第九話 文化祭準備は、恋に遅れていたものを浮かび上がらせる
文化祭前の学校には、独特の時間が流れる。
授業はある。チャイムも鳴る。出欠も取る。黒板にもちゃんと日付が書かれる。けれど誰も、それが本来の学校の時間だとは思っていない。全員が別の時計を見ている。放課後まであと何時間か。準備は間に合うか。誰が来るか。誰と回るか。どの展示が面白いか。どこで誰とすれ違うか。
そういう、本来は学校の外に置いておくはずの感情まで、校舎の中へ持ち込まれる。
だから文化祭前は、恋に遅れていたものが急に表へ浮かぶ。
普段ならごまかせる視線の向き。言葉の選び方。誰の名前にだけ反応が早いか。誰の話題だけ、冗談で済ませられないか。
全部、少しだけ分かりやすくなる。
分かりやすくなるぶんだけ、面倒だ。
◇
文化祭まで、あと三日。
朝のホームルーム前だというのに、二年棟の廊下にはもう段ボールが出ていた。教室の前には模造紙、ペンキ、紐、延長コード。風紀的にはおそらくあまり良くない。だがこの時期の先生たちは多少のことを見逃す。どうせ全部、夕方にはさらに散らかるのだから。
俺はそんな廊下を、生活記録同好会用のクリップボードを持って歩いていた。
最近の役割はほとんど便利屋だ。展示の進捗確認、説明文の読み合わせ、危険箇所のメモ、誰かが失くした備品の確認、ついでに空気の悪くなっているクラスの雑用まで回ってくる。
しかもそれを、俺はわりと断れない。
見つけるのは上手い。なくさないのは下手。全部拾おうとしすぎるな。
ここ一週間で、かなりいろんな方向から似たことを言われた。
たぶんその通りだと思う。思うから余計に、最近は自分が何を見て、何を後回しにしているのかを少しだけ意識するようになった。
その矢先だった。
「鷹取くん」
廊下の向こうから、柊木星彩が早足で来る。
「おはようございます」
「おはようございます」
「すみません、二年一組の展示パネル、説明文の仮原稿だけ見てもらえますか」
「今ですか」
「今です」
「かなり切羽詰まってますね」
「切羽詰まっています」
即答だ。
星彩はもう、その状態を変に取り繕わなくなってきた。前なら「対処可能な範囲です」とか言っていたはずだ。少しだけ、良い変化かもしれない。
「一組、何かあったんですか」
「説明文の担当が二人とも『文章より装飾が大事』と言い出しました」
「地獄」
「地獄です」
俺は吹き出しかけて、どうにか耐える。
「笑わないでください」
「すみません」
「今日は一回目です」
「もう数える前提なんですね」
「最近、必要なので」
言いながら、星彩は手にしていた紙を差し出す。説明文の仮原稿。内容は悪くないが、言葉が少し軽い。展示そのものより「映え」を優先した文面になっていて、読んだ人の印象が浅い。
「これ、もう少しだけ言い切らないほうがいいかも」
俺は言う。
「“絶対楽しめる”とか“最高の思い出になる”とか、そこまで言うと逆に安く見える」
「やはり」
「“楽しめるよう準備中です”くらいの逃がしがあったほうが、真面目に見える」
「分かりました。そこ直します」
星彩は即座に赤ペンを走らせる。迷いがない。
だがその途中、廊下の先で何かが弾けるみたいに笑い声が上がった。
見ると、二年二組の前で三島がクラスメイト数人と話していた。手にポスターの下書きを持っている。隣には女子が一人。たぶん同じ実行委員だろう。距離が近いわけではない。ただ、星彩が反応するには十分だった。
赤ペンが、一瞬だけ止まる。
それからすぐに動き出す。
ほんの半拍。前より短い。けれど、ゼロではない。
「……」
「何ですか」
「いや」
「今、何か言いかけましたね」
「言ってもいいですか」
「内容によります」
「前より止まる時間、短くなったなって」
星彩の手が止まる。
今度はペン先ごと、きれいに止まった。
「それは」
視線を紙へ落としたまま、彼女は言う。
「褒めているんですか」
「たぶん」
「たぶん」
「慣れてきた、という意味なら」
「……」
「違う?」
星彩は少しだけ黙ってから、低く息を吐いた。
「違いません」
小さい声だった。
「でも、それを本人に言うのはあまり褒め方として上品ではありません」
「上品さの採点が厳しい」
「わたしは厳しいですよ」
けれど、そのあとでほんの少しだけ口元が緩む。
その変化を見つけてしまう自分に、また澪菜の言葉を思い出す。
ちゃんとしてる外側がちょっと割れた瞬間に、妙に真剣になる。
ずるいなあって。
ずるいのかもしれない。
でも、そこがその人の“ただの役割じゃない部分”なら、見てしまうのはたぶんやめられない。
◇
一時間目と二時間目のあいだ、生活記録同好会の資料整理室には三人集まっていた。
俺、星彩、そして澪菜。
珍しい組み合わせではないが、この三人だけだと微妙な空気になることがある。悪い意味ではない。ただ、それぞれが相手の気配を少しずつ読み合っている感じがして、会話の密度が変わるのだ。
「はい、お茶」
澪菜が紙コップを三つ机に並べる。
「ありがとうございます」
星彩が言う。
「名塚さん、最近ここにいる時間長いですね」
「え、そうですか?」
「そうです」
「同好会員ですし」
「知っています」
「あと、文化祭前で何となく手が足りないので」
「それも知っています」
澪菜は笑う。いつも通りの、明るくて少し雑な笑い方。
ただ、少し前まで俺には、その“いつも通り”がいちばん見えにくかったのだと思う。
近すぎるから。最初からそこにあるから。異常値として認識しにくいから。
でも最近は違う。遅れて分かり始めたことがある。
たとえば今も、澪菜は星彩の紙コップだけ、机の中でもっとも取りやすい位置に置いた。俺のはついで、みたいに少し離れている。距離感の問題ではない。澪菜は緊張している相手ほど、先に世話を焼く。そうすることで、自分の気持ちの立ち位置を整理する癖がある。
たぶん、これは自分でも無意識のやり方だ。
「透真」
澪菜が言う。
「さっきから何」
「何が」
「見てる」
「見てない」
「見てるよ」
「出た、見てない人の言い方」
星彩が淡々と挟む。
「それ、どこかで聞いた」
俺が言う。
「最近よく言われるので」
澪菜が吹き出した。
「うわ、委員長さん、けっこう乗るようになった」
「乗っていません」
「いや今ちょっと乗った」
「事実確認です」
「そのへん結構好きです」
「評価を保留します」
前より明らかに会話が軽い。星彩が完全に肩の力を抜いたわけではないが、少なくとも“正しく振る舞うこと”だけに全ての神経を割いてはいない感じがある。
それはいい。
いい、のだが。
その変化を一番先に見てしまうのが自分だということに、少しだけ後ろめたさもある。
「はいはい、じゃあ仕事」
澪菜が机を軽く叩く。
「二年二組の件、説明文どうなったの?」
「修正版がこちらです」
星彩が紙を差し出す。
「匿名文章掲示は廃止ではなく、事前提出・内容確認ありの形式へ変更」
「“思い出の一文”じゃなくて、“文化祭へのひとこと”に寄せたんだ」
「ええ。個人的な記述が前面に出すぎないように」
「よかった」
澪菜が、少しだけ本気の声で言う。
「それ、よかったです」
星彩がその声を聞いて、わずかに澪菜を見る。
「名塚さんも、あの形式は危ないと思っていましたか」
「え」
「以前から、少し反応が強かったので」
澪菜は一瞬だけ笑顔を止めた。
ほんの短い静止。だが、近くで見ていれば分かる。答えを選んでいる顔だ。
「まあ、文化祭ってテンションで雑になるじゃないですか」
澪菜は言う。
「だから、なんとなく」
「なんとなく、でそこまで?」
星彩が聞く。
「そういうの、前に見たことあるので」
「……」
それ以上は言わない。
でも星彩はそれで十分理解したらしい。小さくうなずいて、追及をやめた。
その沈黙の扱い方が、少しだけ大人になった気がして、また目が行く。
見つけるだけで満足するな。
結月に言われたことが頭に浮かぶ。
今のは、ただ見て終わらせるべきじゃない場面なのかもしれない。でも何をすれば“正しい”のかは分からない。
そして、その“分からなさ”のなかで、文化祭は待ってくれない。
◇
三時間目のあと、二年二組の前を通ると、展示の下書きがまた変わっていた。
写真より文章が控えめになり、代わりに色紙の装飾が増えている。企画全体が、個人の感情をあからさまに扱わない方向へ修正されていた。悪くない落としどころだと思う。
だが、教室前の掲示板に一枚だけ、不自然に貼り替えられた紙があった。
仮ポスターのラフ案。前の案と比べると、タイトルの字だけが別人の手に見える。
筆圧が違う。線が少し硬い。しかも、下地の鉛筆のあたりが前の案より濃い。上からなぞったのではなく、一度消して書き直している。
誰かが変えた。
「……またか」
思わず呟く。
そこへ、後ろから声がした。
「何かありましたか」
振り向くと、篠浜結月だった。
図書室当番の前らしく、手には返却本の束を持っている。
「結月」
「先輩、今“結月”って」
「え」
「名字じゃなく」
「……悪い」
「いえ」
結月は少しだけ間を置く。
「別に」
「その“別に”も信用できない感じありますね」
「学習しましたね」
ほんの少しだけ、彼女の口元が緩んだ。
「で、何見てたんですか」
「あれ」
掲示板を指す。
「タイトルだけ、書き直されてる」
結月は返却本を抱えたまま掲示板を見る。
「本当ですね」
「前の字を知ってる?」
「昨日、柊木先輩が見ていたときの案なら」
「たぶんそれ」
「これは違います」
「だよな」
「でも、変えた理由までは分かりません」
結月は淡々と言うが、視線はもう少し先まで見ている感じがする。
「何」
「……」
「あるなら言って」
「言うほどではありません」
「その言い方、大体言うほどなんだよ」
「先輩、最近少しだけ図々しいです」
「誰のせいだと思ってる」
「周囲の女性陣では」
「他人事みたいに言うな」
結月は静かに本を抱え直してから、小さく言う。
「この時期、字を書き直すのは、たいてい“誰の色に見えるか”を気にしたときです」
「誰の色」
「可愛すぎるとか、目立ちすぎるとか、あの人っぽいとか」
「……」
「つまり、内容より、誰が前に出て見えるか」
それは妙に納得できた。
文化祭前のクラスは、共同作業の顔をしていて、実際には“誰の企画に見えるか”のせめぎ合いが起きる。前へ出る人。引く人。目立たないように調整する人。誰かの色が濃くなりすぎると、別の誰かが手を入れる。
恋も、たぶん少し似ている。
誰がどの位置に見えるか。誰が前に出て、誰が引くか。
「先輩」
結月が言う。
「今日、少し疲れてます?」
「顔に出てる?」
「半分くらい」
「死んでるほどではない?」
「そこまでは」
最近、この子との会話はだいぶ調子が出てきた気がする。静かなままなのに、妙にテンポがいい。
「文化祭前で、みんな少しずつ何かを隠せなくなってる感じがする」
俺が言う。
「はい」
「それが面倒」
「はい」
「でも、見えるのは見える」
「そうですね」
結月は少しだけ視線を落とした。
「見えたあとに、どれを持つか」
小さく言う。
「先輩、まだ決めきれてない顔をしてます」
図星すぎて、返す言葉がない。
◇
放課後。生活記録同好会は、文化祭前でほとんど臨時本部みたいになっていた。
付箋が増える。紙が増える。人の出入りも増える。いつもなら静かな資料整理室に、今日は乙部玻乃まで顔を出した。
「やっほー、後輩くんたち」
扉にもたれながら、先輩が言う。
「空気悪い?」
「悪くはないです」
俺が答える。
「重い」
澪菜が言う。
「でも嫌いじゃないやつ」
「それはたぶん面倒の中毒だね」
玻乃が笑う。
「文化祭前の学校の空気って、みんなちょっと酔ってるから好き」
「危ない人の発言」
澪菜が言う。
「褒めてる?」
「半分」
その“半分”がすっかりこの場の共通語みたいになってきている。
星彩はというと、乙部先輩の登場に少しだけ眉を寄せたものの、前みたいに完全に警戒モードへ入ることはなかった。
「乙部先輩、何か用ですか」
「用っていうか、差し入れ」
玻乃は紙袋を掲げる。
「駅前の商店街の饅頭。糖分は文化祭準備の正義だから」
「急に優しい」
澪菜が言う。
「私はいつも優しいよ」
「冗談の比率が高すぎて判別しづらい」
「今日は優しさ六割」
「増えてるなあ」
澪菜が紙袋を受け取り、中を見る。
「わ、ちゃんと人数分ある」
「見くびらないでよ。年上はこういうとこ気が利くんだから」
「年上ムーブが強い」
「強めに出してる」
その軽口のやり取りを聞きながら、俺は部屋の空気を見ていた。
澪菜は普段より少し明るく喋っている。星彩は平静だが、乙部先輩がいるぶんだけ観察される側の意識が強い。結月は壁際で必要以上に喋らないかわりに、全体の流れを見ている。そして玻乃は、その全員の温度差を面白がる手前で止めている。
恋の中心にいる誰かがいるわけではない。
でも、全員が少しずつ“他人事ではいられない”顔をしている。
文化祭準備というのは、こうして関係の輪郭を勝手に浮かび上がらせるのだろう。
「で」
乙部先輩が饅頭をひとつ取りながら言った。
「何があったの」
「何が」
俺が返す。
「その“何が”って返しの時点で、少なくとも三件ある」
「……」
「図星」
そこで澪菜が吹き出す。星彩は少しだけ呆れたように目を伏せ、結月は何も言わないが、たぶん当たっていると思っている顔だ。
「二年二組のポスターがまた書き直されてた」
俺は諦めて言う。
「匿名展示は修正版で落ち着いたのに、今度はタイトルの字だけ別人」
「へえ」
玻乃が興味深そうに言う。
「色の奪い合いだ」
「さっき結月にも言われた」
「お、後輩ちゃん賢い」
玻乃が言う。
「知ってる」
結月が小さく返す。
「うわ、喋った」
澪菜が笑う。
「喋りますよ」
「それはそう」
星彩が机の上の資料を見ながら言う。
「文化祭前は、内容より“誰の企画に見えるか”のほうが問題になることがあります」
「そうだな」
俺がうなずく。
「で、その“誰の色”に恋愛感情が乗るとさらに面倒」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ止まった。
言った本人も気づいたらしく、星彩が視線を上げる。
「……今のは、少し不用意でした」
「いや」
玻乃がすぐに言う。
「正しいよ、委員長ちゃん」
乙部先輩は冗談を足さなかった。そこが逆に、本気度を感じさせる。
「文化祭ってさ」
先輩が饅頭の包みを指先で回しながら言う。
「普段は遅れてたものが、急に前へ出てくる時期なんだよ」
「遅れてたもの」
澪菜が聞く。
「恋とか、遠慮とか、嫉妬とか、“今さら言わなくてもよくない?”で済ませてきたやつ全部」
誰もすぐには喋らなかった。
それぞれに、思い当たるものがあるのだろう。
俺も、あった。
澪菜の寂しいだけ、という声。星彩の、悔しいのに少しだけ楽だと言った顔。玻乃の、引き際を探す年上の冗談。結月の、沈黙でしか守れないもの。
全部、たぶん“遅れていたもの”だ。
放っておけば、このまま文化祭のざわめきの中に紛れるかもしれない。あるいは逆に、ざわめきのせいで形になってしまうかもしれない。
そのどちらも、少し怖かった。
◇
その日の帰り、駅前ではなく海の見える坂の途中で、俺はふと足を止めた。
空はもう暗くなり始めている。街の灯りが坂の下に点き始め、遠くで電車の音がする。海は黒くてよく見えない。ただ、風の匂いだけがそこにあることを教える。
スマホが震えた。星彩からだった。
『二年二組のポスター件、明日もう一度確認します。必要なら鷹取くんにも見てもらいたいです』
すぐあとに、澪菜からも来る。
『明日、朝ちょっと早く出られる?』
さらに遅れて、玻乃から。
『後輩くん、文化祭前の顔してきたね』
最後に、結月から。
『図書室の件は一応落ち着きました。でも、見ている人はまだいます』
四人から、別々の内容で。
別々の距離で。
別々の重さで。
それを見た瞬間、妙に可笑しくなって、でも少しだけ息が詰まる。
文化祭準備は、恋に遅れていたものを浮かび上がらせる。
たぶん本当にそうなのだろう。
誰か一人の気持ちだけが大きくなるわけじゃない。全員の中に少しずつ遅れていたものが、この時期の騒がしさに押されて表へ出てくる。
問題は、それを見つけたあと、俺が何を先に持つのかだ。
まだ答えは出ない。
でも、出ないまま進んでいくには、文化祭はもう近すぎた。




