第十話 あきらめたふりをする幼なじみの横顔
夕暮れの坂道は、言い訳が効かない。
朝ならまだ「眠い」とか「急いでる」とか、どうでもいい理由で会話の温度を誤魔化せる。昼なら周囲のざわめきがある。放課後でも、駅前なら人の流れが空気を散らしてくれる。
でも、文化祭前の遅い帰り道、海の見える坂の途中に二人きりでいると、誤魔化しようのないものだけが残る。
空の色。風の向き。並ぶ歩幅。少し遅れた返事。相手の名前を呼ぶまでの一拍。
そういう、小さいくせに逃げ場のないものだ。
そして、幼なじみという関係は、そういう場面でいちばんややこしい。
◇
文化祭まで、あと二日。
学校はもう、普段の学校ではなかった。
授業は形だけ。放課後は完全に準備モード。教室の机は後ろへ追いやられ、廊下には模造紙とガムテープ、教壇にはペンキの缶、窓際には未完成の装飾が積まれる。誰もが忙しい顔をしている。実際に忙しいやつもいるし、忙しい顔だけして仕事を避けているやつもいる。そのへんは毎年変わらないのだろう。
生活記録同好会も、もはや何の同好会だったか分からない状態だった。
二年二組のポスター差し替えは結局、クラス内の“目立ちすぎるデザインは誰の案に見えるか問題”の延長だった。大ごとにするほどではないが、放っておけば感情が残る類いのやつだ。星彩が間に入り、俺と結月が空気の重さを測り、どうにか表立った揉め方は避けられた。
図書室の投書も一応は落ち着いた。結月の言う通り、“線だけ引いて広げない”形にしたことで、少なくとも今すぐ公開処刑みたいなことにはならずに済んでいる。
だが、学校全体のざわつきが収まったわけではない。
むしろ、近づいている。
全員が少しずつ、感情の処理を雑にし始めている。
そういう時期だった。
放課後の資料整理室で、俺は二年三組の展示記録をまとめていた。時間はかなり遅い。窓の外はもう夕方の終わりで、校舎の端から見える海もほとんど色を失っている。
「まだ残ってたんだ」
入口から声がした。
振り向くと、澪菜だった。
制服の袖を少しまくり、髪はいつもよりやや乱れている。いかにも今日はちゃんと作業していた人間の顔だ。鞄を肩にかけたまま、扉にもたれている。
「そっちこそ」
俺が言う。
「クラスの準備終わったのか」
「終わったっていうか、強制終了」
「何だそれ」
「担任が“今日はここまで!”って追い出した」
「珍しくまともだな」
「ね。文化祭前って先生までちょっと変になるのに」
澪菜は部屋へ入ってきて、机の上の紙束を見る。
「うわ、まだやってる」
「まとめだけ」
「委員長さん案件?」
「半分」
「またその半分だ」
「便利なんだよ」
「もう言い方が乙部先輩寄りなんだよなあ」
澪菜はそう言って笑った。
でもその笑い方を見た瞬間、少しだけ胸がざわつく。
まただ。
遅い。
半拍というほど小さくはない。もっとはっきりした“作った笑い方”だった。
「……何」
澪菜が言う。
「今の顔、だいぶ見た」
「どの顔」
「“あ、また拾ったな”って顔」
「そんな顔してたか」
「してたよ。最近ほんと分かりやすい」
最近ほんと分かりやすい。
それは、俺のことなのか、澪菜のことなのか、一瞬分からなくなる。
「もう帰る?」
澪菜が聞く。
「あとちょっと」
「待つ」
「別に先帰っていいぞ」
「いや」
澪菜は机の端に腰をかけるみたいに寄りかかって、窓の外を見た。
「今日は一緒に帰りたい気分」
それ自体は、昔からよくあることだ。
でも“今日は”とつける言い方に、少しだけ引っかかるものがある。
俺は手元の紙を整理しながら、その横顔をちらりと見る。
澪菜はぼんやり外を見ていた。夕方のガラスに映る自分の顔と、その向こうの暗くなりかけた空を重ねるみたいに。
何か考えている。
そしてたぶん、それをまだ言う気はない。
◇
結局、学校を出たのはかなり遅い時間だった。
昇降口の人影もまばらで、部活帰りの生徒が少し残っている程度。外へ出ると風が冷たくなっていて、海の匂いが昼より強かった。
空は夕焼けというより、もう紺色に近い。西の端にだけ、かろうじて光の薄い帯が残っている。
「遅くなったね」
澪菜が言う。
「そうだな」
「文化祭前って感じ」
「どんな感じだよ」
「帰りたくないような、帰りたいような」
「曖昧だな」
「文化祭前ってそういうもんじゃない?」
坂を下り始める。
並んで歩く。雨ではないから傘はない。けれど夕方のこの時間帯の坂道は、晴れていても雨の日みたいに距離が近く感じることがある。周りが静かだからだろう。
「今日さ」
澪菜が言う。
「二年二組、だいぶ落ち着いたらしいね」
「誰情報だよ」
「委員長さん」
「いつの間に」
「さっき、廊下で会った」
そこで少しだけ、言葉が止まる。
「……何」
俺が聞く。
「いや」
澪菜は笑う。今度も少し遅い。
「ほんと、よく会うなって」
「仕事だろ」
「知ってるよ」
「なら」
「別に責めてないって」
責めてはいない。
でも、軽くもない。
その温度が分かるくらいには、最近の俺は澪菜を“いつもの幼なじみ”の一括りで処理しないようになっていた。
「澪菜」
「はい」
「言いたいことあるなら言えよ」
「何それ、急に」
「急じゃないだろ。最近ずっとそんな感じだし」
「そんな感じって」
「笑う前に一回止まる」
「うわ、またそこ見てる」
「見るだろ」
「やめてよそういうの」
言い返しが少し強い。
でも、そこで黙るのも違う気がした。
「何で」
俺は言う。
「何でやめてほしい」
「……」
「見つけられると困るから?」
「そうだよ」
澪菜はあっさり言った。
「困るよ」
「何で」
「何でって」
「前も聞いた」
「じゃあ答えも前と同じ」
「“気づかれると、言わなきゃいけない感じになる”?」
「そう」
澪菜は前を見たまま歩く。
坂の途中、街灯がひとつ灯って、その下だけ道が白く浮く。俺たちはその光の中を通り過ぎ、また少し暗い場所へ入る。
「でもさ」
澪菜が言う。
「最近の透真、前よりそういうの拾うじゃん」
「悪いか」
「悪いっていうか……」
そこでまた、笑うまでの一拍。
「委員長さんのこととか、先輩のこととか、後輩ちゃんのこととか」
「……」
「ちゃんと一人ずつ見てる感じする」
「そうかもな」
「うん。そうだと思う」
「何が言いたい」
澪菜はすぐには答えなかった。
答えないまま、少しだけ歩く速度を緩める。俺も合わせて遅くなる。
この沈黙の長さは知っている。
本当に言うかどうか、最後まで迷っているときのやつだ。
「透真さ」
「うん」
「星彩さんみたいな子のほうが、合うんじゃない」
心臓が、少しだけ変な打ち方をした。
言葉自体は軽い。冗談みたいにも聞こえる。けれど、そう聞こえるように整えてあるだけで、本気の温度は隠しきれていなかった。
「……何でそうなる」
「何でって」
「話の飛び方が」
「飛んでないよ」
「飛んでるだろ」
「飛んでないって」
澪菜は笑う。でも今度の笑いは、自分でもうまく笑えていないのが分かる。
「だって透真、最近あの人のことよく見てるじゃん」
「仕事で一緒にいるからだろ」
「うん」
「それだけ」
「ほんとに?」
その“ほんとに?”が、妙にまっすぐで、返しを詰まらせる。
「……分からない」
結局そう答えた。
「正直でよろしい」
澪菜が言う。
「褒めてる?」
「半分」
「またそれ」
「便利だから」
乙部先輩の真似みたいなことを言って、澪菜は少しだけ顔を逸らす。
「でもさ」
また続ける。
「星彩さん、綺麗だし、ちゃんとしてるし、透真が“見つけがいあるな”って思いそうなタイプじゃん」
「見つけがいって言い方やめろ」
「だってそうじゃん」
「そういう見方してるわけじゃ」
「してるよ」
澪菜は即答した。
「透真、自分で気づいてないだけ」
その言い方が、少しだけ痛い。
たぶん、図星だからだ。
俺は確かに、星彩のほころびを見つけてしまう。見つけた瞬間、たぶん真剣にもなっている。澪菜に指摘されてから、そのことを否定しづらくなった。
でも、それがそのまま恋なのかと言われると、まだ分からない。
分からないままのものを、今この坂道で、澪菜相手にどう扱えばいいのかも。
「澪菜」
俺は言う。
「それ、何で言うんだ」
「何が」
「今の」
「……」
「俺に星彩さんのほうが合うとか」
澪菜は少しだけ黙る。
そして、びっくりするくらい静かな声で言った。
「そっちのほうが、楽だから」
足が止まりそうになる。
「楽?」
「うん」
「何が」
「私が」
そこでようやく、俺は全部つながる感じがした。
幼なじみだから、最初から近すぎる。応援側に回るほうが楽。前に出るタイミングが分からない。自分の番が来ないままでも平気なふりをしてきた。最初から近い人は、恋の登場人物になりにくい。
そして今、澪菜はたぶん、自分で自分を“脇へ置く”ことを選びかけている。
楽だから、じゃない。
そのほうが傷つき方をコントロールしやすいからだ。
「楽じゃないだろ」
俺が言う。
「……」
「そんな顔して言うなよ」
「どんな顔」
「言わせるな」
「またそれ」
澪菜は、少しだけ困ったみたいに笑う。
でも逃げきれないことも分かっている顔だった。
「だってさ」
澪菜が言う。
「もし私が“そんなことないよ、私だって前に出たいよ”って顔したら、透真、困るでしょ」
「……」
「困るよね」
「分からない」
「分かんないって答える時点で、だいたい困ってるんだよ」
痛いところを突かれる。
でも、それもまた事実だった。
俺は澪菜のことを軽く扱っているつもりはない。最近ようやく、それじゃ足りないとも分かってきた。寂しいと言った声も、平気じゃないくせに大丈夫なふりをするところも、前よりちゃんと見えている。
けれど、それを“好きかどうか”の言葉へ直結させるには、まだ何かが足りない。
その足りなさを、澪菜はたぶんもう感じている。
「ねえ」
澪菜が言う。
「別に責めてるわけじゃないんだよ」
「責められてるように聞こえる」
「それはごめん」
「……」
「ただ、私さ」
そこで一度息を吸って、
「透真のこと、誰かに譲るみたいなこと言えば、たぶん楽になれるかなって思ったの」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
譲る。
誰を。何を。まだ何も始まっていないのに。
でも、始まっていないからこそ、先に自分で退けば傷つかない、という発想になるのかもしれない。
「馬鹿だな」
気づいたら言っていた。
「ひど」
「ひどくていい」
「よくない」
「譲るとか言うなよ」
「……」
「誰もまだ、何も決めてないだろ」
澪菜が足を止めた。
坂の途中。海の見えるガードレールのあたり。夜の入口の色をした空。風だけが少し強い。
「じゃあ何」
澪菜が聞く。
「私、どうしてればいいの」
「それを俺に聞くな」
「だって透真、見つけるの得意じゃん」
「見つけるのと答え出すのは違う」
「知ってる」
澪菜は言う。
「でも、透真にだけは、見つけてほしかった」
それを言ったあと、澪菜は自分で少し驚いたみたいに目を逸らした。
たぶん、ここまで言うつもりはなかったのだろう。
俺も、すぐには返せなかった。
風が吹く。ガードレールの向こうで、見えない海の音がかすかにする。街の灯りが坂の下に続いている。
「……ごめん」
澪菜が小さく言う。
「今の、重いね」
「重いな」
「最低」
「そういうところだぞ」
「分かってる」
そこで澪菜は、ふっと笑った。
今度の笑いは、遅れていなかった。
代わりに、少しだけ泣きそうだった。
「でも、ちょっとすっきりした」
澪菜が言う。
「言っちゃったから」
「そっか」
「うん」
俺はしばらく考えてから、やっと言葉を探す。
「澪菜」
「何」
「俺、おまえのこと、ちゃんと見てなかったかもしれない」
「……」
「幼なじみだから、いつものおまえだから、で処理してたとこある」
澪菜は何も言わない。
「でも最近、それじゃだめだって分かってきた」
「うん」
「ただ」
「うん」
「そこから先を、今ここで綺麗に言えない」
情けない答えだと思う。
でも、それ以上に嘘っぽいことを言うのはもっと嫌だった。
澪菜は少しだけ目を細めて、俺を見る。
「うん」
静かに言った。
「それでいい」
「いいのか」
「よくはないけど」
「どっちだよ」
「でも、分かんないのに分かったふりされるよりはずっといい」
その言い方が、いかにも澪菜らしかった。
優しいのに、ちょっとだけ棘がある。棘があるのに、ちゃんとこっちを逃がしている。
「透真」
「何」
「私さ」
「うん」
「たぶん、あきらめたふりするの、うまいんだよね」
その自己分析が、妙に正確で、少しだけ苦い。
「今日みたいに言うまで、自分でも半分くらいほんとに諦めてる気になってた」
「……」
「でも違った」
「違った?」
「うん。全然、違った」
澪菜はそう言って、今度こそちゃんと笑った。
少しだけ寂しくて、でも朝の作った笑いよりずっと綺麗な笑いだった。
「私、ぜんぜん平気じゃなかった」
その一言が、今日のいちばん本当のところだったのだと思う。
◇
坂の下の分かれ道まで来ると、いつものように澪菜の家の方向と俺の家の方向が分かれる。
でも今日は、そこで急に別れたくない感じがあった。
俺だけじゃなく、澪菜にもたぶん。
「じゃあ」
澪菜が言う。
「今日はここで」
「おう」
「……」
「何」
「今さらだけど」
「うん」
「さっきの“星彩さんのほうが合うんじゃない”は、ちょっと意地悪だった」
「ちょっとじゃない」
「ごめん」
「まあ」
「でも半分くらい本音」
「やめろ」
「冗談」
「どこが」
「四割くらい」
「具体的だな」
そこで二人とも少しだけ笑う。
さっきまでの重さが、全部消えたわけじゃない。たぶん明日になれば、また少し気まずさも戻るだろう。それでも、今は前よりましだった。
「透真」
澪菜が最後に言う。
「私、応援側に回るの、ほんとはそんなに向いてないのかも」
「今さらか」
「今さらだよ」
「だいぶ今さらだな」
「うるさい」
澪菜は一歩下がって、自分の家のほうへ向き直る。
「でも、たぶんまたやりそう」
「だろうな」
「そのときは」
少しだけ振り返って、
「今日みたいに止めて」
その頼み方は、軽いのに、妙に真剣だった。
「分かった」
俺が言うと、澪菜は満足そうにうなずいた。
「じゃ、おやすみ」
「まだ夜ってほどじゃないだろ」
「気分」
「雑だな」
「今日はそういう日なの」
そう言って、澪菜は小走りで坂を下っていった。
その背中を見送りながら、俺はしばらくその場に立っていた。
あきらめたふりをする幼なじみの横顔は、思っていたよりずっと近くにあったのに、俺はちゃんと見てこなかったのかもしれない。
文化祭前のざわつきが、遅れていたものを浮かび上がらせる。
その通りだ。
今日浮かび上がったのは、澪菜の気持ちだけじゃない。
俺自身の“見つけたあと、どうするのか”という問題も、たぶんもうごまかせないところまで来ていた。




