。
どこかで、ヒグラシが鳴いていたそうです。カナカナ、カナカナ、と。
少女は廊下に座り込んで、ぼんやりと、家の奥のほうを見ていました。
誰もいない家というのは、少し広く感じるものです。
ふと、思いつきました。
生き物でなくても。姿が見えなくても。「近く」にいるものになら、届くのだろうか。
少女は、誰もいない家の奥に向かって、何の気なしに、声をかけました。
「ねえ。だれか、いる?」
――返事が、ありました。
なんと返ってきたのか。どこから聞こえたのか。男の声だったのか、女の声だったのか。
そこのところを、彼女はどうしても話してくれませんでした。
ただ、一つだけ、教えてくれたことがあります。
それは、猫やカラスや金魚のときのような、「なんとなく、そう感じた」ではなかったそうです。
はっきりと、耳で、聞こえた。
――――――
その翌朝から、少女には、何も聞こえなくなりました。
ブロック塀の上に、ハナコがいません。
ゴミ収集所に、カラスがいません。
金魚は、水槽の隅で、じっとしたまま動きませんでした。
三日ほど、そういう日が続いたそうです。
四日目の、学校帰り。
いつもの通学路に差しかかると、道の真ん中に、猫が並んでいました。
あの日と同じ、八匹です。
ただし、犬のほうではなく――少女のほうを、向いていました。
先頭に、ハナコがいます。
少女がゆっくり近づいていくと、ハナコは腰を落とし、背を丸め、耳を寝かせました。
生まれてから一度も、ハナコが少女に向けたことのない構えでした。
そして。
シャーッ。
一度だけ。
それきり、少女には、猫の気持ちも、カラスの声も、金魚の返事も、何ひとつ分からなくなりました。
ハナコが威嚇したのは、自分に対してだったのか。
それとも――自分の後ろに立っていた何かに対してだったのか。
いまでも分からないのだと、彼女は言います。
――――――
私は一度だけ、あの夕方に何が返事をしたのかを、聞いてみたことがあります。
彼女はいつものように、少し遠くを見るような目をして、それから、静かに話題を変えました。
あの力を、今でも惜しんでいるのか。それとも、手放せて、どこかほっとしているのか。
あの日までは、私にも分かりませんでした。
信じられるか、信じられないか――それは、皆さまのご判断にお任せいたします。
そういえば、彼女の家には、今も猫がいるそうです。
「あの子たちが何を考えているのか、今はもう、さっぱり分かりません」
そう言って笑う彼女の顔は、ほんの少しだけ、寂しそうでした。
――でも、それでいいのだと思います。
ハナコたちは、きっと、そのつもりだったのですから。




