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【短編集】日常のすき間に潜むもの  作者: めこねこ


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広がる隙間

今回お伝えするのは、私の身近な知人から聞いた話です。


 その知人が住んでいたアパートでの出来事――どこか、気になりますよね。私が住んでいるのは、熊本市。ということは、知人も……。それ以上は、みなさまのご想像にお任せします。


 彼が住んだのは、築三十年ほどの、何の変哲もないアパートでした。そこで体験した、「隙間」にまつわる実話です。


 知人の名前は、仮にAさんとしましょう。


 Aさんは引っ越しシーズンを外れた八月に、仕事の都合で、急きょ部屋を探さなければならなくなりました。家賃は相場よりわずかに安い程度。事故物件という告知もありません。ただ、内見のときから、言葉にしにくい「重苦しさ」を感じていたといいます。


――――――


 引っ越し初日の夜。荷物の搬入が始まったのは夕方で、すべて運び終えたのは二十時を過ぎていました。疲れ果てたAさんは遅めの夕食を済ませ、翌日の仕事に備えて必要な荷物だけを段ボールから取り出すと、箱に囲まれたまま、眠りにつきました。


 どれほど眠ったでしょうか。何かの音が耳に引っかかり、ふと目が覚めました。枕元のスマートフォンを確認すると、深夜二時を少し回っています。


「……カリ……カリカリ……」


 枕元よりも少し奥、部屋のどこか遠い場所から、何かを引っ掻くような音がしていました。


 外からか、と思ったのですが、耳を澄ますと、どうも部屋の中です。泥棒にしては、音が小さすぎる。小さく、しかし確実に、繰り返し聞こえてくる。少し古いアパートだから虫かとも思い、あまり虫が得意でないAさんは、電気をつけて音の正体を探ることにしました。


 しかし、明かりをつけて部屋を見渡しても、何もいない。段ボールの隙間に何か潜んでいるのかと一つひとつ確かめましたが、それらしい気配もありません。


 気のせいか、と布団に戻り、目を閉じた瞬間――今度は、もっとはっきり聞こえてきました。


「……ガリッ……ガリガリッ……」


 音の方向が、はっきりとわかりました。壁際。部屋に備え付けられた、古い作り付けのクローゼットの中からです。


 Aさんは意を決し、勢いよく扉を引き開けました。中には自分のスーツが数着掛かっているだけで、虫らしい姿はどこにもありません。


 ただ一つ、おかしな点がありました。


 勢いよく開けた扉の内側。その合板に、妙な傷があったのです。ほんの数ミリほどですが、木の表面が、不自然に削れていました。


 まるで、内側から爪で必死に掻きむしったかのように。


――――――


 入居から二週間が過ぎる頃、怪現象はひとつずつ、しかし確実にエスカレートしていきました。


 夜な夜な続く「ガリガリ」という音に加え、部屋の至るところに、小さな「隙間」が現れ始めたのです。


 ふすまをきっちり閉めても、翌朝には必ず、指一本分だけ開いている。コンセントのプレートが浮き、不自然な隙間ができている。畳と畳の間に、わずかな隙間が生まれている。台所に置いた鍋の蓋がずれ、閉じたはずのノートパソコンも、少し浮いている。


 気づかなかっただけかもしれない。Aさんは最初、そう思おうとしました。しかし、毎日、確実に、増えていく。


 そして隙間とともに、部屋には「古い土の匂い」が漂い始めました。草を抜いたときの、新鮮な土ではありません。何十年も日の当たらない場所に閉じ込められた、じめじめとカビ臭い、淀んだ空気。すえた匂い、とでも言えばいいでしょうか。


 Aさんは夜中に、何度も目を覚ますようになりました。そのたびに気になるのは、いつも決まって、クローゼットでした。扉がわずかに開き、その「隙間」の奥で、何かが動いている。


 暗くて、奥は見えません。しかし、Aさんにはわかりました。「目」が見える、と。


 どうして目だとわかったのか、と私は聞きました。


 Aさんは、こう答えました。


「隙間の奥を見ていると、うっすらと白い楕円形が見えて、その真ん中で、黒いものが右に、左にって動いているんだよ。目ってさ、黒目と白目があるだろ。あれにしか見えないんだ」


 そして、その目の下で、白いものがごそごそと動いている。その動きこそが、あの「ガリガリ」という音の正体だというのです。まるでクローゼットの扉の隙間に爪を立て、こちら側へ必死にこじ開けようとしているように見える、と。


――――――


 精神的に限界を迎えたAさんは、夕食でよく立ち寄る惣菜屋のおばちゃんに、それとなくアパートのことを尋ねました。昔からこの辺りで商売をしている、話し好きで明るい人でした。


「あのアパート、建つ前は何があったんですか?」


 おばちゃんの表情が、一瞬で曇りました。黙り込みます。しかし、Aさんのやつれた顔を見て、意を決したように、重い口を開きました。


「……あそこはね、昔は大きな商家のお屋敷が建っていてね。敷地の庭の隅に、古い土蔵があったんよ。戦前かな……そこに、酷く折檻を受けていた子どもがいた、という噂があったのよ。親の言うことを聞かない子だったって話なんだけど、それにしても、酷い話でね。閉じ込められて、何日も外に出してもらえなかったって」


 その子は、蔵のわずかな隙間から外を見ようと、指の爪が剥がれるまで、壁を削り続けていたといいます。


「結局、その子は、蔵の中で……。それから商家も程なくして潰れてね、空き家が長く続いたあと、敷地が売りに出されて、残っていた蔵も取り壊されて、今のアパートが建ったんよ。蔵を壊す時にね、中を見たら、壁の裏側に、びっしりと、爪で削ったような跡が残っていたって」


 おばちゃんはそこで言葉を止め、静かに目を伏せました。


――――――


 おばちゃんの話を聞いた、その日の夜。


 Aさんは恐怖で一睡もできず、部屋の明かりをすべてつけたまま、座り込んでいました。


 時間は深夜二時を過ぎた頃でしょうか。クローゼットの奥から、また音が立ち始めました。ガリガリ……と。そして次の瞬間、これまでで最大の音が、部屋に響き渡りました。


「ミシミシ……バリッ!」


 合板が割れる音。見ると、クローゼットの奥から、無数の白い指が突き出していました。


 一本や二本ではありません。何十本もの細い指が、隙間を広げようと、狂ったように動いている。指先からは血が滲み、爪は剥がれ落ち、むき出しになった骨が壁を削る音が、部屋中に響いていました。


「出たい……出たい……」


 声とは呼べない、隙間風のような囁きが聞こえた瞬間、Aさんは悟りました。これは霊なんかじゃない。ここにいた誰かの、強烈な執念そのものだ。そして、その隙間が完全に開いたとき、中から「全身」が出てくる。そうなったら、自分はこの部屋から、二度と出られなくなる。


 Aさんは財布とスマートフォンだけをつかみ、裸足のまま、部屋を飛び出しました。


――――――


 Aさんは、アパートに戻る気になれませんでした。その夜は近くのファストフード店で夜を明かし、翌朝すぐに不動産屋へ連絡しました。荷物はすべて、業者に引き取りと処分を依頼しました。


 ただ、一点だけ、気になることがあります。業者から届いた、奇妙な報告でした。


「お客さん、クローゼットの扉が壊れて、大きく穴が開いていましたよ。何かぶつけたんですか? あ、でも、内側から開いた感じだったな……何か大きなものを入れて、内側から押し出されたような感じでしたね」


 内側から、押し出された。


 その言葉が、後になって、まったく別の意味を持つことになるとは、このときのAさんは、まだ知りませんでした。


――――――


 Aさんは現在、別のマンションで暮らしています。しかし、夜に電気を消して眠ることが、できません。


 そして最近、気づいてしまったのだと言います。


 あの日から、どんなに新しい部屋に移っても、どんなに目張りをしても――誰かが、どこかから見ている気がする。ふとした瞬間に、自分の足元や袖口の隙間から、あの「土の匂い」が漂ってくる、と。


 それだけではありません。手首や足首、首筋――シワの寄る皮膚に、細い細いひび割れが入り始めているというのです。


 私は実際にAさんに会って話を聞いていますが、その匂いも、ひび割れも、私には感じられません。けれどAさんは、静かな声で言うのです。


「皮膚のひび割れの奥から、毎晩、小さな目が、こちらを覗いてくるんだ。そして少しずつ、少しずつ……」


 言葉が途切れ、Aさんは、ぽつりと続けました。


「……内側から」


 その隙間を、小さな指が押し広げようとしているのだと。


――――――


 今夜、あなたの部屋のふすまは、きっちり閉まっていますか。


 もし、指一本分でも開いていたなら――どうか、覗かないことをお勧めします。


 その隙間を広げようとしているのが、外側にいるものとは、限りませんから。

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