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【短編集】日常のすき間に潜むもの  作者: めこねこ


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4/13

水神さまのお節介

 私の家の近くに、こんこんと水が湧き出る池を抱えた公園があります。


 散歩で立ち寄るたびに、底まで透けて見えるほど澄んだ水が絶え間なく湧き上がっているのを眺めて、自然の静かな力を目の当たりにしているような、不思議な気持ちになります。


 その散歩の途中で、ときどきお会いするのがDさんです。同じく近所に住む方で、いつもお一人で、ゆっくりと歩いておられます。はじめのうちは近寄りがたい雰囲気があって、私は遠くから会釈をするだけでした。


 ある日、池の畔の小島に祀られた祠へ、気まぐれで手を合わせていたとき、ちょうどDさんが傍らへいらっしゃいました。「あなたも来るんですか」と、少し驚いた様子で。そこから言葉が増えていき、今では立ち話をする仲になりました。


 この祠を掃き清めている方のひとりが、Dさんだったのです。


――――――


 Dさんは、七十代に見えるご老人です。


 数年前に奥様を病気で亡くされ、それからは毎朝この祠を掃き清めることが日課になったと、話してくださいました。仕事はとうに引退し、子どもたちもとうの昔に独立して、家にはひとり。朝、目が覚めても、特にやることがない。「健康のために」と言いながら、どこかその言葉を言い訳にするような表情で、毎朝、公園へ向かうのだと。


「最近は世話をする人も減ってきましてなあ。私も、いつまで続けられるか分かりませんけん、どなたかに引き継いでもらいたかとですがなあ」


 その言葉を聞いて、私は正直、少し尻込みしました。


 けれど後日、いつもの気難しそうな表情ではなく、どこか照れくさそうに顔をほころばせたDさんが「実はね……」と話してくださった出来事を聞いて、少しだけ前向きに考えてみようと思ったのです。


――――――


 その湧水公園は、公園と呼ぶには少し大きすぎるほどの場所です。市の小さな施設と、広い芝生のグラウンドが併設されており、その一角に、水の湧き出る池と、木々が植えられた静かな区画があります。


 夏になれば、子どもたちは池から溢れ出す湧水を引いた浅い用水路へ足を突っ込み、昆虫を追いかけ回します。遊具のそばでは、近所の保育園の小さな子たちが歓声を上げています。


 夜になれば街灯が公園を明るく照らし、サッカーボールを蹴る親子、並んでランニングするカップル、ベンチで夕涼みをするご老人と、一日中、誰かしらが訪れる賑やかな公園です。


 池は半径二十メートルほどの丸い形をしており、真ん中あたりの小島に、小さな祠が建てられています。人がひとり渡れる幅の橋が架かっていて、そこを渡って、祠のもとへ行くことができます。


 祠に何を祀っているか、明記されているわけではありません。ただ、水が湧き出る場所に祀られているのだから、水神様だろうと、私は思っています。


――――――


 Dさんは毎朝、清々しい朝の空気を独り占めするように、その公園へ通っていました。


 たまにご近所の同年代の方と挨拶を交わし、水神様に手を合わせ、家に帰る。何事もなく過ぎていく毎日。寂しさを抱えながらも、ただ淡々と続く、穏やかな日々でした。


――――――


 ある春先の朝のことです。


 まだ空気が冷たい時間に公園へ行くと、池の水面に、薄い霧がかかっていたそうです。その霧が風に押されてゆっくりと流れていく様子を見ていると、まるで池そのものが呼吸しているように思えたといいます。毎日通っていると、水面の揺れ方ひとつで「今日は機嫌がいいのか」「少し眠いのか」、そんなことまで感じ取れるような気がするのだと、Dさんは笑いながら話してくれました。


 Dさんはいつものように、竹箒で落ち葉を払い、小さな石畳を整えました。最後に手を合わせながら、首から下げた奥様の形見の結婚指輪をそっと取り出して、手のひらに包む。そうすると、奥様と一緒にお参りしているような気持ちになれる。毎朝繰り返されるその小さな儀式は、二人だけの、大切な時間でした。


 日課を終え、帰ろうとした、その時のことです。


 誰かが供えた小さな桜餅を狙って、カラスが祠めがけて飛んできました。


 Dさんは「食べられても仕方ない」と思いながらも、供えた人の気持ちを思うと忍びなく、箒を手に追い払おうとしました。しかしカラスも空腹だったのでしょう。威嚇するように飛び跳ねながら、向かってきます。


 後退りしながら橋のたもとまで下がったとき、カラスが勢いよく突っ込んできました。咄嗟に箒で防ぎ、反撃しようと振り上げた瞬間――箒が首から下げたネックレスに引っかかり、プツッと切れ、指輪は放物線を描いて、池へぽちゃんと落ちてしまいました。


「あっ」と思った時には、もう、どうしようもありません。


 悲嘆に暮れるDさんに同情したのか、カラスは供え物にも目をくれず、静かに飛び去っていきました。


 奥様の形見の、小さな銀の指輪。値段は大したものではなくても、大切な思い出の品。亡くなってから一日も肌身離さず持っていたものです。池の水は澄んではいるものの深く、底には小石と落ち葉と苔。小さな指輪を見つけるのは、容易ではありません。


「仕方なか。あれはもう、奥さんとこに帰ってしもうたっちゃろ」


 誰に言うでもなく、ぽつりと呟いて、その日は帰ったそうです。


 それからDさんは、以前よりも長く、祠の前に立つようになりました。掃き清める手つきは変わらないものの、祈る時間が、ずっと長くなった。はじめは「熱心に祈っていれば、ひょっこり指輪が戻ってくるのでは」と思っていたそうです。けれどやがて、「奥様が、この池にいるような気がする」と感じるようになり、奥様の住処を清めるような気持ちで、祠を掃くようになったといいます。


――――――


 数日後の、夕刻のことです。


 放課後になると、近所の子どもたちが、虫取り網を手に池へ集まってきました。池の畔で網を水に沈めては、何か捕れないかと騒いでいます。


 池には鯉が自生しており、それを狙ってサギもやってきます。子どもたちが遊んでいるすぐ横で、サギはいつものように微動だにせず、狩りの体勢を整えていました。その鋭い眼差しに気づいた子どもたちは、誰からともなく黙り込み、固唾を呑んで様子をうかがいました。


 次の瞬間、サギは素早い動きで水面を突き、少し大きめの鯉の稚魚を一匹、くちばしで捉えました。魚をくわえたまま飛び立ち、子どもたちのいる方角へと向かってきます。地面すれすれをかすめた、その瞬間――サギはコツンと何かを落として、そのまま飛び去ってしまいました。


 一部始終を見ていた子どもたちは、落ちたものへ一斉に駆け寄りました。


「ねえ、これキラキラしとるよ!」


「指輪だよ。お母ちゃんがつけとるのと同じ感じ!」


 鳥が落としていったのは、鈍く光る、銀色の指輪でした。子どもたちは、文字どおり降って湧いたお宝に夢中になりました。ひとしきり盛り上がったあと、その場にいた唯一の女の子が、みんなから「持って帰っていいよ」と譲られ、それを手にすることになりました。


――――――


 家に帰り、夕ご飯を待ちながら、女の子は蛍光灯に指輪をかざしては、きらりと光るのを楽しんでいました。


 その様子に気づいたおばあさんが、声をかけます。


「どぎゃんしたとや、その指輪は」


「池でね、サギが魚くわえて飛んでったら、なんか落としていったの。それがこれ」


 おばあさんは指輪を受け取り、光にかざして、じっと見つめました。値打ち物には見えませんが、内側には、イニシャルと結婚記念日の刻印がありました。


「こりゃあ……誰かの、大事なもんかもしれんね」


「どうしたらよかと?」


「そうじゃねぇ……誰のもんか、聞いてみらんといかんね」


 翌朝、二人は公園に併設された市の施設へ、指輪を届けることにしました。


――――――


 事情を聞いた施設の職員は、すぐに思い当たりました。先日、指輪を池でなくしたと話していた、Dさんのことです。


 連絡を受けたDさんは、電話口で大喜びでした。「すぐに行きます。直接お礼が言いたいので、少しだけ待っていてください」と。おばあさんも「そんなに大事な指輪なら、直接渡したい」と思い、待つことにしました。


 息せき切って施設に飛び込んできたDさんは、丁寧におばあさんへお礼を伝え、大事そうに指輪を胸に抱きしめて、しばらく言葉を失っていました。


 その姿を見て、おばあさんは静かに微笑みました。


「よかったですねぇ」


 Dさんは涙をこぼしながら、言いました。


「ありがとう……本当に、ありがとうございます」


 その声には、奥様への想い、指輪が戻った安堵、そして目の前の見知らぬ人への感謝が、ひとつになって滲んでいました。


――――――


 それからDさんとおばあさんは、時々、お茶を飲むようになりました。お互いに伴侶を亡くした者同士、話題は自然と、昔の思い出や、今のささやかな日々のことへと流れていきます。


 やがて、どちらからともなく、朝の散歩に誘い合うようになりました。


「健康のためにも、歩かんといけませんなあ」


「そうですね。せっかくですけん、水神さんにも挨拶していきましょう」


 毎朝、二人は並んで、湧水公園へ向かいます。Dさんが祠を掃き清め、おばあさんが小さな花を供える。その光景は、まるで祠が、ずっと前からそうなることを知っていたかのようでした。


 私も朝の散歩で、その二人を見かけることがあります。そのたびに、思うのです。


 ――あの日、池に落ちた指輪は、ただの偶然ではなかったのかもしれない。水神様が、寂しさを抱えた二人を、そっと引き合わせたのではないか。


 いいえ、もしかすると――池に還った奥様ご自身が、独り残されたDさんを案じて、水神様の手を借り、新しいご縁を手繰り寄せたのではないか。そんなふうにも、思えてくるのです。


――――――


 ある朝、思いつきでふらりと公園へ立ち寄ったとき、ふと、池の水面が、いつもより強く揺れているのに気づきました。風は吹いていないのに、水面だけが、まるで誰かがそっと触れたように、波紋を広げている。


 Dさんの言葉が、ふと耳によみがえりました。


「この水神様の世話をする人が、だんだん減ってきましてなあ。どなたかに引き継いでもらいたかとですがなあ」


 波紋を見つめながら、私は思いました。――お受けしても、いいのかもしれない。もしかしたら、私にも、幸せな偶然を運んでくれる気がするから。


 そういえば、ひとつ思い出したことがあります。水神様といえば、一般的には弁天様。嫉妬深いことで有名で、男女で参ると別れさせる……なんて話も、ありますよね。


 でも、この公園の水神様は、少し違うようです。


 むしろ、とてもお節介で――人と人を、そっと結びつけてくれる水神様なのかもしれません。

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