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【短編集】日常のすき間に潜むもの  作者: めこねこ


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限界です。

 これは、知人のYさんから聞いた話です。


 Yさんはかつて、一台のスポーツカーに乗っていました。二十代の独身時代に購入し、長い歳月をかけて、自分好みに仕立て上げてきた一台です。シートも、ステアリングも、足回りも、マフラーの音さえも――そのすべてに、Yさんの手と金と時間が染み込んでいました。深夜のバイパスを流すときの、腹の底に響くあの排気音。彼にとってその車は、ただの乗り物ではなく、若い日々をまるごと積み込んだ「相棒」のようなものだったといいます。


 その相棒を手放さなければならなくなったのは、結婚して、子どもが生まれてからのことでした。


「そろそろ、家族みんなが乗れる車にしてほしいんだけど」


 奥さんの言葉は、もっともなものでした。チャイルドシートを積もうとすれば窮屈で、高い排気音に赤ん坊は怯えて泣き、低い車高は段差のたびにヒヤリとさせる。ファミリーカーへの買い替えは、もはや時間の問題だったのです。


 それでも、Yさんはどうしても踏み切れませんでした。この車だけは、手放したくない。けれど、二台目を買う余裕もない。八方塞がりのまま、日々は過ぎていきました。


 そんなある日、一枚の広告が目に飛び込んできます。


 ――あなたの車、貸しませんか。


 カーシェアリングの仲介業者の広告でした。オーナーが車を預ければ、業者が管理と貸し出しを代行し、その収益を還元してくれる。おまけに、預けているあいだのオーナーには、格安の中古車を仲介してくれるといいます。


 相棒を手放さずに済む。それどころか、毎月いくらかのお金まで入ってくる。その上、安くファミリーカーが手に入る。


 願ってもない話でした。Yさんはすぐに問い合わせの連絡を入れたそうです。


 やり取りは、主にメールで進みました。担当者の応対は丁寧で、返信も早く、不審な点は見当たらない。話はとんとん拍子にまとまり、正式な契約のために、Yさんは店舗へ足を運ぶことになりました。


──────────


 メールで案内された住所は、郊外の幹線道路沿い。カーナビにも店舗が登録されていない、ぽつんと建つ古びたプレハブの事務所でした。


 夕方の傾いた光のなか、Yさんはわずかな違和感を覚えます。カーシェアの業者を名乗るわりに、駐車場が妙に狭いのです。停まっている車も、せいぜい三、四台。とても繁盛しているようには見えません。


「今は、ほとんど貸し出し中なんですよ」


 出てきたのは、人当たりのいい五十がらみの男でした。


「それだけ需要があるってことです。どんどん回転しますから、Yさんの車も、たくさん稼いできますよ」


 なるほど、と思い直します。回転が速いから、常に貸出中。だから、駐車場には在庫が残っていない。これこそ繁盛している証拠ではないか――。違和感は、いつのまにか期待に塗り替えられていました。


 その日のうちに契約書を交わし、Yさんは相棒のキーを引き渡しました。同時に、仲介で格安のファミリーカーも手に入れます。車検も保険も整った、見た目も悪くない中古車でした。毎月の貸出収入でローンはまかなえ、少しばかりお釣りも残る計算です。


 帰り道、Yさんは久しぶりに晴れやかな気分でした。奥さんも大喜びです。家族のために、夫が決断してくれた――その横顔には、そんな喜びが滲んでいたといいます。


 これでYさん一家のカーライフは、平穏なものになる。


 ――はずでした。


──────────


 最初に気づいたのは、奥さんでした。


「ねえ。このあいだも、またあの音がしたんだけど」


 あの音、というのは、ファミリーカーに付いた安全センサーの警告音のことです。障害物に近づくと知らせてくれる、今どきの装備。三段階の音があって、近づくにつれ「近づいています」「危険です」、そして最終警告の「限界です」へと切り替わります。


 問題は、その最終警告――「限界です」が、何もないはずの場所で鳴り響くことでした。


 しかも、決まった場所で。自宅と最寄りのスーパーの途中にある、一つの交差点。その中心に差し掛かると、必ずと言っていいほど、けたたましい音が鳴るのです。障害物など何もない、ただ開けた十字路。なのに、まるで目の前に何かが立ちはだかっているかのように――限界です、限界です、限界です、と。


 スーパーへ行くには、その交差点を通らなければなりません。行きに一度、帰りに一度。買い物のたびに、一家は少なくとも二回、あの音を聞かされることになりました。


 Yさんは知り合いの整備士に車を持ち込みました。けれど、センサーに異常はない。配線も正常、本体も問題なしとの説明を受けます。「走行環境によっては誤作動することもありますが、原因の特定は難しいですね」と言われるばかりです。


 その頃から、奥さんの顔色が、少しずつ変わっていきました。


 ある夜、子どもを寝かしつけたあとで、奥さんが静かに切り出しました。声は穏やかなのに、妙な固さがあったといいます。


「ねえ、あの車……どこか、おかしくない? 乗ってると、なんだか変な気持ちになるの。あの音が鳴るたび、胸のあたりがざわざわして。嫌なものが、すぐそこにいるみたいで」


 実は、Yさんにも心当たりがありました。ハンドルを握るたび、根拠のない不安が押し寄せてくるのです。うまく言葉にはできないけれど、あえて言うなら――事故を起こしそうな予感。何かに追い立てられ、追い詰められていくような、薄暗い焦り。


 気のせいだと思い込もうとしました。でも、毎日続けば、そうもいきません。


──────────


 Yさんは改めて、整備士のもとを訪ねました。


「センサーに異常がないのは分かりました。でも、ほかに何か、変なところはありませんか」


 整備士はしばらく考えてから、確かめるように聞き返しました。


「一つ、いいですか。この車、Yさんが初めてのオーナーじゃ、ないですよね」


「ええ、中古ですから」


「ですよね。実は、おかしいなと思ってたんですよ。――ボンネットの裏、見ました?」


 整備士がボンネットを開けます。購入のとき一度開けて、カーシェアの店主とエンジンを確認して以来、Yさん自身は触れたことのなかった場所です。整備士は、エンジンではなく、ボンネットの裏側を、そっと指差しました。


 そこに、一枚の御札が貼られていました。


 ただの御札ではありません。近所の神社で配るような、薄い紙のお守りではない。厚みがあり、墨の色は深く、何か圧のようなものを帯びている。見ているだけで、背筋がひやりとする――そういう類のものでした。


「これは……そのへんで手に入るものじゃ、ないですよ」


 整備士は声を落として、続けました。


「正直に言います。ほかも見せてもらいました。この車、たぶん事故車です。それも、かなり大きな事故を起こしている。フロントの右側と、フロントガラスが交換されています。かなりしっかり直してありますけど、見れば分かります」


 Yさんは、何も言えませんでした。


 自分の車が、誰かを撥ねたのか。それとも、誰かを乗せたまま、何かに激突したのか。フロントの右側と、フロントガラス。何があったのか、嫌でも想像がついてしまいます。


 胃の底が、すっと冷えました。そしてその冷たさは、ゆっくりと怒りへ変わっていきました。重大な瑕疵を隠して車を売りつけた業者への、まっすぐな怒りです。


 Yさんはその足で、業者の事務所へ乗り込みました。


 ところがオーナーは、Yさんの顔を見ても、驚くほど動じませんでした。それどころか、ほかでもなく、こう口にしたのです。


「ああ……あの御札でも、だめでしたか」


 聞けば、その中古車も、もとは誰かが預けていたカーシェアの車だったといいます。貸し出した先で事故が起きたため、元のオーナーが手放した。だから修理して、格安の中古として売りに回した――そういうことらしい。


「御札を貼っておけば、大丈夫だと思ったんですがねえ。効かないとなると、もっとちゃんとしたお祓いが、要りましたか」


 男は、どこか呑気な口ぶりでつぶやきました。


 Yさんは愕然とします。そして、ふと、背筋が凍るような考えがよぎりました。


 ――では、今、自分が預けている相棒は。あの車は、今どこで、誰に、何のために使われているのか。


「この中古車は、買い戻してくれ。そして、俺の車も返してくれ」


 オーナーは、あっさりと頷きました。


「ちょうど今、貸し出し中でしてね。明日の朝には戻りますよ。明日、取りに来てください」


 その日は、それで話が終わりました。


──────────


 帰り道、Yさんの足取りは重いものでした。御札のことや、あの事故の痕跡のことを、奥さんにどこまで話すべきか。考えた末、最低限だけ伝えることにします。


「買った中古車が、事故車だって分かった。業者が買い戻してくれる。前の車も、いま返してもらう手配中だ。それが戻ったら、ちゃんと下取りに出して、新しいのを探そう」


 奥さんは渋い顔をしましたが、最後には頷いてくれました。


 夕食の席では、テレビがニュースを流していました。各地で相次ぐ強盗事件の報道のあと、近頃急増しているという「トクリュウ」――匿名で流動的な犯罪グループの特集が流れます。続いて取り上げられたのは、昨年世間を賑わせた「高級腕時計レンタル詐欺」の裁判の行方でした。客から高級腕時計を「レンタルする」と言って預からせ、そのまま転売してしまう手口です。


 Yさんは、ぼんやりとそれを眺めていました。


 ――明日にならないと分からないが、自分の車は、こういう転売詐欺のような目に遭わずに済んで良かった。変な業者ではあったけれど、契約書もあるし、事故車だとしても手元には別の車もある。さすがに、そこまではないだろう。


 そう自分に言い聞かせて、その夜は眠りにつきました。


──────────


 翌日、約束の時間に店へ向かうと、オーナーはにこやかに出迎えてくれました。そして約束どおり、相棒の返納と、事故車の買い取り手続きが進みます。


 久しぶりに愛車のハンドルを握ると、やはり、よその誰かが長く運転したあとの、微妙なクセのようなものが染みついている気がしました。シートの位置も、ほんの少しずれている。それでも、ボディに傷はなく、エンジンも快調です。久々に聞く高い排気音に……Yさんは、ひとまずホッとしました。


 念のため、ボンネットも開けてみます。もちろん、御札などどこにもありません。


 Yさんは安堵しました。これで一件落着だ――そう思いながら、相棒を走らせて、自宅マンションの駐車場へと向かいます。


 ところが、敷地に入ったところで、Yさんは異変に気づきました。


 パトカーが、何台も停まっているのです。


 玄関のあたりには、制服姿の警官が立っている。心臓が跳ね上がりました。奥さんに、子どもに、何かあったのか――。慌てて車を停め、エレベーターで駆け上がると、自宅の前で、奥さんが警官と何か言い合っていました。


「車の所有者の方は、どちらに」

「ご主人の、行方は」


 Yさんは、前へ進み出ます。


「私が夫ですが、何でしょうか」


 警官は、Yさんの顔を確かめてから、落ち着いた声で言いました。


「ナンバープレート〇〇番の車のオーナーは、あなたで間違いありませんね」


 何度かの確認を経て、Yさんは警察署への任意同行を求められました。


 事情は、こうでした。前夜、隣り合う二つの県にまたがる三か所で、立て続けに強盗事件が起きた。手口はいずれも似通っていて、防犯カメラと目撃証言から、犯行に使われた一台の車が特定された。そのナンバーを照合した先に、Yさんがいた――というのです。


「ただ、犯人の身体的特徴は、あなたとは一致していません。昨夜のアリバイも、奥さんの証言で取れています」


 警官はそう前置きして、続けました。


「ですが、犯行グループは、トクリュウ系の組織である可能性が高い。彼らは犯行に使う車を、何も知らない第三者から調達することがあるんです。あなたが、車を貸し出す側として関わっていなかったか。それを、確認させてください」


 Yさんは、すべてを話しました。広告のこと、業者のこと、メールのやり取り、契約のこと。相棒を預け、中古のファミリーカーを買い、今朝それを返してもらったばかりだということ。


 話を終えると、Yさんは警察とともに、業者の事務所へ向かいました。


──────────


 あのプレハブは、まだそこにありました。


 けれど、中に人の姿はありません。停まっていたはずの車も、すべて消えている。事務机も、商談をしたソファーも、書類も、コーヒーを淹れてくれたコーヒーメーカーも――何もかもが、まるで初めからそこには何もなかったかのように、なくなっていました。


 残っていたのは、古いプレハブの、がらんとした骨組みだけ。


 警察が周りを調べているあいだ、Yさんはその空っぽの空間に、立ち尽くしていました。


 ここで、あの男と話した。ここで、契約書にサインをした。ここで、相棒のキーを、この手で渡した。


 それだけは確かなのに、それを証明するものは、何ひとつ残っていない。


 Yさんの頭の中を、いくつもの問いが巡りました。


 あのファミリーカーは、ボンネットの裏に御札が貼られていた。フロントの右側と、フロントガラスが交換されていた。つまりあの車は、右正面から何かに――誰かに――ぶつかったのだ。交差点で鳴り続けた、あの「限界です」は、いったい何に反応していたのか。


 そして、自分の相棒は。三件の強盗に使われたことだけは、分かった。


 ――けれど、それだけだったのか。


 ふと、Yさんは思い至ります。


 あの業者は、事故のあったファミリーカーには、御札を貼っていた。曲がりなりにも、何かを抑え込もうとしていた。けれど、自分の相棒には、御札はなかった。きれいなまま、傷ひとつなく、戻ってきた。


 ――いや。御札がなかったのは、何も起きなかったからではないのかもしれない。私が返却を迫ったために、あの男が、それを貼る間もなく姿を消したからではないのか。


 あの車が、強盗の夜にどこを走り、誰を乗せ、何をしたのか。それを抑えるものは、もう、どこにもない。


 いまYさんの手元に、相棒はありません。あの一件のあと、ようやく決心がついて、下取りに出したのです。傷ひとつない、きれいなまま。何の説明書きも、付けずに。


 ――ちょうど、あの男が、Yさんにそうしたように。


 Yさんは、時々思い出すそうです。


 久しぶりにエンジンをかけたときの、あの高い排気音。腹の底に響く、若い日々の音。そして――。


 弾むはずの心が、あのとき、なぜあんなにも重く沈んだのか。


 その理由を、Yさんはいまだに、考えないようにしているといいます。

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